今回のいい寺は・・・
戦争体験を聞いた私たちにできることです♪
元小学校教諭で春日井市にお住まいの
郷土史家の先生を訪ねてみました
伊藤先生は、郷土史を勉強し地域の子供達に
教えたり、一緒に文化財を見て学ぶという
活動をされています
お話を伺うなかで、終戦記念日の話になり
伊藤先生の戦争体験を聞くことができました。
満20歳で徴兵され、ハイラル部隊へ送られた
そうです
ハイラルとは朝青龍の出身地・モンゴルに
あります。
冬季はマイナス30度以下になるところです
まず初めに受けた訓練は、片手を水に浸け
マイナス10度の戸外に出し、手が変色し、
壊死する直前に少し暖かいところへ入れて、
反対の手でこすって血流を促すことでした
失敗すれば指が腐ったり、手が折れるそうです
各地で敗戦が続くにつれて、魚雷や爆撃を
受けて海の藻屑となった人もたくさんいました
伊藤先生は、釜山に転属した際にボロ漁船を
用意されたそうです
朝鮮海峡には米軍の潜水艦の姿が見えたので
全員死を覚悟し、個人が特定できるものを
身につけて博多港を目指しました。
ところが無事に日本へ上陸することができたそうです
ボロ船は米軍にとっては漂流する笹舟にしか
見えなかったのかもしれないとおっしゃって
いましたが、私は想像しただけで身震いして
しまいます
戦地で与えられた武器は、鍛冶屋が作った
帯剣と、竹やりと一人一発の手榴弾
たったそれだけで米軍の戦車に向かっていった
そうです
多くの戦友が亡くなり、残った私らが
「あの戦争」を伝えなければと思ったそうです。
子供達は
「戦争で大人たちはなぜ人殺しをするのか」
と質問します
伊藤先生は
「戦場では先に相手を撃たなければ、自分が
撃たれる。
相手を殺すこと以外何も考える余裕がない。
だから絶対に、戦争を起さない政治や心構えが
必要です。」
と答えるそうです
被爆した人、空襲の被害にあった人だけではなく
戦地へと駆り出された人たちの苦しみ、そして
残された人の悲しみも忘れてはなりませんね
ヒロシマの人は8月6日を、
ナガサキの人は8月9日を、
迎えることが嫌だと話していました。
思いだしたくもない過去を私たちに語ってくれる方がいる。
私たちが伝え残していかなければいけないと
強く、強く思います。
※いい寺.netではより時間をかけた記事を書いて
いきたいと思いますので2日置き更新とさせて頂きます