今回のいい寺は・・・
戦乱の世に散った細川ガラシャです。
大阪城の南側、玉造に《大阪カテドラル・聖マリア大聖堂》が
あります。
元細川家の屋敷内に建てられた教会です
ここは細川ガラシャ(玉)に関係した教会です。
ガラシャは明智光秀の三女です。
織田信長の勧めによって細川家に嫁ぎ、細川忠興の正室に
なりました。
本名は、細川玉(珠)です。
二人は仲の良い夫婦で二人の子に恵まれましたが、
父・明智光秀が本能寺の変で織田信長を討ってしまいました。
その日から、逆臣(謀反人)の娘として苦しい日々が始まりました。
明智家以来の小侍従や細川家遠縁の侍女を伴って、丹後の
山奥に幽閉されてしまいました
「身を隠す 里は吉野の 奥ながら 花なき峰に 呼子鳥鳴く」
細川玉が幽閉中に詠んだ歌です。
※細川忠興は、逆臣の娘として殺されないように幽閉の名目で
匿ったそうです。
時代は違っても、被害者の家族も加害者の家族にしても
苦しみは大変なものですね。
加害者の家族は、土地を追われるように離れていくことも…
越中井です。
大阪城の近く越中町にあった細川家屋敷跡です。
細川玉は二年後に豊臣秀吉の取り成しで大阪屋敷に
戻りました。
しかし、細川忠興は玉が外部と接触することを禁じた為
生活は幽閉時と変わらなかったようです。
豊臣秀吉によって許されても、身内によって監禁状態に
されていては、辛いですよね。
そして愛した夫には側室ができて、心の支えも失ってしまいました。
側近の者は、一生懸命に彼女を支えて励ましたのでしょう。
細川玉の侍女頭は、細川家の遠縁で洗礼を受けていた
清原枝賢の娘マリヤ(洗礼名)でした。
マリヤによって細川玉は、キリストの教えに触れて心が
惹かれていきました。
「どんなときでも神は見捨てずにいてくれますよ」
キリスト教が彼女にとって救いの手となったのでしょう
家族にしても教えにしても、私たちは支えがないと生きていけませんね。
「生きて死ぬ智慧」の著者・柳沢桂子さんも病気の苦しみの
なかで般若心経と出会い、
「般若心経は雨に濡れた私にさす傘でなく、雨雲を散らしてくれて
私をカラッと晴れた気持ちにさせてくれました」
と述べていました。
監禁状態であった細川玉は、夫・細川忠興が豊臣秀吉の
九州征伐について出陣している間に、密かに教会へ
教えを聞きに行きました
「苦しみの闇でこそ人の光は美しく輝く、
そして感謝の気持ちで受け入れる」
神父の言葉に感銘を受けた細川玉は、その場で洗礼を
受けることを懇願しましたが、身分を隠していたので
願いが叶いませんでした
その後、侍女達を教会に通わせて洗礼を受けさせ、
毎日一緒に祈りを捧げました
いつしか洗礼をと願っていたのでしょうが、九州征伐中の
豊臣秀吉が《バテレン追放令)》を出したため、教会で洗礼を
受けることはできなくなりました。
そこでイエズス会神父の計らいで、侍女頭マリヤの手に
よって屋敷内で洗礼を受けることができました。
洗礼名《ガラシャ》(神の恵み)
「苦しみすら感謝の気持ちで受け入れるキリスト教によって救われる」
細川玉は《細川ガラシャ》となって謙虚で明るい性格に
なったそうです。
しかし、喜びはつかの間、すぐに悲劇が訪れました。
大名のキリスト教信仰が禁止されるなか、細川忠興が
侍女達のキリスト教改宗を知ったのです
激怒した細川忠興は、改宗した侍女の鼻を削ぎ、屋敷から
追い出してしまいました。
細川ガラシャの苦難の始まりだったのでしょう。
そして歴史は関が原の合戦へと向かっていきました。
細川忠興は東軍に付いたため、石田三成が細川ガラシャを人質に
取ろうとしました。
しかし、細川ガラシャはそれを拒み、家臣に自分を討つように命じました。
「ちりぬべき 時知りてこそ、世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
本能寺の変で逆臣の娘となり、キリシタン禁止令が出されたなかで、
ガラシャを支えた侍女達を失い、人質となることは到底受け入れられる
ことではなかったのでしょう。
今が神のもとに行く時とさとって、命の果てる道を選んだと
思いました。
散り際の妙というものでしょうか。
細川ガラシャによって細川家は守られました。
焼け落ちた屋敷からオルガンティノ神父がガラシャの骨を拾い、
堺のキリシタン墓地に埋葬されました。
後に細川忠興は神父に依頼して教会葬を行い、キリスト教を
受け入れなかった細川忠興も葬儀に参加したそうです。
その後、遺骨は大阪の宗禅寺へ改葬され、墓所は何箇所かに
造られました。
そのひとつが京都 大徳寺・高桐院ですね。
玉造の聖マリア大聖堂には、細川ガラシャを慕う方が訪れて
いました。
細川ガラシャの人生と向き合い、みなさんそれぞれに思うところが
あるのでしょうね。
次は、再び大徳寺・高桐院を訪れてみます