今回のいい寺は・・・・・
平安時代より遥か昔、弥生時代の集落が出現した
吉野ヶ里遺跡です。
吉野ヶ里遺跡です。
下鴨神社は平安時代以前の姿を今に伝えて、
世界文化遺産に登録されました。
世界文化遺産に登録されました。
吉野ヶ里遺跡は昭和61年からの発掘調査で発見された
新しくて古い文化遺産ですね
新しくて古い文化遺産ですね
吉野ヶ里遺跡は、吉野ヶ里町と神崎市にまたがる丘陵地に
築かれました。
築かれました。
50ヘクタールの広さの場所に再現された集落は国営
吉野ケ里歴史公園となっています
吉野ケ里歴史公園となっています
公園の向こうに現在の町が見えますが、田畑が広がって
吉野ヶ里遺跡の集落がずっと続いているようにも見えました
吉野ヶ里遺跡の集落がずっと続いているようにも見えました
吉野ヶ里遺跡の中心となる主祭殿です。
一番大きな建物で吉野ヶ里の指導者たちが重要な話し合いを
したり最高司祭者による儀式が執り行われたそうです
したり最高司祭者による儀式が執り行われたそうです
発掘調査開始から三年後の平成元年に大規模な環濠集落跡が
発見されて当初は「邪馬台国か?」と騒がれたそうです。
発見されて当初は「邪馬台国か?」と騒がれたそうです。
吉野ヶ里遺跡は次々に弥生時代の建物が復元されました。
その他に物見櫓が数か所あることから防御的な性格が強く
吉野ヶ里遺跡は日本の城郭の始まりといわれています
当初は邪馬台国と騒がれましたが、九州北部にあった
複数の「クニ」の一つにすぎないそうです。
周囲にも同じような「クニ」があって、お互いに敵対的な関係
だったのでしょうね
だったのでしょうね
吉野ヶ里遺跡は、日本百名城の一つに選定されています
高床式の貯蔵庫です。
「ネズミ返し」も付いていました。
収穫した食糧を守ることは、死活問題ですから敵から、
自然災害から、生きものから守るために人々は必死だった
のでしょうね!
自然災害から、生きものから守るために人々は必死だった
のでしょうね!
茅葺の屋根です。
平成の時代に蘇った建物ですが、弥生時代も今も造り方は
変わらないのでしょうか。
変わらないのでしょうか。
弥生時代というと、この竪穴式住居ですね
各地の遺跡でよく見る形です。
住居の真ん中で火を焚き、共同生活を営んでいました。
一つの空間のなかで、皆で生活をすれば会話も弾む
そんな家族の団欒を想像してしまいました
中心となる建物です。
南方の島々にも在りそうな建物ですね
吉野ヶ里遺跡の歴史は、弥生時代前期、中期、後期に
分かれます。
分かれます。
前期は小さな集落で、後に防御のために使われた環濠も
ゴミ捨て場だったそうです
ゴミ捨て場だったそうです
時代が経つにつれて集落は大きくなり、中期には死者に
対する畏怖の念から墳丘墓や集団で埋葬する大規模な
墓地が造られ副葬品が貴重な資料となっています。
対する畏怖の念から墳丘墓や集団で埋葬する大規模な
墓地が造られ副葬品が貴重な資料となっています。
中期の後半には、他床式の貯蔵庫が造られ後期(1世紀
~3世紀)には、最大級の環濠集落となったそうです。
~3世紀)には、最大級の環濠集落となったそうです。
集落の中心の建物群は、後期に築かれた建物です。
主祭殿の内部です。
集落の人々は団結して物事に当ったのでしょう
主祭殿は墳丘墓の方に向いて建てられています。
先祖や自然に畏敬の念を持つことが集落を守るうえで
一番大切なことだったと思います。
今に伝わる各地の祭りは、自然の恵みを頂くことへの願と
収穫への感謝の意味がふくまれていますね
お盆や施餓鬼法要も地場産業が一段落ついた時に
先祖に感謝する意味で行うそうで、地方によって新盆、
旧盆、地蔵盆など時期が違うそうです。
旧盆、地蔵盆など時期が違うそうです。
※「もののけ姫」シシ神についてはコチラ↓
いい寺「大分の自然を散策する」
e-tera.net/Entry/148/