今回のいい寺は・・・・・
久能山東照宮参拝です
静岡が全国に誇る場所といえば、日本平・久能山東照宮
ですね。
ですね。
荘厳な権現造りの社殿は、日光東照宮の見本となり
徳川家康の歴史を残すものとなっています
青銅の鳥居を潜って拝殿に向かいます
「我れ死後は遺骸(いがい)を久能山に納め、葬儀は
江戸増上寺で営み、位牌(いはい)は三河大樹寺に
立て起き、一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を
建て勧請(かんせい)し、関八州(かんはっしゅう)の
鎮守にせよ」
江戸増上寺で営み、位牌(いはい)は三河大樹寺に
立て起き、一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を
建て勧請(かんせい)し、関八州(かんはっしゅう)の
鎮守にせよ」
これが徳川家康の遺言でした。
鳥居を潜ると左手に立派な朝鮮蘇鉄が植えてあります
周りの基礎石は明治になるまで此処に五重塔が
建っていた跡です
建っていた跡です
廃仏毀釈で五重塔は取り壊され、駿府城から朝鮮蘇鉄を
移して植えたそうです。
駿府城も取り壊されて静岡市に払下げとなりました。
時代の移り変わりを感じます。
移して植えたそうです。
駿府城も取り壊されて静岡市に払下げとなりました。
時代の移り変わりを感じます。
蘇鉄の他に、徳川家康が駿府城に植えた樹齢三八〇年
の「実割梅」が移植してありました。
の「実割梅」が移植してありました。
樹齢三八〇年にしては幹が細いですね
この梅は駿府七不思議の一つに数えられ、実の筋が深く、
簡単に割れて食べやすく重宝された梅だそうです。
簡単に割れて食べやすく重宝された梅だそうです。
正面の石段には柵がしてあります。
正面の石段から唐門を通って拝殿に行けたのは、
勅使か徳川家だけだったのでしょうね参拝者は、
隣の石段を上ります
隣の石段を上ります
徳川家康が駿府に居城を構えた理由として・・・
一、富士が常に見られる(景勝地)
二、鷹(狩り)によい(民情視察や運動によい)
一、富士が常に見られる(景勝地)
二、鷹(狩り)によい(民情視察や運動によい)
三、茄子を名産として何処よりも早く食べられる(温暖な気候)
の三つをあげたそうです。
民情視察といえば新製品を開発した時、先ず静岡と広島
で先行販売して商品の人気を調べるそうです。
で先行販売して商品の人気を調べるそうです。
石段の途中に神庫があります。
校倉造りの建物で、ぬれ縁が銅版で覆ってあるところから
日枝神社です。
江戸時代までは、薬師堂で薬師如来が祀られていました
廃仏毀釈で神社に変わり、祀られていた仏さんは麓の寺に
移されています。
移されています。
日枝神社と徳川家康の関係は深く桃山時代に江戸に移封した際、
江戸城の鎮守として遷宮したそうです。
江戸城の鎮守として遷宮したそうです。
日枝神社から見た拝殿とつながった権現造りの本殿です。
最近、修復して彩色の鮮やかな社殿が蘇りました
日光東照宮に比べて質素と言われますが、豪華な造りですね。
見事な飾りを施した拝殿の軒裏です。
拝殿の正面です。
奥の本殿には三つの扉があり、中央が徳川家康で左右に
織田信長と豊臣秀吉が祀られています
徳川秀忠は、父家康を大明神として久能山に祀ろうと
しましたが、「豊臣秀吉と同列の明神でいいのか」
しましたが、「豊臣秀吉と同列の明神でいいのか」
の一言により東照大権現となって祀られたそうです
その豊臣秀吉が脇に祀られているのも不思議ですね。
本殿の左から徳川家康の神廟に向かう石段があります。
参道沿いには、大名が参拝の折りに記念に置いた石灯籠が
整然と並んでありました
整然と並んでありました
苔むした石灯籠が、権現造りの建物と対照的で静かな
雰囲気でした。
雰囲気でした。
徳川家康の神廟です。
徳川家康は元和2年4月に75年の生涯を閉じましたが
その日の夜には、遺骸(いがい)を久能山に移したそうです。
生身の遺骸を早く人目から隔離して、徳川家康の尊厳を守り
偉大な神として祀ることを考えたそうです。
その為、遺骸の埋葬式は神道でおこなわれ、ごく一部の
関係者以外の立ち入りを禁止したそうです
関係者以外の立ち入りを禁止したそうです
そして、徳川家康の遺言は位牌の件以外は反故とされ
増上寺での葬儀は行われず、日光に小さき堂を建て
勧請(かんせい)するはずが、一年後には遺骸を掘り起こし、
日光に改葬され大規模な東照宮が造営されました
勧請(かんせい)するはずが、一年後には遺骸を掘り起こし、
日光に改葬され大規模な東照宮が造営されました
世の中の流れは常に変化して、本人の思いと周囲の思惑が
違った結果、遺言のとおりに行かなかったのでしょうね。
違った結果、遺言のとおりに行かなかったのでしょうね。
神廟前の灯籠には、宝珠と密教道具の三鈷杵(さんこしょう)が
描かれていますね。
描かれていますね。
徳川家康が東照大権現となる流れには、金地院崇伝と
南光坊天海の二人の僧が大きく関わりました。
南光坊天海の二人の僧が大きく関わりました。
彼らによって、主君家康は神君家康となり関八州の鎮守
となったそうです。
となったそうです。
そこで、明治になるまで各地の東照宮は神仏融合の場所
だったのでしょうね。
だったのでしょうね。
日光東照宮が関八州の鎮守となり、久能山東照宮は
西に睨みをきかす存在だったそうです。
西に睨みをきかす存在だったそうです。
生前の徳川家康も、江戸を守るために駿府に居城を建てて
西に睨みを利かせたのでしょうね
権力者は、自分が手にした天下を安定し継続させようと
思い、自分の死後の事が心配で心配でたまらないもの
なのでしょう!
思い、自分の死後の事が心配で心配でたまらないもの
なのでしょう!
徳川幕府の治世を守るために、このように家康を神格化
する事で、その威を示したり様々な政策がなされたの
でしょう。
そのような様々な政策のおかげで、徳川幕府は
200数十年にも渡って政権を維持しました
しかし、そうした政権の一つである鎖国のほころびが
倒幕への流れを作った事を考えると、時が経ても
大事にしなければならない事と、時代に応じて変化を
させなきゃいけない事があるように思いました
もうひとつは、家康が徳川幕府は開いた頃は
戦乱が長く続いた中で天下太平を望むという志で
幕府を開いたと思います。
そんな、天下太平の為に、安定・継続する治世を
望みつつ様々な手を打ってきたんだと思います。
それが、いつしか天下太平の為ではなく、徳川の
為になっていったのかもしれませんね・・・
いつの時代のいかなる政権も、天下の為(民衆の為)
という『志』を失った時、滅びて因みを作っているように
思います。
高い志…できれば、私達もしっかり持って生きたい
ものですね
次は、駿府の町・静岡市街に行ってみます。