今回のいい寺は・・・
祥雲寺の障壁画を描いた長谷川等伯についてです★
長谷川等伯は能登半島・七尾の出身です。
七尾は、能登畠山氏が拠点した町で、多くの文化人が京・堺から
招かれていました。
当時は、京文化を凌ぐ七尾文化の黄金期だったそうです
32歳で上洛してから菩提寺の関係で日蓮宗本山・本法寺に
寄宿して京都での活動を始めました。
最初は日蓮宗の信徒の支援で仕事を請けていました。
本法寺の向かいには、茶道・裏千家の家元『今日庵』が
あります。
千家初代・千利休は堺の出身です。
堺の町は日蓮宗の関係が深く、多くの信徒がいました。
長谷川等伯を評価した本法寺の日通上人も堺の出身です。
その関係から、千利休と出会ったのではないでしょうか・・・
千利休は豊臣秀吉の茶の湯の指導者として桃山文化の中心に
いました
そして、長谷川等伯に多大な影響を与えました。
当時は、狩野派の絵師が大きな力を持っていました。
その頂点に狩野永徳がいました。
長谷川等伯は狩野派の門下でも働き、狩野派から牧谿(もっけい)
の水墨画まで色々な技法を習得したそうです。
力を得た長谷川等伯は、世の中に自分の名を示すため、
ある行動にでました。
当時の大徳寺の住職は襖に絵を描く事を禁じていました
留守中に勝手に絵を描くという大きな賭けに出たのです。
覚悟の行動でしたが、結果的には評判となり、仕事の依頼が
増えたそうです。
ついに大きな仕事が舞い込んできました
祥雲寺の障壁画を描く事になったのです。
依頼の理由は、前年に狩野永徳が亡くなり狩野派が
混乱していた事と、千利休の推薦があったからだそうです。
狩野派に対抗できる千載一遇の大チャンスに、長谷川等伯は
息子久蔵とともに狩野派にはない叙情的な自然表現を試み、
見事に仕事を成し遂げました
この仕事により長谷川派として大きく飛躍するはずでした。
しかし、そこに悲劇が訪れました。
長谷川等伯の支援者である千利休が切腹し、後継者である
等伯の息子久蔵も急死してしまったのです。
このことが、長谷川等伯にとって大きな転換期となってしまいました。
狩野派は永徳の孫・探幽が跡を継いで、妙心寺の法堂の龍を
描くなど、大いに活躍していきました。
次は悲劇の中から描かれた『松林図』の世界を見てみます