いい寺【方広寺・いいがかりをつけられた鐘楼】

今回のいい寺は・・・
京都・方広寺です★

豊臣の時代から徳川へと、歴史の節目に登場するお寺です。
創建当時からこれほど政治の渦に巻き込まれた寺も稀でしょう

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有名な鐘楼・釣鐘の碑文です
国家安康 君臣豊楽』と書かれています。

家康
『「家康の名を二分して国安らかに豊臣を君として
 子孫繁栄を楽しむ」という意味だ
』と怒り、
大阪冬の陣が起こるきかっけとなったそうです。

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豊臣秀頼は父・秀吉の遺志を継ぎ、徳川家康の助言もあって
失火で焼失した大仏殿と大仏を再建しました。
翌年に建立した鐘楼が豊臣家滅亡の始まりになるとは
思いもよらなかったでしょう・・・

徳川家康は豊臣秀頼に各地に寺社を建立させました。
お金を使わせて豊臣家の財産を減らそうとしたそうです

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現在は、本堂に1/10の大きさの大仏が祀られています。
といっても誰でも触れるような場所に置かれています
柵も囲いも無く、間近で大仏様を見たのはこれが初めてです

豊臣秀吉が発願した大仏は3度も造られましたが、地震や
失火により姿を消してしまいました。

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1/10の大仏とはいえ、光背の仏像の顔もキレイです

最初に造られた大仏は、刀狩で集められた武器を材料に
使いました

これが問題だったかもしれませんね。

この大仏は開眼法要をする前に地震で倒壊してしまいました。

豊臣秀吉
「うぬは、京の町を守るを忘れ、真っ先に倒れるとは、慌て者が!」
倒壊した大仏に弓矢を打ちつけたそうです

二度目は大仏を作る途中で、型枠から熱い銅が溶け出し失火して
しまいました
枠がきちんと出来ていなかったようです。

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豊臣秀頼が造った三度目の大仏も江戸時代に地震で小破してしまいました。
この小破して欠落した部品の銅は、寛永通宝の鋳造に用いられたそうです。

刀狩で集めた大仏の材料は、お金という形で世に還りましたね
寛永通宝は別名『大仏銭』というそうです。

その後の落雷で仏殿・大仏は焼失してしまいました

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鐘楼内には、大仏の残骸が無造作に置かれていました。
碑文の事件はやはり口実で、徳川家康は最初から
豊臣家を滅ぼすつもりだったのでしょう。
この残骸を見ると、淀君・秀頼親子の無念さを感じます。

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秀頼が造った大仏の眉の間にはまっていた仏様です。
幕府は地震で小破した大仏を修理したそうです。
・・・ですが、ほとんどを解体し、寛永通宝の材料に
まわしてしまったような気がします。
大仏を思うように修復出来なかったので、この眉間仏を大事に
祀ったのかもしれませんね

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方広寺には、豊臣秀吉の守り神・大黒天も祀られています。
この大黒天を気にいった秀吉は、1/10の大黒天を作らせた
そうです。
後ろの厨子に入った小さな大黒天は、秀吉が実際に手元に
置いていた
ものだそうです。

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現在の方広寺の本堂です。
屋根の傷み具合が時の流れを感じます。
鐘楼を見学に来る人は多いけれど、本堂を拝観する人は
少ないそうです。

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隣接する豊国神社は明治になってキレイに整備されましたが、
明治の廃仏毀釈のせいか、方広寺は対照的に寂れて
見えました

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