今回のいい寺は・・・
水上勉の世界を覗いてみます
水上勉は福井県の大飯町という海辺の村の大工の家に
生まれました。
地元の西安寺住職の紹介で、相国寺・瑞春院へ9歳の時に
預けられたそうです。
水上勉はここから仏門へ入ったのですね
瑞春院での経験が、小説『雁の寺』として世に出ました
『雁の寺』で直木賞作家となり、瑞春院も実際に雁の襖絵が
あることから【雁の寺】として有名になりましたね。
水上勉は小僧生活をしながら宗門の旧制・紫野中学に通いました。
紫野中学は大徳寺・相国寺・東福寺が合同で運営した徒弟教育の
為の学校でした
大徳寺に隣接する場所にあった為『紫野』と校名が付いたのですね。
現在は、府立紫野高校がこの地にあります。
大徳寺の参道から、西の弧蓬庵に向かう途中に
府立紫野高校があります。
参道の両側には、石田三成の菩提所で
長谷川等伯が襖に絵を描いた三玄院、
千利休の菩提所・聚光院、
豊臣秀吉が織田信長の菩提所として建立した総見院、
細川三斎の菩提所・高桐院があり、
歴史と文化を肌で感じる事ができますね!
弧蓬庵へ続く参道の坂道です。
水上勉もこの道を歩いて学校へ通ったのでしょうか
紫野中学の在学中に、瑞春院での小僧生活に耐え切れず
飛び出してしまいます
その頃の体験が小説『雁の寺』で描かれています
水上勉は同じ山内の玉龍庵住職に拾ってもらい、その後も
紫野中学へ通うことが出来たそうです
石垣を学生が組んで造ったのでしょうか。
府立高校と宗門の徒弟教育の学校では、雰囲気が
全然違うでしょうね。
旧制・紫野中学は財政難から廃校となり、水上勉は同じ宗門の
花園中学へ編入しました。
花園中学の通う頃には、衣笠山の麓にある等持院にお世話に
なっていました。
そして花園中学の後輩が金閣寺に火を放ってしまいました。
水上勉にとっても衝撃的な事件だったのでしょう
水上勉は、その犯人の生い立ちにふれて「金閣炎上」、
「五番街夕霧楼」を書き上げています
大徳寺の参道から上がった坂の上に弧蓬庵があります。
ここは小堀遠州が創建したお寺です。
水上勉は弧蓬庵を『雁の寺』の舞台としました
山門の前には立派な堀があり、下界と遮断された独特な世界が
中にあるような気がしますね。
苔むした石垣が時代を感じさせます。
通学途中に外から見た弧蓬庵の雰囲気から、ここを小説「雁の寺」
としたそうです。
小堀遠州が創建した弧蓬庵は寛政5年(1793年)の火災により
焼失してしまいました
その後、遠州を崇敬した大名茶人・松平不昧が古図に基づいて
伽藍を再建し現在に至っています
弧蓬庵は緑に囲まれていて、大徳寺から離れた場所にあります
この境内の空気を吸えば、私達も日々の悩みを忘れて時を
過ごすことができそうですね
境内には小堀遠州好みの茶室・忘筌(ぼうせん)があります
「魚ヲ得テ筌ヲ忘レ」
筌は魚をとるための道具で、
『目的を達すれば道具の存在を忘れる』という意味です。
目的が達成できれば、そのための道具はもう用がないですね。
「茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事を知るべし」
いつまでもその道具に執着しないようにという考えだそうです。
水上勉は小僧生活の辛さを忘れる事が出来なかったのでしょうか。
もしかしたら金閣炎上事件が、当時の記憶を心の奥に焼きつかせた
のかもしれませんね。
この静寂な境内と小説『雁の寺』の内容の隔たりが、水上勉の
苦悩の大きさを表しているような気がしました。
水上勉の足跡を訪ねて等持院に行ってみます
※長谷川等伯が描いた襖絵の話はこちら↓
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※織田信長の墓がある総見院の話はこちら↓
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※雁の寺・庭園編↓
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※雁の寺・雁の襖絵編↓
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※冬の高桐院↓
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※紅葉の高桐院①↓
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※紅葉の高桐院②↓
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