長篠城の攻防

今回のいい寺は・・・
長篠城の攻防です。

長篠の合戦といえば、織田・徳川連合軍 対 武田軍
の合戦です

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武田騎馬隊を迎え撃つ織田・徳川方鉄砲隊
この戦で武田方は、総崩れとなり甲州・甲斐まで
攻め入った織田・徳川軍によって武田氏は滅んで
しまいました

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織田・徳川軍の取った戦術は、武田軍の騎馬隊を
阻止するための土塁に馬防柵と鉄砲の弾込めによる
ロスタイムをなくす《三段撃ち手法》でした
この戦により全国に鉄砲の威力が示されました。
そして、多くの大名が鉄砲を求めるようになりました。

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武器が勝因だといわれていますが、実際には、土塁と
馬防柵によって進路を阻止されたうえに、火縄銃が発砲した
大轟音に騎馬隊の馬が驚いて大混乱に陥ったことが武田軍の
敗戦の主因だそうです

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映画「もののけ姫」の中で、自然の化身であるデイタラボッチが
自然を壊した人間に対して怒りを表した場面です。
自然の力の前では人間は無力であることを示していました。

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武器によって自然を征服しようとしたエボシも、自然の力に敗れ、
大事にしていた武器製造所を失いました。
そのことにより、自分にとっては「そこにいる人たち」が一番大切
だと気付いたのでしょう。

武器は万能なように思われますが、実際に勝敗を決めるのは
まず天候などの自然、そしていかに人心を掌握し家臣の士気を
鼓舞させられるか、最後に武器などの道具であると思います。

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徳川家康は、長篠の合戦の前に武田信玄が率いる
武田軍と静岡・三方ヶ原で戦っています

武田軍相手では多勢に無勢でした。
しかし、徳川家康は負け戦になることが分かっていても、
人心を掌握するために籠城することなく戦に向かっていった
そうです。
やはり結果は惨敗で、九死に一生を得て浜松城に逃げ帰り
ましたが、負けると分かっていても相手に向かっていく姿勢を
見せたため家臣の心はひとつとなり、よりいっそう家康の
ためにつくし、支える存続となったのでしょう

徳川家康は、この戦を後の教訓とするために自画像を
書かせたそうです。
戦に負けた苦悩の顔ですね

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甲斐の武田軍は信州から天竜川沿いに南下して遠州に入り
徳川家康を倒して京都に向かうはずでした
ところが、武田信玄の病気により急きょ甲斐へ戻ることに
なりました。

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武田信玄は帰路の途中、伊那谷で亡くなりました。
武田方は、敵にそのことを覚られないように「影武者」を
立てたという話もあります。
黒沢明監督の映画「影武者」が有名ですね。
歴史に「もし」という言葉は無いでしょうが、もし武田信玄が
病で亡くならなければ、徳川時代は来なかったかもしれませんね。

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この武田家のお家騒動の間に事件が起こりました。
三河衆の奥平貞能・信昌親子が武田氏から離反し、
飯田街道の要所・長篠城を攻略されて徳川方に付いて
しまったのです。

※この奥平氏の子孫が、後に中津藩の当主となり幕末の
家臣には福沢諭吉がいました。

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再び甲斐を出陣した武田勝頼率いる武田軍は、まず裏切った
奥平貞能・信昌親子の居城・長篠城を攻めました
落城間近となるところまで追い詰められ、岡崎に控える
織田・徳川方援軍派遣を求める使者を送ることになりました。

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岡崎への使者に立ったのが鳥居強右惠衛門でした。
彼は敵陣を掻い潜り見事、岡崎にたどり着き使命を果たしました。
さっそく長篠城援軍が向うことを知らせようと戻りましたが
途中で武田軍に捕らえられてしまいました

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囚われの身となった鳥居強右惠衛門に武田方は、
岡崎から援軍は来ないから開門するように」と
味方に言うように強要しました。
しかし、彼は味方に向かって
もうすぐ岡崎から援軍が来る 暫くの辛抱!
と大声で伝え皆を奮起させました

そのため、味方の目の前ではりつけにされてしまいましたが、
長篠城は落城することを免れました。
武田軍は長篠城と織田・徳川軍を相手に二手に分かれて
戦に挑み大敗を喫してしまいました。

人の心は力で威圧的に抑え込もうとしても上手くは
いかないものですよね。
窮地に追い込まれると、反発する力が生まれ、
逆に力を発揮することもあります

力のあるといわれた武田軍よりも、「必ず援軍に行く
と行った織田・徳川軍への信頼心が人の心を動かし
みなをまとめるという結果に結びついたのだと
思います。

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長篠の合戦の地・設楽原では7月に決戦場まつり
行われています。
暑い中、重装備の鉄砲隊は大変そうですが、
見応えがありそうですね!

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長篠の合戦の手柄により徳川家康の長女・亀姫は
奥平信昌の妻となり、4男1女に恵まれました。
信昌の子供たちはいずれも家康の子孫として厚遇
され、分家を「徳川家御連枝」として興す事も許されました。
そして、本家は江戸時代中期に中津藩に移封して
明治時代を迎えました。

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中津の菩提寺・自性寺の墓所に入る門の鬼瓦です。
奥平家の家紋も入っています。
中津藩への移封に合わせて菩提寺も移転しました。

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奥平氏は今川義元、徳川家康武田信玄…属する
ところを変えてきました。
武田信玄の死後は、息子・武田勝頼が大将の器
ではないと見抜き、再度徳川方に帰属しました。

そのために武田方の人質であった奥平貞能の
二男は殺害されてしまいました。
明治になってそれを知った福沢諭吉は、二男の
ために供養をしたそうです。

次は、鳥居強右衛門が助けを求めに行った徳川家の
故郷・岡崎城に行ってみます

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