小説の題材となった金閣(舎利殿)の放火事件!
道半ばで放火犯となってしまった金閣寺の
弟子・林養賢。
華やかに輝く金閣への劣等感や住職への
不満が事件を起した理由なのでしょうか?
林養賢の父は、若狭湾に面した半島の先端
成生にある西徳寺の住職でした
成生は小さな漁村で、冬は陸の孤島となり
家族の暮らしは大変でした
京都・舞鶴の中学へ進学した林養賢は、
父の実家に下宿して通ったそうです
中学生のときにその父親は結核で亡くなって
しまいます・・・
母子で寺を守る事は出来ず、母の故郷に
身を寄せて、京都で小僧生活をすることに
なりました。
縁あって、金閣寺に弟子入りした林養賢は
旧制花園中学に編入して7~8人の兄弟弟子
と寝起きを共にしました。
当時は戦時中でろくに授業も無く、畑仕事などを
していたそうです
学僧や弟子の多くは食糧難や戦争からくる
疲弊した社会に反発心を持っていました
金閣寺の弟子は住職に叱られて蔵に閉じ込め
られると、蔵の美術品を窓から外に投げ出して
後で質屋に売ってお金にしていたそうです
そんな中で林養賢は優秀で性格も良く、
住職は彼を跡継ぎにと考えていたそうです。
母親も若狭の寒村寺院から、有名寺院への
出世を期待していました。
ただ優秀な林養賢自身は、僧侶としての才能や
器でないことを分かっていたのでしょう。
住職や母親の期待という重圧から逃れる為に
金閣に火を付けたそうです
火事の知らせを受けた母親は、火事見舞いを
持って金閣寺を訪ねます
そこで初めて我が子が放火犯と知ります。
犯行後の息子にも面会を断られ・・・
失意のなか、帰りの列車から保津峡に
投身自殺をしてしまいました
当時を知る人の話では、
「金閣寺の放火事件は、彼個人の問題ではなく
誰もが犯人になりえる時代だった。」
「母親を自殺に追い込んだことが1番の罪」
と言っていました。
水上勉は林養賢と同じ若狭の出身です。
同じように学僧の経験をしたことから、水上勉は
彼に近い視点で「金閣炎上」を執筆したそうです
初期の作品には、「雁の寺」、「五番町夕霧楼」、
「白蛇抄」と思春期の学僧をテーマにした作品が
多くありました。
水上勉も当時の宗教界への反発を作品で
示したのでしょうか?
次は水上勉の世界を散策してみます。