いい寺☆永昌寺・島崎家の菩提寺

今回のいい寺は・・・
島崎家の菩提寺 永昌寺です♪

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江戸時代から明治維新へと

世が明けたけれど「あの時分は良かった!」

と平和な江戸時代を懐かしむ人が多かったそうです

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島崎家の家宝 小倉百人一首

中山道は江戸と上方を結ぶ動脈のひとつでした。

各地の文化が街道沿いの宿場に♪

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濃尾から南信州にかけて地方歌舞伎が盛んでした。
近隣の飯田には江戸から市川海老蔵がしばしば
興行に訪れたそうです

馬籠の秋まつりでは祭礼狂言の興行が3日間も!

年に一度の楽しい祭は、祭礼狂言で盛り上がり、
囲炉裏端でも狂言の話で盛り上がったそうです

大分の日田祇園祭りでも人々が力を合わせて
作り上げているのを感じ感動しました
祭りが終わったら、翌年のために一年間準備に
取り組む

みんなで作り上げているからこそ、その姿を観たい
と人々が集まってくるのだと思います

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街道沿いの至るところに道祖神が祀られていました
村の守り神であったり、旅人の安全を願う神として
道の傍らや道が交差する辻から見守って
くれています

お地蔵さんがいたり、神様がいたり・・・
土地の風習の中で仲良く祀られていましたよー

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明治時代に入って、幕府から僧侶に与えられた
宗門権の廃棄と、神仏分離が行われて、神道
中心にした国づくりが始まりました

この動きが地方では、廃仏運動や他宗教の
弾圧となって現れました

明治6年になると、国内外からの批判が強まり、
政府は信仰の自由を認めました
そして、国学者が望んだ王政復古への道は
頓挫してしまいます。

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島崎藤村の父親は王政復古への想いが強くなり
「どこか古い神社に仕えて新たな生涯を
開きたい!」と東京へ行くことを決めました

そこで、菩提寺との縁を切るために先祖代々の
位牌を引き取りに菩提寺に向かいます

菩提寺の和尚さんは、藤村の父親の考えを
理解して、不機嫌な顔をすることなく、先祖の
位牌を差し出しました。

ただ、寺の創建と復興に携わった先祖の位牌
だけは残してもらいました。

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東京では、任地先が決まるまで教部省に勤めて
いました。
当時の宗教界を担当する役所で、各宗派の
勝手な行動を目の当たりにします

「神道を根本に国民教化の基準をしっかりと
打ちたてておかないと・・・」
と張り切ったところで水無神社から宮司の話が
舞い込んできます

「誰か飛騨行きを引き止めてくれ」と未練を残し
ながら、東京を離れて山深い飛騨の地へと
赴きました

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飛騨の地は神仏習合の風習が残っていて、神社は
寺院の一部という考えの強い地域でした。
藤村の父親は、4年間この地で宮司の職を務め
ましたが、それ以上この地に留まることはできません
でした

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島崎家の菩提寺・永昌寺には、永昌寺を創建
した島崎家代々のお墓があります。

当時の和尚さんは、修行中からお世話になった
大檀那の島崎家や檀家への恩を忘れずに
住職の務めを一生懸命行っていました

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境内の裏山を整備して庭を造ったり、
「村のためにも役に立とう、貧しい百姓の
子供をも教えよう」と村の子供たちには
寺子屋で読み書きを教えました

藤村の父親の要望で敬義学校を建てる場所
も提供しました。

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寺を訪れる檀家にはお茶を出して、世間話や
悩み事を聞きました

ある時、和尚さんは十五夜の月見にと藤村の
父親を招いて、村民と一緒に膳を囲んでお酒
を酌み交わしました

寺を離れた藤村の父親でしたが、和尚さんは
笑顔で接待しました

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その頃、東京でも飛騨でも挫折した藤村の
父親は「復古の道は途絶えた」との思いから
幻覚に悩まされていました

月見の宴の後、藤村の父親は永昌寺
訪れます。
そして、本堂の障子に火を放ってしまいました

幸い、様子が変だと後をつけて来た村民が
消したので大事には至りませんでしたが・・・

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藤村の父親は座敷牢に幽閉されてしまいます。
戸長の役を下され、復古への夢は破れ、宮司の
務めに挫折。

そして「私はおてんとうさまを見ずに死ぬ。」と
言い残して、自分の望んだ世の中が訪れる
ことなく、静かに息を引き取りました

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葬儀は永昌寺の境内で、神葬にて営まれ
先祖の墓所に埋葬されました

本堂に火をつけられてもなお、和尚さんは
彼の理解者でした

「御一新の時に宿場の組織と同じように僧侶も
廃止して境内を父親が創立した敬義学校の
ための学びの場にしたかったのでしょう。」
と彼の弟子に話しました。

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廃退した宗教界を仏教伝来以前の神道に復古
しようと最後まで突き進んだ藤村の父親。

絶縁して本堂に火をつけられても
最後まで創建の恩を忘れなかった和尚さん。

どちらも宗教に対して純粋な気持ちを持っていた
ように思えました。

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和尚さんは跡継ぎを育てて、本堂の雨漏りを
直したらまた行脚に出る、と藤村の父親の
弟子に話しました。

「もし、その老年の出発の日が来て、西は長崎の
果てまでも道をたどりうるようであったら、遠く
故郷の空を振り返ってみる一人の雲水僧の
あることを記憶しておいてくれよ。」

藤村の父親も、最後まで「復古」にこだわらずに
菩提寺へ先祖の位牌を戻すことができたら
良かったのになーなんて思いました

江戸時代から明治、昭和、平成・・・と時代は
移り変わるけれど、その変化のときに良いもの
まで変えてしまわぬよう、又、他を力でねじ伏せて
まで排除せぬよう、何が一番いい方法なのかな~
って考えてみるのも大切ですよね!

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※「活気あふれる日田祇園」はコチラ↓
  e-tera.net/Entry/160/

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