大友宗麟の夢見たキリシタン王国

今回のいい寺は・・・
大友宗麟の夢見たキリシタン王国です。

大友宗麟は九州六ヶ国を手にいれたときには、出家して
休庵宗麟と名乗りました。
その後、家族との不仲から心の安らぎを求めてキリスト教
傾倒していきました
領地の拡大と南蛮貿易で富を得ましたが、自分勝手な
振る舞いから人心を掌握することが出来なかったようです

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大友宗麟は出家して仏門に入ったときも宣教師には
府内での布教活動を許可していました。
自身が洗礼を受けて《ドン・フランシスコ》となった時には
領内に多くのキリスト教信者がいました。

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大友宗麟は信仰を深めるあまり、キリシタンの理想郷
建設する名目で寺社仏閣を破壊したそうです

信仰は自由で皆平等ですよね。
自分が信仰する宗教ではないからといって、他人の
信じるもの壊しても良いということはありませんね!

このことで家臣の不審をかってしまい、大友宗麟の夢は
頓挫してしまいました
求めてやまない人々の信仰心を力によって破壊し強制
するような行為は、たとえそれが正しい理想であっても人々
の信任を得ることはできませんよね!

自らが信仰によって人格を磨き、発言や行動で模範とされる
ような行いを指導者自体が示さないと、新しい信仰は新しい地に
根付いていかないものでしょう

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大友宗麟の考えた理想郷とはどんなものだったのでしょうか。

南蛮貿易のなかで西欧諸国がキリスト教を国教として国を
統治していることを知り、宗教の力によって領内を治めようと
考えたのかもしれませんね。

そこに理想郷を創るチャンスが訪れました
当時の九州は、大友氏島津氏の二大勢力が領地を
二分していましたが、日向国(宮崎)は大友氏の親戚に
あたる伊東氏が治めていました。

その伊東氏は島津氏との合戦に敗れてしまい、大友宗麟の
元に落ち延びてきました
大友宗麟は、伊東氏が助けを求めたことを口実に日向
攻入りました。
日向にキリシタン王国を創る」という夢を叶えるために
四万の大軍を率いて・・・

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大友宗麟は南蛮船に乗って日向に向かいました
船内では同乗した宣教師のもと、欠かさずにお祈り
行いました
日向の北、延岡に上陸してからは、仮設の教会を
造り家臣や側室とともに毎日ミサを行ったそうです

夢の実現のため、神のご加護を・・・
大軍を率いた大友宗麟は、家来が戦果を挙げながら
南下する状況に勝利を確信していたのでしょう

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ところが、大友宗麟が到着する前に家臣は島津軍と合戦を
始めてしまい大敗北を喫してしまいました
耳川の合戦と呼ばれていますが合戦の地は高城川でした。
耳川は、敗走する大友軍の兵士が川を渡りきれずに
多くの死者が出た場所です。
大敗北を象徴する場所が、合戦の名前になっています。

大友宗麟の落胆も相当なものだったでしょうね。
二度と理想郷を創るチャンスは訪れませんでした

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大友宗麟の元に逃れた伊東一族の中には、8歳の伊東マンショ
いました。
伊東マンショは豊後でキリスト教と出会い、入信し司祭になる
ために神学校に進みました

当時宣教師の布教活動は財政難から思うようにいきませんでした。
そこで布教事業の立て直しと次代を担う邦人司祭育成のために
使節をローマに派遣することになりました。
大友宗麟は、神学校にいた伊東マンショを派遣することに
しました。

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天正遣欧少年使節の正使として、伊東マンショはローマ
向かいました
キリシタン王国創造に失敗した大友宗麟にとって伊東マンショが
一縷の望みだったかもしれませんね。

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使節一行はポルトガル、スペイン、ローマと渡り、ローマ法王に
謁見
ローマ市民権を与えられました。
フィレンツェではメディチ家による舞踏会にも参加したそうです
多くの収穫を得て、一行は日本に戻りました

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見聞を広めた一行が日本に戻ったときには、日本の情勢が
変わっていました
大友宗麟は亡くなり、豊臣秀吉によってバテレン追放令
出されていました。
キリスト教には逆風が吹いていましたが、使節団は聚楽第
豊臣秀吉に謁見することが出来ました。
西洋楽器の演奏などをして豊臣秀吉に気に入られたそうです

その後伊東マンショは大友宗麟の遺志を継いで九州を中心に
布教活動を行って教えを広めました

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大友宗麟は、天正遣欧使節団の帰りを待ちわびていたでしょう。
キリスト教の国という夢は儚く散ってしまいましたが、
信仰による真のキリシタン王国を
最後の夢を彼らに託しながら天に召されたと思います。

大友宗麟が理想という形にこだわらなければ、そして人々の心の
なかに根付く王国
を創ることに気付けば彼の夢は叶ったことでしょう!

本来、宗教は形を造り上げるものではなく、を蒔いたら自然と
実っていくものではないでしょうか
形に残さなくても、に芽吹いたものは決してなくなりません。

それはキリシタン禁止令が出された受難の時期を過ぎても
信仰の芽が残ったという歴史が証明していますよね

次は大友宗麟の蒔いた信仰の芽を探してみます

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