大分 大友宗麟が創建した臼杵城

今回のいい寺は・・・
大友宗麟が創建した臼杵の城です

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戦国時代、九州北部六ヶ国を手に入れた大友宗麟
南蛮貿易で手に入れた富を基に力を伸ばしていきましたが、
人生は順風満帆とはいきませんでした。
家督相続の争いでは父や弟を討ち、敵対した家臣を粛清しました。

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近隣の国との戦で身内や家臣を失うなかで、北九州全域を
手に入れて全盛期を迎えました。

そんな時に大友宗麟(義鎮)は、出家して僧名・休庵宗麟
なりました。
多くの流血と犠牲があったので、仏門に入って菩提を弔う
気持ちになったのでしょう。
キリシタン大名になる前の姿ですね。

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大友宗麟は国を治める政の中心を府内(現大分市)
置きましたが妻との不仲から臼杵に城を創建して、妻子を
残して府内から移ってしまいました

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大友宗麟は臼杵の丹生島に城を造りました
北に毛利氏、南に島津氏と有力大名に囲まれていたので
自然の要塞としてこの島を選んだのでしょう
引潮の時に砂洲ができて一ヶ所だけ陸とつながったそうです。

今は周囲を埋め立てて、臼杵の町の一角となってしまいましたが
城郭へ登る道が自然の岩盤を削って造られていて昔は島だった
ことがうかがえますね

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大友宗麟は六ヶ国を治めた上に、対岸の四国・伊予半国も
手に入れていました。
四国・佐多岬半島と大分・佐賀関半島の豊予海峡が海の
関所となったのでしょう。
臼杵が往来する南蛮船の停泊地となって、活発に交易を
行いました

地の利を活かした大友宗麟の政治的手腕が大友家の
領地拡大につながったのでしょうね

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南蛮貿易を盛んに行った大友宗麟は、キリスト教への改宗
によってポルトガルの信頼を得たのでしょう
当時としては新兵器である鉄砲大砲、それに火薬類を豊富に
手を入れることが出来ました

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ところが大友宗麟のキリスト教への改宗は思わぬことに・・・
異国の宗教に改宗したことで一族や家臣の反感を買い
落胆した家臣の士気落ちてしまいました
また、離反する家臣も多かったそうです
信仰が深くなるにつれて、領地を失うことになってしまいました。

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海に浮かぶ自然の要塞・丹生島城
四方八方に櫓が造られて、臼杵湾に浮かぶ軍艦のようだったの
でしょう。
そして大友宗麟の晩年に、この城が活躍するときが訪れました。

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九州北部六ヶ国を治めた大友家は、度重なる敗戦で領地と力を
失っていきました。
最後は薩摩・島津氏の侵攻によって、大友宗麟の丹生島城
残すだけとなってしまいました
大友宗麟は島津軍を籠城して迎え撃ち、豊臣秀吉の援軍
来るまで持ちこたえたそうです

※これが豊臣秀吉の九州征伐です。
 豊臣家の家臣・細川忠興も出陣して、この間に細川ガラシャ
 カトリック教会を訪れてクリスチャンとしての信仰を深めました。

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この合戦では、南蛮貿易で手に入れた武器が大友宗麟を
助けました

中でも、ポルトガルから入手して 丹生城に備え付けられた
大砲《国崩》の威力は凄いものでした
大音響を発して敵陣に命中し、多数の死傷者を出した島津軍は
戦意を消失したそうです。

そして、豊臣秀吉によって九州は平定されました
この戦で、大友宗麟は疲れ果ててしまったのでしょう。
多くのものを失い、失意の中この世を去りました。

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現在は、城跡の至るところに鳥居があります。
キリシタン大名・大友宗麟が創建した城も明治の
廃仏毀釈をへて、神道の聖地となっているのでしょうか…

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大友宗麟の亡くなった後に大友家は改易となり九州の地から
姿を消してしまいました。
丹生島城は関が原の合戦後、臼杵藩に国替えした稲葉家
よって整備され三層四階の天守と31基の櫓が上げられて
臼杵城となりました。
廃藩後は、天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の
海も埋め立てられました。

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天守閣跡の脇にある卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)です。
寅の方角と卯の方角の間に位置するとされる「卯寅口門」の脇に
位置することから、この名前が付けられました。

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この横から登る鳥居のトンネルがありました。

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丑寅稲荷神社が建っています。
この神社は大友宗麟が築城に際して、丑寅口が城中の鬼門に
あたるため城の地主神・丹生島明神を祀ったのが始まりです。

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臼杵城に隣接して護国神社があります。

臼杵城は明治に起きた西南の役臼杵士族西郷隆盛軍
戦いの舞台となりました。
明治になって士族(上級武士)の生活が困窮して、不満を持つ
薩摩の士族が西郷隆盛を担いで反乱を起こしました。

臼杵の士族は、西郷軍に合流することなく政府方につきました。
そして、数で劣る臼杵士族隊は各地で敗れて、臼杵城は一日で
落ちたそうです。
戦国時代から江戸時代を経て、また薩摩との戦とは因縁めいて
いますね。

護国神社臼杵士族隊の霊を祀るために造られたそうです。
そして、稲葉藩の歴代の藩主と国家公益につくした人の霊が
祀られています
臼杵士族隊は、政府要職に就いた殿のためにと思って西郷軍に
戦いを挑んだのでしょう。

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臼杵城の至るところに護国神社の参道として鳥居があります。
城の入口の鳥居は、護国神社創建120年を記念して建てられた
ものです

臼杵藩を思う人々の心意気を今に伝えるものですね。

家臣が離反していった大友家稲葉家のためと負け戦に
向かっていった臼杵士族隊
・・・
臼杵を治めた二つの大名を比べてみると現代社会にも結びつく
ような気がしました。

経営者にとって、自分の理想を実現する会社にしたいと願う事は
当然でしょう。

宗麟の失敗は、人心を掌握しない経営者がたどる道と重なりますね。

武士社会であれ現代社会であれ、時を経ても要となる部分は
同じなのでしょう。

人心を掌握するということ・・・

不安を感じたり、苦しんでいるときにその状況にふさわしい一言
投げかけてあげられたらいいですよね

その一言で やる気を起こし

その一言で 励まされ

その一言で 夢を持ち

その一言で 嬉しくなり

その一言で 立ち上がる

その一言で 腹が立ち

その一言で 泣かされる

ほんのわずかなその一言で 不思議に大きな力を持つ

ほんの一寸のその一言で・・・

現代に生きる私たちもそれぞれの立場で考えるべきだと
思いました。

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城郭の跡地は運動公園となっています。
皆さんゲートボールを楽しんでいました

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城からの眺望です
臼杵港は造船所や九州と四国を結ぶフェリーの港となっています

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臼杵城の向かいの丘には、稲葉家の菩提寺武家屋敷が立ち並ぶ
二王座》があります。

次は、稲葉家下屋敷を訪ねてみます

※いい寺《玉造教会と細川ガラシャ》はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/123/

※いい寺《細川家菩提寺・高桐院》はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/125/

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