銀閣寺のひみつ♪

今回のいい寺は・・・
銀閣寺です♪

 

正式名は東山慈照寺といいます
 
元は室町幕府八代将軍・足利義政が造営した
東山山荘でした
 
「わが庵は月待山のふもとにて 
かたむく月の影をしぞ思う」
・・・足利義政が詠んだ歌です
 
銀閣寺は大文字山から西につづく月待山の麓に
ありまーす
 

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その月待山からの眺めです
境内の向こうには、住宅地が続いています
 
住宅地の中に、緑に覆われた境内があるような
イメージですね
 
 
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東山山荘が創建された当時は応仁の乱によって
都は荒廃していました
 
若くして将軍となった足利義政は側近に恵まれず、
自身も力が無いことから政権を放棄して将軍職を
弟に譲ってしまいます
 
ところが正室・日野富子は反対に権力に執着して
我が子を将軍職に就けようとしました。
 
この夫婦が原因で応仁の乱が起こり
都は焦土と化してしまいました
 

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「天下は破れば破れよ。世間は滅びば滅びよ。
人はともあれ我が身さえ富貴ならば」
軍記「応仁記」に記述された
当時の人々の心を表す言葉です。
 
夏に訪れたNYの街はキラッキラしていたのに・・・
 
「自分さえ豊かな生活ができれば」という考えを持って
いたらダメですね
 
 
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飢饉や疫病や戦など、世の中が混乱している中で
足利義政は歌や能楽や茶の湯に興じた優雅な
日々を送ったそうです
 
 
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境内にはお茶の井と呼ばれる場所があります 
戦乱の中で焦土と化した都では良質な水を
得る事ができませんでした。
 
しかしここでは、お茶の井から清水が湧き出て
茶の湯には困らなかったそうです
 
茶の湯を楽しむ余裕なんてあったのでしょうか

 

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足利義政にも気まずい思いがあったのでしょうね!
 
東山山荘の造営は応仁の乱が治まってから
始まりました
 
常御所、西指庵、持仏堂と建立するなかで
足利義政は特に庭園造りに力を注いだそうです
 
その手本となったのが、苔寺として有名な
西芳寺でした。
 
若い頃に訪れた西芳寺に強い感銘を受けたそうです。

私も影響を受けやすいです

最近は本を読んでも、TVを観ていても涙することが
多いような気がします
 
 
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東山山荘で象徴される文化は世の中の混乱を
尻目に成熟していきました
 
そして残すは銀閣の建立という時に悲しいかな
足利義政は亡くなってしまいます
 
遺言により山荘は相国寺に寄進されて東山慈照寺
となりました。
 
完成した銀閣には観音菩薩を祀り銀閣は観音堂
となっています
 
 
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さて、金ピカの金閣寺に対して銀閣寺・・・

この銀閣の壁には銀箔を張る予定でしたが、

資金が無く漆塗りになったそうです。

当初から漆塗りの予定だったという話もあります

いろんな説があっておもしろいですね

 

 
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月待山に昇る月と漆塗りの観音堂(銀閣)から
 
「漆黒の闇を照らす月あかり」

なんて情景が思い浮かんじゃいます
 

戦乱の世の中で漆黒の闇と思われた時代に
建立した観音堂です

「観音菩薩に救済の手をさしのべてもらいたい」

と誰もが願ったんじゃないかなー
 
銀箔から漆塗りの観音堂になった銀閣には、
民衆を救済する役目があったと思いたいですね
 
今、銀閣は大掛かりな修理を行っています
 
完成した時には、どの様な姿になっているのかなー

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