いい寺★次郎長・矢田を目指す

今回のいい寺は・・・・・
次郎長・矢田を目指す
 
お茶屋の主人から
「矢田の一本松から半里いったところが
寺津の町です」
と聞いた清水次郎長一行は西尾・矢田を目指します。

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矢田に着くと、街道沿いに大きな寺院が
目に入ります。
亀休山・養寿寺です。
創建は今から1200年前です。
東大寺の僧・勤操僧都が矢田を通りかかった時、
浜辺だったこの地に霊亀が現れて砂浜で休んで
いるのを見て弁財天を祀ったのが始まりだそうです。
 
 

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山門前には、三河・円光大師(法然)二十五番霊場
の石碑がありました。
養寿寺は浄土宗西山深草派の寺院で、京都・河原町
六角の誓願寺が本山です。
法然上人から伝わる念仏信仰を宗旨として、全ての人
が救われる「念仏」の教えを説いています。
 

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渡世人となって清水を飛び出した次郎長一行
仏の教えから外れて侠客の道へとまっしぐら!
 
堅気の人なら畏怖の念があって道から外れる事に
躊躇しますよね。
侠客の道を志した清水次郎長は、そんなことは
おかまい無しで地獄の閻魔様も怖くはなかったでしょう。
そんな、清水次郎長も耳を傾けたくなる教えがあります。

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法然上人の説かれた教えに
「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」
悪人正機説があります。
 
親鸞聖人
「悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の
根機である」と説いています。
侠客でも救われて、閻魔大王でなく阿弥陀様の
顔を拝むことが出来る・・・
これは、清水次郎長にとっても実にありがたい教えですね!
 

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しかし、そこにはちゃんと注意書きがあります。
法然上人は悪を慎み、を努めることを勧めました。
親鸞聖人も「薬あればとて、毒を好むべからず」と戒めています。
誤解すると邪鬼のように四天王に踏まれて、極楽浄土
遠くなってしまいますね。
 
豊田、岡崎から西尾にかけて矢作川沿いには浄土宗
浄土真宗の寺院が多いです。
この地方に暫くいて侠客の修行をしましたから地元の
風習信仰の影響もうけたでしょう。
明治元年に官軍の支配下にあった清水港で幕府海軍・
咸臨丸が撃沈されました
 
咸臨丸の船員の遺体を懇ろに葬って裁きを受けた清水
次郎長は、「死ねばみな仏、仏に官軍も賊軍もありません。」
山岡鉄舟に答えた話があります。
 
感銘を受けた山岡鉄舟は、
「精神満腹」と書した額を清水次郎長に渡したそうです。
その素養は、浄土宗の盛んな三河で自然に養ったもの
かもしれませんね。
 

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善でも悪でも、敵でも味方でも、どの道を歩んでも手を
差しのべる仏様がいます。
皆さんご存じの地蔵菩薩です。
あの世で二進も三進も行かなくなった時、最後に救うのが
地蔵菩薩の役目です。
すべての人を極楽浄土まで連れていってくれるそうです。
 
あの世の事を心配しては渡世人稼業は務まらないでしょうが、
寺津まで後半里、清水次郎長一行は矢田の養寿寺でお参り
してから治助親分の所に向かったような気がします。
 

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養寿寺徳川家と所縁のある寺院です。
ここには、家康初陣の木像や大伯母矢田姫の墓があります。
矢田姫は、戦国時代に吉良荘を治めていた吉良義安
に嫁いだ姫です。
吉良義安は今川義元に刃向かい駿府で人質となった時、
徳川家康と出会って元服した際には理髪役を務めたそうです。
そして、吉良義安の子孫が吉良上野介です。
吉良家が徳川家の遠縁にあたる事を考えると殿中の刃傷沙汰
で吉良上野介がおとがめを受けなかったのも分かりますね。

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養寿寺の釈尊涅槃会は『矢田のおかげん』と親しまれています。
当日は境内に沢山の露店が出て、多くの人々で賑わいます
かげん」とは管弦楽のことで、今から三百年以上前にこの地で
飢饉があった時に、人々が音楽を奏でて安泰や繁栄を祈った
そうです
 
さらに西尾藩の殿様の計らいで管弦楽付の涅槃会が10日間
行われその間藩内は休日だったそうで
これが『矢田のおかげん』の始まりです。
修行中の清水次郎長も『矢田のおかげん』に出向いたでしょうね。
境内の何処かでサイコロを振っていたかもしれません

 
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もしかしたら地蔵菩薩に願を掛けていたかもしれませんね。
「日本一の侠客になりますように」
 
後で住職に伺いましたら清水次郎長が露天商を呼んで
祭りを企画したそうで芝居などもあったそうです。

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現在の寺津町です。
名前の通り寺と漁港(津)の町です
 
寺津に着いた一行は、早速に治助親分の門を潜ります
ところが、玄関先の壁には十手や捕縄が整然と掛けられていました。
博徒でお上の御用をつとめる二足の草鞋を履く岡っ引きの家でした。
 

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次郎長の生家に氷川きよしの写真が飾られていました♪
清水次郎長は腹をくくって
「おひけぇなすって・・・・・・清水次郎長 江尻熊五郎、
庵原広吉・・・」
一通りの挨拶をすませると奥から治助親分が現れ
「よく来てくれた、さあ」
と手をとり奥に案内しました。
「国元で喧嘩をやって飛び出してきたが、途中で路銀が
つきて困ったところに兄貴の事を聞いてやって来たしだいです。」
程なく清水次郎長は、治助親分のところで草鞋を脱ぐことが
出来ました。
治助親分は清水次郎長一行を家において、厚くもてなした
そうです。
 
次は、寺津の治助です。

※養寿寺の本山「誓願寺」についてはコチラ↓
  e-tera.net/Entry/107/

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