今回のいい寺は・・・・
この辺りの親分のところで世話になろうとお茶屋に入って
「三河で有名な親分は」
と尋ねたところ・・・
と尋ねたところ・・・
「吉良の武一が剣の達人で、侠客中の侠客といわれた
親分です」
親分です」
「寺津の親分は、武勇が並はずれて日の出の勢い
ですよ」
ですよ」
と二人の親分の名前がでました。
寺津の親分が旧知の治助と分かった清水次郎長一行は
現西尾市・寺津に向かいました
寺津の治助の所に草鞋を脱いだ清水次郎長は、
夜はサイコロをふり昼間は吉良の武一の門下に
なって剣術を学びました
夜はサイコロをふり昼間は吉良の武一の門下に
なって剣術を学びました
吉良の武一は元備前岡山藩の藩士でした。
寺津と吉良の間には矢作古川が流れています
この川を渡って吉良武一の道場に通ったでしょうね
武一の道場で清水次郎長は稽古の虫だったそうです。
それも、開けても暮れても「突き」の稽古でした。
「こちらがジッとまっていると相手切り込んでくる
それをすっとかわして、サッと斬る それでおしまい」
ここで、次郎長剣法が開眼しました
後年、刺客の襲撃を受けた時に、逆転の突きで相手を
たおしています。
たおしています。
吉良の有名人といえば、吉良上野介ですね
吉良上野介の家臣・清水一学も吉良出身です。
吉良邸に押し入った赤穂浪士に最後まで抵抗して
雪の積もる庭で倒される場面がありました。
吉良邸に押し入った赤穂浪士に最後まで抵抗して
雪の積もる庭で倒される場面がありました。
山の手に東条吉良家の居城跡があります
麓の殿町には江戸時代の舘・岡山陣屋跡があります。
清水一学は岡山陣屋の道場に幼少の頃から通って
腕を上げました
腕を上げました
吉良上野介の奥方に認められて十五歳で江戸へ
向かい、用心棒兼、中小姓にとりたてられました。
向かい、用心棒兼、中小姓にとりたてられました。
赤穂浪士の討ち入りで亡くなった時の年齢は二十五歳
でした。
でした。
清水一学の故郷・吉良町宮迫の風景です。
山の向こうに東条吉良氏の居城や岡山陣屋跡があります。
百姓の家に生まれた清水一学は、腕一つで出世街道を
歩んできました
吉良上野介も清水一学の腕に頼ったのかもしれませんね
宮迫地区の中心に大きな松の生えた寺院があります。
清水一学が眠る日蓮宗・円融寺です
山門の両側の松は、清水一学の時代からあるのでしょうか?
赤穂浪士に討たれた清水一学は吉良家の
江戸菩提所・万昌院に葬られましたが、後に
生まれ故郷の円融寺に分骨されました。
江戸菩提所・万昌院に葬られましたが、後に
生まれ故郷の円融寺に分骨されました。
当時の僧侶が吉良上野介の戒名
「霊性寺殿実山相公大居士」に因んで清水一学の
戒名を「端翁元的信士」から「実相院宗禅信士」に
改めたそうです。
西尾市にある吉良氏初代の菩提所・実相寺にも
つながる戒名ですね。
「霊性寺殿実山相公大居士」に因んで清水一学の
戒名を「端翁元的信士」から「実相院宗禅信士」に
改めたそうです。
西尾市にある吉良氏初代の菩提所・実相寺にも
つながる戒名ですね。
清水一学は故郷の風景を一望できる場所に眠っています。
寺の周りに茶畑が広がります。
西尾市・実相寺に聖一国師がお茶の苗を伝えてから
明治時代に西尾市全体にお茶の栽培が広がりました。
吉良にも伝わり「吉良茶」として栽培が普及しています
清水一学の生まれる以前に、この地から武芸に秀でた
人物が出ました。
西尾市・実相寺に聖一国師がお茶の苗を伝えてから
明治時代に西尾市全体にお茶の栽培が広がりました。
吉良にも伝わり「吉良茶」として栽培が普及しています
清水一学の生まれる以前に、この地から武芸に秀でた
人物が出ました。
弓道の達人、尾張藩に仕えた星野勘左衛門です。
円融寺の境内には、「星野勘左衛門 旧里」の記念碑が
建っています。
その力が発揮されたのが三十三間堂で行われた
「通し矢」の競技でした
「通し矢」の競技でした
京都・三十三間堂で成人式の日に行われる大的大会です。
新成人の門出を祝う行事として毎年多くの参加者が
腕をふるいます
腕をふるいます
この行事の本となったのが江戸時代に盛んに行われた
「通し矢」です。
「通し矢」です。
通し矢は、三十三間堂のぬれ縁の北の端から南の端に
置いた的を一昼夜の間に何本的に当てる事が出来るか
を競います
置いた的を一昼夜の間に何本的に当てる事が出来るか
を競います
特に御三家の尾張藩・紀伊藩では互いにどちらの藩に、
より優れた弓の使い手がいるのかを競うようになり、
通し矢の記録は次々に更新されていきました
成人の日に大的大会に参加した新成人の結果です。
遠くの的を射るのも大変ですね
江戸時代の「通し矢」で記録を出したのが尾張藩に
仕えた星野勘左衛門でした。
仕えた星野勘左衛門でした。
八千本の記録を立てて「総一」の称号を受けました
この記録は、24年間守られました
この記録を塗り替えたのが紀伊藩の和佐大八郎でした。
8132本の記録は今でも破られていません
縁側に腰かけて、軒と濡れ縁の間に矢を通し、120m先
の的に向けて1万本以上の矢を射るそうです。
技術と体力もどちらもいりますねー!!
縁側に腰かけて、軒と濡れ縁の間に矢を通し、120m先
の的に向けて1万本以上の矢を射るそうです。
技術と体力もどちらもいりますねー!!
気力も・・・
清水次郎長は、このような武芸の達人が出た吉良の
地で吉良武一の門を叩き、剣術の稽古に励みました。
そして、江戸時代の歌舞伎で大当たりした忠臣蔵の
敵役・吉良上野介の郷ですから、稽古の間に吉良家の
話などを聞いたかもしれませんね
「へぇー この地が吉良の殿様の郷かね」
次は、吉良上野介の菩提所・華蔵寺に行ってみます
※京都・三十三間堂の通し矢についてはコチラ↓
e-tera.net/Entry/53/
※実相寺と西尾の文化についてはコチラ↓
e-tera.net/Entry/180/