今回のいい寺は・・・
真言宗智山派の総本山智積院(ちしゃくいん)です★
本尊は大日如来です。
智積院は元々、紀州の根来山大伝法院の塔頭寺院でした。
大伝法院は豊臣秀吉との対立から天正13年に根来攻めに遭い
境内伽藍は全て焼失してしまいました
智積院の住職は根来攻めの前にお寺を出て、高野山に入り難を
逃れました。
その後、住職は再興を願って京に入りましたが、豊臣の世では願いは
叶いませんでした。
そして、関が原の合戦の翌年に徳川家康の恩命により、
豊国神社境内の宿舎と土地が与えられて再興されました。
さらに三代目住職の時に豊臣氏が滅び、隣接地にあった
豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地も与えられて、規模を
拡大して復興しました。
再興された智積院の正式名称は
『五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)』
といいます。
徳川家康は豊臣家と所縁のある寺社仏閣を徹底的に排除しましたね。
そこに豊臣秀吉と敵対した寺を立てるとは・・・
当初は、ここに豊臣秀吉が建立した臨済宗の寺院「祥雲寺」が
ありました。
豊臣秀吉は天下を取りましたが、子供には恵まれませんでした。
豊臣秀吉53歳の時の子供、鶴松もわずか3歳で夭折してしまいました。
その夭折した鶴松の菩提を弔うために祥雲寺を建立しました。
大書院には、長谷川等伯の障壁画のレプリカがありました。
祥雲寺の建立にあたって障壁画を描いたのが長谷川等伯でした。
当時は桃山文化の最盛期で絵画の中心は狩野派の絵師でした。
長谷川等伯を中心にした長谷川派は新興勢力でしたので、
この障壁画を受け持つ事は、長谷川派にとって狩野派に追いつく
千載一遇のチャンスでした
長谷川等伯は息子・久蔵と共に心血を込めて障壁画を描いたの
でしょう。
祥雲寺が廃寺になった後は、智積院がこの障壁画を所有しました。
智積院は祥雲寺の境内・伽藍をそのまま使用したみたいですね。
徳川家康に追い出された祥雲寺の住職は、鶴松像を持って
本山の妙心寺に帰ったそうです。
新築された講堂です。
智積院の講堂はかつて方丈と呼ばれていました。
祥雲寺の法堂が基になっています。
祥雲寺ゆかりの建物自体は、1682年7月に焼失しました。
現在の建物は、平成4年の興教大師850年遠忌記念事業として
計画され、平成7年に完成したものです。
※興教大師は大伝法院を高野山から根来山に移して根来道場とした
真言宗の中興の祖です。
中庭の枯山水も素敵でした。
水の流れや波紋が表現されていました。
大書院前の庭です。
『利休好みの庭』と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉が建立した
祥雲寺時代に原形が作られました。
その後修復して、東山随一の庭と言われるようになりました。
険しい山に見立て築山から水が流れてくる様子を表現しています。
水落石の下方から水が流れ落ちて、水波分け石が水の流れを
左右に分けています。
中央に見える四角い縦長の石は水添石だそうです。
『利休好みの庭』なので、醍醐寺の三宝院の庭のような雄大さは
ありませんが、静かに眺めていると心が休まる感じがしました。
真言宗智山派の総本山としての荘厳さと、禅宗・祥雲寺の文化
が融合した深みのあるいい寺でした。