今回のいい寺は・・・
松平東照宮と葵の紋です。
松平家の始祖・松平親氏の銅像です。
この勇ましい姿からは、時宗の僧侶だったと想像
できませんね
松平親氏は松平郷を訪れて領主・在原重信の娘と
結ばれました
婿となって家督を継いでからは、豪族としての力を
発揮したそうです
徳川家・葵の紋の柄となった、双葉葵です
双葉葵は賀茂葵とも呼ばれ、賀茂神社の神事に使われる
神聖な植物です
京都・賀茂神社の祭礼では、賀茂葵を冠や牛者に付けて
行列することから《葵祭》と呼ばれるそうです
松平親氏の養父・在原重信の先祖は六歌仙、三十六歌仙の
ひとり在原業平とも、京都・賀茂神社系の賀茂氏の末裔で
本名は松平太郎左衛門重信とも言われています。
長久手の合戦の折に徳川家康が着た帷子(かたびら)です。
徳川家康は、三つ葉葵の紋の他に賀茂葵の紋も使用して
いました。
当時は、賀茂氏から繋がる松平郷出身の三河武士という
意識が強かったのでしょうか。
神聖な賀茂葵を身に付けて、戦での縁起をかついだかも
しれませんね
南禅寺・金地院にある東照宮です。
拝殿には、三十六歌仙が飾られていました。
金地院・崇伝和尚は徳川家康の知恵袋でした。
将軍職に就いた徳川家としては、清和源氏の流れをくむ
松平親氏を始祖として、それ以前を在原姓とした方が、
歴史をつくる上で都合が良かったのでしょう。
群馬県太田市の世良田東照宮です。
ここも徳川氏発祥の地といわれています。
松平親氏は世良田氏出身の時宗の僧侶だそうです。
清和源氏の流れをくむ世良田氏の領地だった場所に
東照宮を造ることによって、歴史をつくる作業は完結
したのでしょうね
松平東照宮です。
正式名称は、八幡神社・松平東照宮といいます。
当初は、松平親氏が氏神として若宮八幡を
勧請した八幡神社がありました。
江戸時代になって静岡・久能山東照宮から
徳川家康の分祀を行いました
現在の社殿は、関ヶ原の合戦後に建てられた屋敷跡
にあります。
周囲を堀と石垣で囲まれていて、往時を偲ぶことが
できます
松平郷は山に囲まれていて、里山全体が自然の
要塞だったのでしょう
真っ赤な門扉に金色の家紋が目立つ建物が徳川家康
生誕の折に用いられたという「産湯の井戸」です。
この地を開拓して領主となった在原信盛が掘った井戸
といわれ、松平家は代々この井戸の水を産湯に用いて
いました
徳川家康が岡崎城で生まれたときにも、松平郷・松平家
の当主・親長がこの井戸の水を竹筒に詰めて、早馬で
運び、産湯に用いたそうです。
現在も不老長寿、安産に霊験あらたかな御神水として
参拝者に授与されているそうです
鳥居を潜った横に、変わった御手洗(みたらし)場が
ありました。
石で出来たタライのような水盤です。
支えているのは邪鬼ではなく、4人の関取です。
そして、台座は土俵となっていますね。
平成5年には、松平親氏の六百年祭が行われました。
それに伴い松平郷は、松平親氏を中心とした史跡として
整備されています。
高月院に上る遊歩道の途中に石碑がありました。
独特な書体の碑文ですね。
松平東照宮の宮司さん染筆の松平親氏公願文です。
松平郷の平穏無事を願う松平親氏の気持ちが伝わります。
松平親氏は、領地を拡大するといった野望よりも、
領内の安泰を願っていたようです
そのような野望を持っていなかった親氏の子孫が
後に日本全国を治めることになるわけですから
不思議ですね!
しかし、よく考えてみると、むしろ打ち続く戦乱の世に
終止符を打って安泰を願うという心が、家康に引き
継がれていたからこそ、太平の世が二百数十年と
続く礎が築かれたのかもしれませんね
思想や哲学というものは、親から子へと引き継がれて
いくものなのでしょう。
私たちも、子孫によき思想や哲学を残していける
ように生きたいものですね
遊歩道には、氷池跡もありました。
明治から戦前まで真冬の間に氷を造って、山陰の
氷室に保管し、夏に岡崎方面へ出荷したそうです。
猛暑のなかで氷の話を聞くと、カキ氷が食べたくなりますね。
遊歩道には、天下茶屋という休憩所があります
店内にあった額です。
『鳴くまで待とうホトトギス』よりも滑稽な歌ですね。
歴史の流れが自然に徳川家康を天下人にさせたのでしょうか。
始祖・松平親氏の平穏無事を願う気持ちが徳川家康に
伝わり、太平を願う戦国武将の気持ちを掌握して天下を
取ったかもしれませんね!
遊歩道は、色々な種類の草花が植えられて
多くの生き物が生息しています。
松平郷を訪ねてみて、自然と歴史に触れることが
でき、何か得をしたような気がしました
次は、葵の御紋のもととなった双葉葵について
下賀茂神社を訪ねてみます
※南禅寺 金地院についてはコチラ↓
いい寺「何禅寺 金地院」①
e-tera.net/Entry/51/
いい寺「南禅寺 金地院」②
e-tera.net/Entry/52/