新しい風と独自性の融合《唐津焼》

今回のいい寺は・・・・・
唐津焼です。
 
唐津焼は「一.井戸 二. 三.唐津」と呼ばれ、昔から
茶人の間で
もてはやされてきました

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当初、唐津焼は庶民のやきものとして作られていました。
大分・日田 小鹿田焼(おんたやき)と同じように
半農半陶

陶工が自分達の必要とする食器を作ることが
始まりだったそうです。
 
 

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その唐津焼が急速な発展をしたのは、文禄・慶長の役で
朝鮮半島の戦地から引き揚げた際に
優秀な陶工
連れ帰ったことでした。

そこで、文禄・慶長の役(159298)別名「やきもの戦争
といわれています

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当時、唐津焼の勢いには目を見張るものがありました。
東の瀬戸に対して西の唐津
現在では陶磁器のことを「せともの」と呼びますが、西では
「からつもの」と呼ばれるほど隆盛を極めていたそうです。

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朝鮮の鮮やかな色彩の鞍ですね

戦に携わった諸大名は、朝鮮半島より多くの物品や
職業専門家を連れて帰り李朝文化の高度な技術が
西日本各地に定着しました。
 
その中でも特に陶工が各地で重用され、有田では
白磁鉱床を発見した李参平によって急速に有田焼
台頭しました。
おかげで唐津焼は衰退の一途をたどったそうです

 
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こちらの唐津焼は、色合いや質感が違いますね。
唐津の粘土はそれぞれの箇所で少量しか取れなく、
少し離れるだけで全く違う性質の粘土になるそうです。
そこで、他のやきもの産地と比べ唐津焼の種類は多く、
多岐にわたっています。
絵唐津、朝鮮唐津、班唐津、粉引唐津、三島唐津、黄唐津・・・
唐津藩初代藩主が美濃出身で美濃焼の影響も受けて
いるそうです。
「三.唐津」と呼ばれる器の形の定義は無いのでしょうかね!

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他の産地が茶の湯の道具として作品を生み出すなかで
唐津焼は茶人から注文が少なかったそうです。
朝鮮の技術で茶道具として焼かれた朝鮮唐津より
半農半陶の陶工が作った生活に必要な器(古唐津)を
茶道具として使う「みたて」で珍重されたそうです。

※「みたて」もともと、茶道具じゃないものを、茶道具として
 つかうことです。

後世に長く残って受け継がれる陶芸などの文化は権力者
によって形式や格式で生み出されていったものではなく、
庶民の生活に根ざした中で創造し追及されていったものが
多くの人に好まれる文化になっているように思います

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 「一.井戸 二.楽 三.唐津
優れた茶碗の両極を担うのは、李朝時代の高麗茶碗
(井戸茶碗)千利休によって見出された楽茶碗であることは
揺るぎないものでしょう。

井戸茶碗の姿には魅力的な力強さがあり、楽茶碗は
手にした触感に秀でています
その次に唐津の名が挙がるのは、本来の茶の湯
にとらわれずに自由な発想で楽しむということから
でしょうか!

唐津焼は芸術品として鑑賞するより、使用する中で
土色が変化し(雨漏り)貫入(釉薬に発生するヒビ割れ)
が入ることで味わいが増していくそうです。
素朴な色合いと、時間とともに変化するところが好まれて
いるのでしょうね。

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朝鮮半島から来る新しい技術の波を取り入れて、地元の伝統
と融合するなかで、九州各地の産業が発展したのでしょう

技術の進歩や文化の発展は、如何に外の空気を取り入れて
自分のものにしていくかが大切ですよね!
ただ、外国に限らず外から得たものを真似するだけではなく、
自らの意志で芸術や文化の向上を目指そうという思いのもとで
作り上げていくものがクオリティの高い、後世に受け継がれる
文化や芸術を醸成していくのでしょうね!

虹の松原の防砂林のように必要なを通し、暴風からは
身を守るように海外とも交流できれば良いですね。

次は三大松原の一つ三保の松原に行ってみます

樂茶碗についてはコチラ↓
 《いい寺★浄瑠璃寺門前を散策》
 e-tera.net/Entry/144/

大分・日田の小鹿焼きについてはコチラ↓
 e-tera.net/Entry/161/ 
 

カテゴリー: 九州 佐賀   パーマリンク

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