長谷川等伯の描いた世界

今回のいい寺は・・・
祥雲寺の障壁画を描いた長谷川等伯についてです★

a0cf0183.jpg

長谷川等伯は能登半島・七尾の出身です。
七尾は、能登畠山氏が拠点した町で、多くの文化人が京・堺から
招かれていました。
当時は、京文化を凌ぐ七尾文化の黄金期だったそうです

c941c45c.jpg

32歳で上洛してから菩提寺の関係で日蓮宗本山・本法寺
寄宿して京都での活動を始めました。
最初は日蓮宗の信徒の支援で仕事を請けていました。

ce997ed0.jpg

本法寺の向かいには、茶道・裏千家の家元今日庵』が
あります。
千家初代・千利休は堺の出身です。
堺の町は日蓮宗の関係が深く、多くの信徒がいました。
長谷川等伯を評価した本法寺の日通上人も堺の出身です。
その関係から、千利休と出会ったのではないでしょうか・・・

千利休は豊臣秀吉の茶の湯の指導者として桃山文化の中心に
いました
そして、長谷川等伯に多大な影響を与えました。

DSC_0588.jpg

当時は、狩野派の絵師が大きな力を持っていました。
その頂点に狩野永徳がいました。

長谷川等伯は狩野派の門下でも働き、狩野派から牧谿(もっけい)
の水墨画まで色々な技法を習得したそうです。
力を得た長谷川等伯は、世の中に自分の名を示すため、
ある行動にでました。

A0Dw5GlJ.jpg

大徳寺三玄院に入り込み襖に絵を描いたのです。

当時の大徳寺の住職は襖に絵を描く事を禁じていました
留守中に勝手に絵を描くという大きな賭けに出たのです。
覚悟の行動でしたが、結果的には評判となり、仕事の依頼が
増えたそうです。

DSC_0690.jpg

ついに大きな仕事が舞い込んできました
祥雲寺の障壁画を描く事になったのです。

依頼の理由は、前年に狩野永徳が亡くなり狩野派が
混乱していた事と、千利休の推薦があったからだそうです。

DSC_0570.jpg

狩野派に対抗できる千載一遇の大チャンスに、長谷川等伯は
息子久蔵とともに狩野派にはない叙情的な自然表現を試み、
見事に仕事を成し遂げました

DSC_0573.jpg

この仕事により長谷川派として大きく飛躍するはずでした。
しかし、そこに悲劇が訪れました。
長谷川等伯の支援者である千利休が切腹し、後継者である
等伯の息子久蔵も急死してしまったのです。

このことが、長谷川等伯にとって大きな転換期となってしまいました。

cd15f2ac.jpg

狩野派は永徳の孫・探幽が跡を継いで、妙心寺の法堂の龍を
描くなど、大いに活躍していきました。

次は悲劇の中から描かれた『松林図』の世界を見てみます

カテゴリー: 京都 《文化》   パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>