今回のいい寺は・・・・・
吉良家菩提所・華蔵寺です。
矢作古川を上っていくと幾つもの支流に分かれます
のどかな小川の風景ですが、一度大雨が降れば
氾濫して被害をうけます
氾濫して被害をうけます
江戸時代の初めに矢作古川の氾濫を抑えるために
新たな水路を通しましたが、それでも矢作古川流域
では水害が度々おきていました
では水害が度々おきていました
吉良の村々でも大きな被害をうけていました
領内を視察していた吉良上野介は領民の窮状を知り
水害から守るために堤を築きました
水害から守るために堤を築きました
この堤のお陰で水害の心配もなく稲穂が豊かに
育ったそうです
そこで黄金色に育った稲穂から「黄金堤」と呼ばれて
います。
います。
治水事業の視察の時に吉良上野介は赤馬に乗って
領内を回ったという話があります
領内を回ったという話があります
そこで、殿を慕う気持ちが郷土の民芸品になっています。
その歴史は三百年!
赤穂浪士に討たれたころから、この地域の子供の玩具
として親しまれているそうです
として親しまれているそうです
吉良町の吉良家に関係した場所では、この銅像が
迎えてくれます。
迎えてくれます。
忠臣蔵の憎き吉良上野介義央とは違う姿で・・・・
吉良上野介が眠る片岡山華蔵寺です
戦国時代に東条吉良氏を継いだ吉良義安は
今川義元に捉われて駿河の地で亡くなりました
妻は徳川家康の伯母で桶狭間の合戦の後、子・義定を
連れて吉良に戻ってきました
連れて吉良に戻ってきました
それを知った徳川家康は伯母親子に禄を与えて吉良家を
復興させます
復興させます
そして、吉良義定が新しい吉良家の菩提所として創建した
のが片岡山華蔵寺です。
のが片岡山華蔵寺です。
境内の片隅にある「真実をもとめて」の碑です
私達が知る赤穂浪士の物語は、江戸時代に歌舞伎の
私達が知る赤穂浪士の物語は、江戸時代に歌舞伎の
演目として作られた「仮名手本・忠臣蔵」が本となって
います
います
その内容は、史実にもとづいた事実だと思っていましたが
碑文には・・・
「元禄時代に吉良義央公と浅野長矩公との間に不和を
生じ、その処理に冷静さを欠き、殿中で浅野公が刃傷に
及んだ事から、幕府の掟に触れ、家は断絶、身は切腹
という事になった
「元禄時代に吉良義央公と浅野長矩公との間に不和を
生じ、その処理に冷静さを欠き、殿中で浅野公が刃傷に
及んだ事から、幕府の掟に触れ、家は断絶、身は切腹
という事になった
浅野公の舎弟大学氏の後継が不首尾になった結果、
旧臣たちは禄を離れることになり、一か八かで吉良公を
討ち取ったが、当時の学者と協議して赤穂浪士に切腹を
命じた
吉良公は、治水等の功績が大で、評判の良い名君で
あったからである
名君(吉良上野介)を暗殺した者を忠臣(赤穂浪士)と
したのでは、武士道にも反し芝居にならないので、
したのでは、武士道にも反し芝居にならないので、
小説家、劇作家たちが、興味本位にいろいろのつくりごと
(増上寺畳替え、屏風の取り替え等)をして吉良公を
極悪人に仕立て上げ、忠臣蔵として世間に広めた
ものである・・・・」
(増上寺畳替え、屏風の取り替え等)をして吉良公を
極悪人に仕立て上げ、忠臣蔵として世間に広めた
ものである・・・・」
と、述べてありました。
物語と事件の真相は違うみたいですね
「もろもろのうらみつらみを泡と消し
心やすけく 生きなんわれら」
76年に建てられた碑文の最後にこの短歌が
ありました
90年春に吉良町の有志と赤穂市の代表が浅野・吉良
それぞれの菩提寺に墓参りをして双方の和解と交流が
始まったそうです
東京・泉岳寺の義士祭でも行列パレードを終えた後
代表者が本所松坂町公園(吉良邸跡)を訪れ、吉良祭
の法要にも参列するそうです
赤穂浪士の討ち入りから300年が経って、
「吉良も浅野も、ともに事件の犠牲者なのであるから、
今の世の自分たちが仲を取り持ってやらなければ、
永遠に仲直りすることが出来ない」
と、関係者は語っています
本堂の横には、吉良義安、吉良義定、吉良上野介義央
の木像が祀られた御影堂があります。
の木像が祀られた御影堂があります。
御影堂の前には、高家・吉良氏6代の墓所があります。
自然石の土台に立派なお墓がならんでいました。
歴代当主の墓より簡素で小さいのが吉良上野介の
墓です。
墓です。
何時も線香と花が絶えないそうですよ
高家・吉良氏は名門の流れを汲みながら、今川、
織田、徳川の間に挟まれて苦難の時が長かった
そうです
織田、徳川の間に挟まれて苦難の時が長かった
そうです
足利氏の支流として吉良荘に入り、繁栄と挫折を
繰り返して最後には、吉良の地から消えた一族・・・
終焉の地がこの墓所です。
墓所の奥には、鉄眼版一切経が納められた経蔵が
あります。
あります。
吉良上野介が遺した唯一の建物です。
創建当時の棟札には・・・
「このお堂を拝み瞻(み)て 讃え喜ぶ結縁の人々
みんな速やかに、極楽浄土に生まれんことを・・・・」
と吉良上野介の願が書いてあります。
平成14年に没後300年を記念して改修工事を
行いました
行いました
その時に瓦葺きから杮葺きに変えて上品な
建物になったそうです
建物になったそうです
墓所の中には、赤穂浪士の討ち入りで亡くなった
家臣の供養墓があります
「忠臣蔵」では敵方の手下として討ち取られました。
ここでは殿に忠義を尽くした赤穂浪士と同じように
ここでは殿に忠義を尽くした赤穂浪士と同じように
家臣として墓所に祀られているのでしょうね
吉良上野介義央300年祭記念句会に参加した
人の作品です。
人の作品です。
「義央忌来てみて知るる名君ぞ」
この地を訪れてみて吉良上野介が名君と分かって、
詠ったのでしょうね