キリシタン大名 大友宗麟の蒔いた種

今回のいい寺は・・・
大友宗麟の蒔いた種です

 

大友宗麟が家督を息子に譲って丹生島城(臼杵)へ
隠居した時に府内(大分)の多くのキリスト教徒臼杵
移りました。
当時、大友宗麟のキリスト教への信仰心は揺るぎない
ものでした。
その強い意志のもとキリスト教の国を創るために日向
攻め込んだのは翌年のことでした。

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大友宗麟は島津氏との合戦の直前に洗礼を受けて、正式に
キリスト教徒となったのです。
洗礼名「ドン・フランシスコ」
欧州でキリストの聖地を取り戻しに十字軍が遠征したように
大友宗麟もキリスト教の国を創るという信念を持っていた
のでしょう。

合戦に負けて夢は叶いませんでしたが、キリスト教への
支援を積極的に行いました。
そして、臼杵に祈りの場としての教会と養成の場としての
修練院が出来ました
大友宗麟の庇護のもと臼杵は豊後のキリシタンの中心地
なっていきました。

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大友宗麟が亡くなってすぐに、豊臣秀吉がバテレン追放令
出しました。
九州地方のキリシタンは大慌てとなり、宣教師の間では比国・
マニラ王に海軍の派遣を願おうという話まで出たそうです。
そこで、天正遣欧使節が豊臣秀吉に謁見したときにヴァリニャーノが
インド副王の使いとして随行し、宣教師が日本に残れるよう尽力し
成功しました。

九州地方には多くの宣教師が残り、信者も増えたそうです。
徳川時代になるまで、臼杵はキリシタンの国として安泰でした。

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徳川幕府のキリシタン弾圧は徹底的なものでした。
臼杵も稲葉藩の領地となって、厳しい取締りが行われたそうです。
その関係か、町の中に当時のキリスト教を偲ぶものが見当たり
ませんでした。

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臼杵から完全にキリスト教の信者が消えてしまった
のでしょうか?
市内を巡るうちに、隠れキリシタン墓と推定される墓が
残っていると聞き二王座を後にし、探してみることにしました

しかし、なかなか見つけられず、地元の方に尋ねても、
役所の方に聞いても分かりませんでした・・・。

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臼杵の観光協会に電話したところ
「ちょっとわからないけど、調べて折り返し電話をしますね。」
と言ってくださいました

そして待つこと20分・・・
観光協会の女性はキリシタン墓の場所を調べてくれました。

名古屋から遠く訪れた九州の地で思いがけず触れた人の
温もり
顔の見えない電話の向こうの相手に「わかりません」と答えて
しまえばそれで済む話なのですが、この女性は真心を持って
相手に接することが出来る方なのだなと感じました

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やっとの思いで探し当てたキリシタン墓
畑の脇道に小さな小さな看板を見つけました。

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うっそうと茂る樹木の中にひっそりと祀られている墓
教えてもらわなければたどり着く事が出来なかったでしょう

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キリシタンの多かった臼杵市の中でも掻懐(かきだき)地区は、
江戸時代初期においても庄屋以下全員がキリシタンでした。
幕府のキリスト教弾圧によってこの地区は危機に立たされ
ましたが平清水の大橋寺の第6世道上人が、
この地区の民は仏教徒である』と
宣言したことによってその弾圧から逃れられました。

現在に至っても彼の命日には、この地区の人々は野菜を
持ち寄り報恩供養を行っているそうです。

信じるものが違ったとしても、相手の気持ちとなり
手をさしのべる事が、人間本来の姿なのでしょうね

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16~17世紀に造られた2基の墓です。
側面に彫られた十字架が確認できますね
しかし、2基とも十字架の他に記銘は見られませんでした。
キリシタン禁止令の中、ひっそりと信仰は受け継がれてきた
のでしょう。
近所の方の気遣いでしょうね、青葉が供えてありました

このように整備されて守られたお墓を見ると、受難の時期を
乗り越えても受け継がれた信仰の力の大きさを感じました。

今は府内(大分)に大友宗麟伊東マンショの像があり、
臼杵よりも当時を偲ぶものがあるようです。

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大分駅近くにある大分カトリック教会を訪れてみました
外観はシンプルな感じで、鐘楼がありました

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女性信者がミサの準備をしていました。
朝日が差し込んで堂内はとても明るかったです
コンクリートで出来た建物ですが温もりを感じました。

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両側のステンドグラスには、イエスの生涯が描かれていました。
誕生から受難、そして復活・・・
日本でのキリスト教の歴史もイエスの生涯と似ていますね。

フランシスコ・ザビエルが日本を訪れて、イエズス会を中心に
布教活動が行われました。
当時は、ポルトガルが主導権を握り、インド、マニラ、マカオを
中継地として宣教師が日本に派遣されました。
南蛮貿易を通して、日本各地に出向き教えを広めました
そして、江戸時代の禁止令という受難期を迎えました。
その間250年、密かに隠れキリシタンとして教えが受け継がれて
きましたね。

宣教師が命に及ぶ迫害を受けていく中で耐え忍び、
純粋な気言動によって地道に広めてきました。
どの宗教にしても、そういった人達の弛まぬ努力によって
受け入れられて、定着していくのでしょう!

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明治の開国を迎えた時、キリスト教再布教の主導者は
パリ外国宣教会に移っていました
彼らはフランス植民地政策をバックに日本における明治以降の
カトリックの基礎を創りあげました。
彼らによって、日本のカトリックは復活しました。
そして、プロテスタント教会ギリシア正教が日本に進出して
キリスト教は新しい時代を迎えました。

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開国後の布教は教育活動を中心とし多くのミッション系の
学校が生まれました。
大分カトリック教会も幼稚園を運営していました。
戦国時代は貿易を通して、今は教育を通して教えの種
蒔いていますね。

大友宗麟を通して、日本におけるキリスト教の歴史を探る
ことができました
機会があれば長崎も訪れてみたいですね

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