今回のいい寺は・・・・・・
久能山東照宮です。
久能山東照宮へは日本平からロープウェーで
行きました
行きました
標高308mの日本平から標高216mの
久能山東照宮へ5分で結んでいます。
久能山東照宮へ5分で結んでいます。
ロープウェーの車体は、お殿様、お姫様の籠を
イメージしているそうです
イメージしているそうです
ロープウェーから伊豆半島の先端まで見渡せます
駿河湾を往来するタンカーが小さく見えますね。
駿河湾の最深部は水深2500mで、この深い海に
黒潮が流れ込みこの地方は温暖な気候になっています
黒潮が流れ込みこの地方は温暖な気候になっています
静岡県民は温暖な気候と富士山で温和な性格の方が
多いそうです
多いそうです
久能山東照宮へ正面から上ると1159段の石段が
待っています
待っています
眼下には、ビニールハウスが並んで見えますね。
久能海岸の狭い土地と斜面を使って「石垣いちご」の
栽培が行われています
栽培が行われています
温暖な気候とビニールハウスで正月からGW頃まで
「イチゴ狩り」が楽しめます
門を潜ると目の前に門衛所があります。
江戸時代に門を守るために与力がいた場所で、
ここで登拝者を制限したそうです
ここで登拝者を制限したそうです
久能山東照宮は、他の東照宮とは建てられた
意味合いが違ったのでしょうか。
意味合いが違ったのでしょうか。
急な石段と石垣が、城の本丸に向かって上っているようです。
1500年前に久能寺として開かれた久能山は、
武田信玄によって自然の要塞・久能城と変貌しました
武田信玄によって自然の要塞・久能城と変貌しました
武田氏が滅んだあと駿河は徳川氏の手に入り、
徳川家康は駿府(静岡市)に居城を構えました。
その後、遺言で徳川家康の遺体は久能山に葬られ、
二代将軍徳川秀忠によって久能山東照宮が建立され
現在にいたっています。
二代将軍徳川秀忠によって久能山東照宮が建立され
現在にいたっています。
後に徳川家康の亡骸は日光東照宮へ移りましたが、
今でも廟が祀られています
今でも廟が祀られています
石段を上っていくと武田信玄の家来で軍師・山本勘介の
掘ったといわれる井戸があります。
掘ったといわれる井戸があります。
山本勘介は最初に今川家に仕えて静岡にいましたが、
武田信玄に才能を見込まれて武田家に仕官して甲府に
移ったそうです。
武田信玄に才能を見込まれて武田家に仕官して甲府に
移ったそうです。
山本勘介は築城術にも長けていていましたから、久能寺を
城に改築するときにも腕を揮ったのでしょうね
城に改築するときにも腕を揮ったのでしょうね
そして、生活に必要な水を確保する為に、先ず井戸を
掘ったのでしょう
掘ったのでしょう
水は大切ですよね
1159段の石段を上ってきた人の喉を潤してくれますね。
目の前には、楼門へと向かう石段があります。
喉を潤し呼吸を整えて、もうひと踏ん張りですね
楼門の上には、御水尾天皇の御宸筆で「東照大権現」
の額が掲げてありました。
徳川家康が東照大権現であることを天皇が宣旨(せんじ)
した証です。
の額が掲げてありました。
徳川家康が東照大権現であることを天皇が宣旨(せんじ)
した証です。
一般参詣者が通る楼門ですが、天皇の勅使が通る役目も
しているそうです。
楼門を潜ると、徳川家康の手形の色紙が置いてありました。
ふっくらした感じの手形ですね
ただ徳川家康が38歳の時は、長篠の合戦の後岡崎城に
いた正室と長男が武田方と内通しているとの事で、
織田信長の命により殺害した悲しい年でした
いた正室と長男が武田方と内通しているとの事で、
織田信長の命により殺害した悲しい年でした
理由はともあれ嫡男を切腹させるのですから、
戦国時代は厳しい時代だったのですね
戦国時代は厳しい時代だったのですね
楼門を潜ると御手洗い場があります。
ここで口を濯ぎ、手を洗って心を清めてから拝殿へと
向かいます
向かいます
二代将軍徳川秀忠が二年弱の短い期間に創建した
伽藍ですが色彩が鮮やかな権現作りの社となっています。
伽藍ですが色彩が鮮やかな権現作りの社となっています。
19年後に3代将軍徳川家光によって日光東照宮が
創建されるまで、徳川家康は久能山東照宮に祀られ、
多くの大名がこの地を訪れたでしょうね
創建されるまで、徳川家康は久能山東照宮に祀られ、
多くの大名がこの地を訪れたでしょうね
参詣記念の石灯籠が沢山並んでありました
それでは、桃山時代の技法も取り入れられた江戸初期の
代表的建物を拝観しながら御参りしてみます
代表的建物を拝観しながら御参りしてみます