名古屋城と加藤清正

今回のいい寺は・・・
名古屋・中村区で生まれた二人の武将です。

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岐阜県東部から尾張名古屋を流れる庄内川です。
庄内川の水は堀川を通って名古屋城のお堀へと
流れています。
この川の下流・現在の名古屋市中村区から2人の
戦国武将が誕生しています

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その1人が皆さんご存知の豊臣秀吉です。
この誕生の地には、明治になって豊国神社が建立
されました。
江戸時代から明治に時代が変わって豊臣秀吉の
名誉が回復した証ですね

通りの名前には、太閤通り、千成通り、本陣通り、豊国通りが
あり、近隣の校名も豊臣小学校、千成小学校、本陣小学校、
豊国中学校、黄金中学校・・・とあります。
中村区は、豊臣秀吉の街という感じですね。

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豊国神社は中村公園内にあります。
誕生地には豊臣秀吉の兜をイメージした記念碑もあります。
この小川を見て
「この地から一つの時代が始まった」という雰囲気を感じました。

そしてこの地からもう1人の戦国武将加藤清正』が生まれました。

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中村公園に隣接する寺院・妙行寺には、昭和35年、350年忌の
際に建立した加藤清正像があります。
加藤清正のトレードマークである長烏帽子型の尖った兜を
被っています。
南無妙法蓮華経」と自筆で書いた数百枚の紙を張り合わせて
兜の下地に使用したそうです。
兜の前飾りの円形の中にも自筆の「南無法蓮華経」の題目が
記してあります。
加藤清正は熱心な日蓮宗の信者でした。

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加藤清正の像がある日蓮宗・妙行寺です。

加藤清正は徳川家康の命に従って、諸大名と共に
名古屋城築城に携わりました。
築城の折に出た余材と普請小屋(施行事務所)を
貰い受けました。
そして、自身の誕生の地に先祖と両親の菩提を弔う為に
このお寺を建立したそうです。

この地に建立したのは、親への感謝の気持ちでしょうか…
戦の日々の中、遠く肥後・熊本の大名となっても故郷への
想いは変わらなかったのでしょう。

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堂内には、肥後・熊本にある加藤家の菩提寺である本妙寺
第三世日遥上人が彫刻した加藤清正の木像が祀られて
います。

本妙寺・第三世日遥上人は、加藤清正が朝鮮出兵の折に
捕虜として日本に連れてこられました
後に加藤清正の人格に惚れて帰国せずに出家した方です。

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こちらは名古屋城を背にした加藤清正の像です
名古屋は尾張三英傑の街ですが、加藤清正の像は
1番目立つ場所にあります

※本像は、名古屋城築城にあたり、多大な貢献があった
  加藤清正公の業績を顕彰し、カゴメ株式会社創業80周年
  記念として、同社が製造しこれを名古屋市に寄贈したものです。

加藤清正豊臣秀吉の家臣であり、親戚でしたが、石田三成との
確執から東軍・徳川方につき勝利に貢献しました

しかし、豊臣家に対する加藤清正の想いは並大抵のものではなく、
豊臣家を一大名として存続するようにと奔走しました
そして、豊臣秀頼徳川家康を二条城で会見させて和睦を図りました。

ところが、加藤清正は二条城での会見から肥後・熊本に帰る船中
発病し亡くなってしまいました
徳川方の陰謀説もありますが・・・
その後、豊臣家は色々と因縁をつけられて、加藤清正の没後
わずか4年で滅んでしまいました。

※因縁をつけられた話はこちら↓
いい寺【方広寺・いいがかりをつけられた鐘楼】
e-tera.net/Entry/80/

加藤清正は世情を読んで徳川の天下になると確信した中で
豊臣家の存続を考えたのでしょう。

名古屋城の加藤清正像は太平の世を願う姿にも見えますね♪

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