今回のいい寺は・・・・・・
沼津藩の西三河・大浜陣屋です。
寺津から矢作川を渡って西に行くと・・・
碧南市・大浜漁港に着きます
碧南市・大浜漁港に着きます
漁港の近くには寺町があり、大浜も寺と港の町に
なっています
なっています
陣屋(代官所)が置かれた場所ですから、町の大きさは
寺津の数倍あります
寺津の数倍あります
うーーーんなんだろう~~
と近づいて見てみると・・・
と近づいて見てみると・・・
どうやら気圧計のようです
さすが漁師町ですね!
漁に出る時に気圧計を見て、海の天候を調べたのでしょう。
自然の力は大きいので、事故の無いように確認する事は
大事ですね
大浜陣屋の見取り図です
江戸時代の後半、大浜を中心に西三河一帯は静岡・沼津藩
の領地でした。
の領地でした。
愛知の西三河にありながら、静岡の沼津藩の領地というのも
不思議ですね
不思議ですね
大浜陣屋は領地を治める出張所の役目をしていました。
寺津の治助、間之助兄弟は大浜陣屋から十手を預かって
御用を勤めていました。
御用を勤めていました。
現在、大浜陣屋の跡地は公園になっています。
沼津藩主の水野家は、徳川家康の母・於大の方の実家で
西三河から知多半島に勢力を持った一族でした
西三河から知多半島に勢力を持った一族でした
沼津藩・水野家は分家で、当初は信州松本を拝領して
いましたが6代藩主の時に、江戸城中で刃傷沙汰を
おこして領地没収となりました
いましたが6代藩主の時に、江戸城中で刃傷沙汰を
おこして領地没収となりました
忠臣蔵の赤穂藩・浅野家と同じですね
しかし、徳川家に関係した名門という配慮があって、その後の
幕府の対応は違いました。
幕府の対応は違いました。
水野家は旗本として存続がゆるされ、8代当主・水野忠友
の時に西三河の領地を拝領して大名に復帰したそうです。
の時に西三河の領地を拝領して大名に復帰したそうです。
刃傷沙汰を起こしたのに、許されて復活することは
なかなかない事ですよね
西三河の領地はそのままで沼津藩に所領を移されて城の
築城も許されたそうです
築城も許されたそうです
水野忠友の破格の出世の背景には 「田沼政治」で有名な
田沼意次の後ろ盾がありました
田沼意次の後ろ盾がありました
紀伊藩の足軽出身の田沼意次にとって水野家の家柄は
魅力的で水野忠友を片腕にして幕政を仕切ったそうです。
魅力的で水野忠友を片腕にして幕政を仕切ったそうです。
田沼政治は「経済振興による財政の立て直し」でした。
経済システムを整備して都市と地方の商人の活動を
活発化させ、彼らから税を取る
活発化させ、彼らから税を取る
ただ単に増税するのではなく、経済が潤うようにして、
自然に税金が入る方法を考えたのでしょうね
自然に税金が入る方法を考えたのでしょうね
その後、天変地異がつづいて米価が高騰し農民一揆や
町人の打ちこわしが頻発しました
幕府内で田沼政治に対する批判が噴出して田沼意次は
失脚してしまいます
町人の打ちこわしが頻発しました
幕府内で田沼政治に対する批判が噴出して田沼意次は
失脚してしまいます
またも名門の家柄が水野家を救いました
田沼政治の次は、三大改革の一つ「寛政の改革」が始まり、
財政再建、風紀取り締まりで幕府財政の安定をはかりました。
財政再建、風紀取り締まりで幕府財政の安定をはかりました。
私達消費者も景気によってサイフの紐を締めたり、緩めたり
しますね
しますね
寛政の改革の後、幕政を仕切ったのが水野忠友の跡を
継いだ沼津藩主・水野忠成でした。
当時は文化・文政期と言われ文化の最も爛熟した時期
でしたが政治の腐敗が著しかったそうです
でしたが政治の腐敗が著しかったそうです
「水野出てもとの田沼となりにけり」
水野忠成は田沼意次以上の賄賂政治を行いました。
水野忠成は、腐敗政治を行った負のイメージが大きい
ですね。
しかし彼は、江戸の消費市場の活性化や全国に商品が
流通されるように促しました
地域の連合と自治を重視した政策で江戸幕府が安定した
最後の時代だったそうです
ですね。
しかし彼は、江戸の消費市場の活性化や全国に商品が
流通されるように促しました
地域の連合と自治を重視した政策で江戸幕府が安定した
最後の時代だったそうです
西三河地域も沼津藩・水野家の恩恵を受け、大浜は幕府の
年貢米を積みだす港として発展しました
年貢米を積みだす港として発展しました
当時は醸造業も盛んに行われましたが、明治時代になって
味醂や酢や醤油製造に移行して九重味醂やミツカン酢、
白醤油のヤマシンなどの会社となっています。
大浜の寺町には、立派な寺院が沢山あります
特に寺町で目を引くのが、真宗大谷派の西方寺です。
元々は天台宗の寺院でしたが500年前に真宗大谷派に
変わり大浜に移ってきたそうです。
変わり大浜に移ってきたそうです。
手前の太鼓堂は、明治になって藩主が学事の振興を
願って開いた「新民序」の校舎として使用されました。
願って開いた「新民序」の校舎として使用されました。
ここが、碧南の学校教育の発祥の地といわれています
西方寺の本堂内です。
文化・文政時代に建立したそうです。
江戸時代の文化が最も爛熟したころの建物で豪華な
装飾品がありました
装飾品がありました
境内には樹齢400年の「弥陀の松」が悠然と枝を
伸ばしています。
伸ばしています。
幹の太さと四方に伸びた枝の見事さに西方寺の
歴史を感じました。
歴史を感じました。