今回のいい寺は・・・・・
筑城400年を迎えた唐津城です。
「佐賀の城」と言えば、唐津城ですね
左右に広がる松林を羽に見立てて「舞鶴城」とも言われています。
前面に広がる玄界灘と海岸線に伸びる松林、天守閣から見渡す
景色はとてもキレイです
景色はとてもキレイです
唐津の地名は、古くは南北朝時代の古文書に記載されて
いるそうです。
いるそうです。
唐は中国、津は港を意味しますから、唐津は古来より
大陸と日本を結ぶ場所だったかも知れませんね
九州北部は、対馬海峡を挟んで朝鮮半島と向かい合う
地域ですね
地域ですね
鎌倉時代には玄界灘を渡って、モンゴル帝国と服属政権・
高麗軍による文永・弘安の役(日本遠征)が起こりました。
高麗軍による文永・弘安の役(日本遠征)が起こりました。
南北朝時代のころには倭寇(日本の海賊による侵略)が
行われました
明は室町幕府に倭寇の討伐を要請し、見返りに貿易に
便宜を与えたそうです。
便宜を与えたそうです。
これが、金閣寺・銀閣寺を代表とする室町文化が栄えた
一因となったそうです。
唐津城の展示室にあった肥前・名護屋城の軒丸瓦です。
肥前・名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮への侵略戦争を
行った時(文禄・慶長の役)の日本の拠点となった城です
行った時(文禄・慶長の役)の日本の拠点となった城です
肥前・名護屋は、唐津に程近い呼子町、鎮西町にあって
諸大名の陣地も造営されて大阪とならぶ政治・外交の
中心地だったそうです。
中心地だったそうです。
名護屋陣中で炊事用に使われたと伝わる大釜です
豊臣家や諸大名が費やした財は相当なものだったでしょう。
全国を統一した豊臣秀吉は、領地の拡大を海外に向け
朝鮮半島の制覇を目論みました。
しかし、作戦は二度とも失敗して豊臣秀吉の死によって
戦も、名護屋城も役目を終えました。
戦も、名護屋城も役目を終えました。
役目を終えた難攻不落の名護屋城は、徳川幕府の命令
によって石垣まで解体されてしまいました
によって石垣まで解体されてしまいました
その解体資材を用いて7年の歳月をかけて造られたのが
唐津城です。
唐津城です。
築城したのが豊臣秀吉の側近・寺沢広高でした
寺沢広高は関ヶ原の合戦では東軍について徳川幕府の
外様大名(唐津藩)となり、功労として肥後国天草郡も
手にいれました。
外様大名(唐津藩)となり、功労として肥後国天草郡も
手にいれました。
順風満帆のようでしたが2代目藩主寺沢堅高の時に、
島原の乱が起きて領地・天草郡の富岡城を一揆方に
攻められた責任で天草郡の領地を没収されてしまいました
攻められた責任で天草郡の領地を没収されてしまいました
その遠因で、藩主寺沢堅高は江戸藩邸で自害してしまい、
寺沢家は断絶となりました。
寺沢家は断絶となりました。
その後、徳川幕府の譜代大名が次々に藩主となり
最後は小笠原氏の時に明治を迎えました。
唐津城は廃藩置県で廃城となって解体され、跡地は
「舞鶴公園」となり昭和41年に現在の模擬天守閣が
つくられました
「舞鶴公園」となり昭和41年に現在の模擬天守閣が
つくられました
天守閣からの眺めです
唐津市街を流れる松浦川の川幅はとても広いです
初代藩主・寺沢広高は、川の流れを変更して城の手前で
玄界灘に注ぐようにして自然を利用した要塞としました。
玄界灘に注ぐようにして自然を利用した要塞としました。
九州諸大名の助力を得て築城したので、堀には筑前堀、
薩摩堀などの協力した藩の名が残っています。
薩摩堀などの協力した藩の名が残っています。
築城の際、築堤(盛土)に人柱を埋めて完成を願いますが、
代わりに千体の仏像を作って供養をしたそうです
また、唐津城には天守閣が無かったそうです。
寺沢広高は、外様大名だったので徳川幕府に配慮した
のでしょうか!
のでしょうか!
そして、今に残る寺沢広高の功績は、海岸線に続く防風林
「虹の松原」です。
寺沢広高は、「松原の中に、自分が愛してやまない松が7本ある」
といって住民が心理的に松の伐採を出来ないようにしたそうです
といって住民が心理的に松の伐採を出来ないようにしたそうです
松原は藩政時代から厳しく管理され、今では保安林となっています。
現在の唐津市の基礎を築いて400年、長い年月のなかで守られた
風景をこれからも大切に後世に伝えてもらいたいですね
風景をこれからも大切に後世に伝えてもらいたいですね