今回のいい寺は・・・・
名古屋・長母寺です♪
長母寺は名古屋市東区にある禅宗のお寺です。
矢田川沿いに長母寺の森が広がります
ここは、今から800年前に山田郡を治めた地頭・
山田重忠が熱田明神のお告げで創建した寺院です。
山田重忠が熱田明神のお告げで創建した寺院です。
創建当時は亀鏡山桃尾寺と称した天台宗の
寺院でした。
寺院でした。
その後、山田道円が伽藍を整備して
「長く母の菩提を弔うため」にと願いを込めて
寺名を「長母寺」としました。
長母寺の境内を散策してみます
明治に起きた濃尾震災で倒壊してしまい
明治に起きた濃尾震災で倒壊してしまい
新たに建てられた伽藍です
手前が開山堂で隣が本堂です。
長母寺の開山・無住国師です。
無住国師は、東福寺の開山・聖一国師の弟子で
山田道円に招かれて住職となりました。
東福寺の開山堂の屋根に飾られたものを調べて
みたら、如意宝珠だそうです
みたら、如意宝珠だそうです
「心の中で思い描いたものをすべて与え、あらゆる
願いを叶える」と言われています。
願いを叶える」と言われています。
マンガ・ドラゴンボールの話みたいですね
ただ、如意宝珠の場合は、
「珠のように美しく心を磨き、努力を怠らずに徳を
積みなさい。そうすればどのような困難に直面しても、
それを乗り越えて願いを叶えることができる」
と、簡単ではないようです
積みなさい。そうすればどのような困難に直面しても、
それを乗り越えて願いを叶えることができる」
と、簡単ではないようです
長母寺に祀られた地蔵菩薩も手に如意宝珠を
持っています
持っています
聖一国師のもとで修行した無住国師の名声は
全国に知られていました
全国に知られていました
長母寺には多くの僧侶が集まり、無住国師は
修行僧の指導と布教活動にあたったそうです。
修行僧の指導と布教活動にあたったそうです。
修行僧の心が澄み、願いが叶うように・・・・
開山堂には千体地蔵菩薩も祀られていました
無住国師は長母寺の住職を50年間も務めた
そうです。
その間、蒙古襲来の時には朝廷の勅願所となり、
全国に93ヶ寺の末寺ができました。
無住国師のもとで修行した僧侶が全国の寺院へ
赴任していったのでしょうね
赴任していったのでしょうね
無住国師は、寺領のあった知多半島の人々に
仏教を説くために万歳を作って教えたそうです
今では、国の無形文化財に指定されて尾張万歳
保存会が組織されています。
保存会が組織されています。
無住国師の兄弟弟子が開いた三河の実相寺でも
万歳が伝わっていましたね。
万歳が伝わっていましたね。
こちらは、三河万歳といいます。
無住国師の命日には法要が行われ、檀家の皆さん
が参列します
が参列します
今年は法要の後にフルート四重奏団のコンサートが
ありました
ありました
生で聴く演奏に皆さん静かに耳を傾けていました
本堂に飾られた扁額です。
「無礙光(むげこう)」と書いてあります
無礙には、「何にも囚われない、拘らない」という
意味があります。
阿弥陀如来が放つ光だそうです
お寺でコンサートってめずらしいですね。
たまには違った雰囲気で音楽を聴くのもいいかも
しれませんね
司馬遼太郎の「街道を行く」で全国各地の話が
取り上げられてから地元の歴史に興味を持つ方が
増えたそうです。
取り上げられてから地元の歴史に興味を持つ方が
増えたそうです。
江戸時代には尾張藩の歴代の藩主は無住国師の
遺徳を偲んで、長母寺に御成りになりました
遺徳を偲んで、長母寺に御成りになりました
藩主一行は、書院から尾張平野や遠く御嶽山を
眺めて一日を過ごしたそうです。
眺めて一日を過ごしたそうです。
藩主のお伴は奥方から家来の足軽まで数百人と
いました。
いました。
藩主の豪華な御膳から足軽の牡丹餅まで当日の
食事の準備が大変だったことが記録に残っています。
食事の準備が大変だったことが記録に残っています。
昔は草原で鷹狩りが行われた山田郡は、今は見渡す
限り住宅街です
限り住宅街です
川に架かる鉄橋は、長野に向かう中央線です
名古屋から長野へ向かう道は善光寺道といわれて
江戸時代から人の往来が盛んだったそうです
そして日本書紀や古事記にも出てくる歴史のある
道です。
道です。
この道を歩いてみます
※愛知・西尾の実相寺についてはコチラ↓
e-tera.net/Entry/180/