今回のいい寺は・・・・・
吉良の塩です
吉良町出身の有名人
先ず挙げられるのは吉良上野介義央ですね
そして吉良仁吉、尾崎史郎がつづきます。
合わせて吉良3人衆と呼ばれています。
吉良仁吉は侠客で、清水次郎長と兄弟の盃を
交わした仲で義理と人情の人といわれています。
交わした仲で義理と人情の人といわれています。
尾崎史郎は作家で、代表作に「人生劇場」があります。
「人生劇場」は吉良から上京し
大学に入学した青年の青春とその後を描いた
長編シリーズです。
尾崎史郎は早稲田大学卒業で、
自身をモデルにして作品をつくりました。
後輩の五木寛之は「人生劇場」を
手本にして「青春の門」を執筆したそうです。
彼は故郷への思いが大変強かったそうです。
特に吉良上野介を慕い続けていました。
昭和22年に30年ぶりに帰郷した際に
吉良家菩提寺の華蔵寺を訪れ
吉良さん(吉良上野介)への思いを
色紙にしたためました。
「往昔見ずして語り、今日見て語らず」
昔は真実を見ないで面白おかしく語り
今は本当のことが分かっても語らない
吉良さんにたいする当時の世論に
やるせない思いがあったのでしょうね
そして元禄の騒動の原因に吉良と赤穂の塩を
取り上げていました。
吉良町は三河湾にも面しています。
昔は、三河湾で獲れた魚を帆掛け舟で矢作古川の
上流へ運んだそうです。
上流へ運んだそうです。
最近は、潮干狩りに多くの人が訪れます。
吉良のアサリはぽっちゃり型で甘みがあり春の味覚
として有名だそうです。
として有名だそうです。
そして、500年以上の歴史があるのが吉良の
塩作りです。
塩作りです。
吉良の塩は品質が良く、饗庭塩(あいばえん)の名で
知られていました。
知られていました。
昔から塩の需要は多く食用や岡崎の味噌製造や信州の
漬物に使用されました。
漬物に使用されました。
信州には矢作川を上り伊那街道を通って運びその道を
「塩の道」といいます。
「塩の道」といいます。
他にも四方八方に塩の道があります。
昔、武田信玄の治めた甲斐、信州には富士川や利根川
からも塩が運ばれていました。
からも塩が運ばれていました。
その塩の道が今川氏、北条氏に止められて領民が困窮
している時、武田信玄のライバル上杉謙信が越後から
甲斐、信州の領民に塩を送ったそうです。
している時、武田信玄のライバル上杉謙信が越後から
甲斐、信州の領民に塩を送ったそうです。
敵対関係にあっても相手が苦しんでいる時は手を差し
のべて助けてあげる…
これが、「敵に塩を送る」の意味ですね。
のべて助けてあげる…
これが、「敵に塩を送る」の意味ですね。
塩田で濃度を濃くした海水を貯めておく桶です。
吉良の塩作りは、潮の満ち引きを利用し海水を
塩田に引き入れる「入浜塩田」でした。
塩田に引き入れる「入浜塩田」でした。
赤穂藩の浅野家は山国の常州(茨城県)笠間藩から
転封してきて当初は藩の経営に苦慮しました。
そこで、家来を吉良に向かわせて製塩法を習い
塩田の開発に努力して良質の塩を作りあげたそうです。
吉良の塩も良質で「饗庭塩」のブランドで江戸で
評判でした
評判でした
元禄時代に赤穂藩が徳川綱吉に塩を献上したこと
から御用達になり、赤穂の塩は「饗庭塩」以上に有名に
から御用達になり、赤穂の塩は「饗庭塩」以上に有名に
なりました。
スポーツの世界で同郷の先輩や前に在籍したチームに
勝つことを「恩返し」といいますが、赤穂の塩の場合は
吉良の塩の経営を脅かしたので「恩返し」とはいかなかった
勝つことを「恩返し」といいますが、赤穂の塩の場合は
吉良の塩の経営を脅かしたので「恩返し」とはいかなかった
みたいです。
ライバルでなく商売仇となってしまいました。
今の社会では、他社のブランドを研究して良い所を
自社製品に取り入れていく事は常識となっていますね。
自社製品に取り入れていく事は常識となっていますね。
そして、他社に負けない物を造る事によって技術は
進歩していきます。
進歩していきます。
特に日本は改良していく技術は世界一だと思います。
日本人には上杉謙信が敵に塩を送ったように
人情があると思います。
これからは、ただ利益に執着して業績をのばすだけを
使命と考えない社会になってもらいたいです