今回のいい町は・・・
対馬から韓国へです♪
厳原港には、九州と対馬を結ぶフェリー桟橋や
漁船の停泊場があります
漁港の方に古い防波堤と、奥へと入る水路があり
中に入っていくと・・・
そこには対馬藩が使用した桟橋が残っていました
ここに藩の御用船が係留して、貿易品の積み下ろし
が行われました
が行われました
近くに倉庫や休憩所の遺構も残っているそうです。
今は樹木が生い茂って、遠い昔の事のようでした
御用船は、この水路から海原に出て、多くの人が
釜山や九州へと向かいました
釜山や九州へと向かいました
釜山には、倭館が置かれ、対馬藩と李氏朝鮮の
窓口となっていました
窓口となっていました
儒教の国と武家社会の違いから李氏朝鮮との
交渉には、五山僧や儒学者が当たったそうです。
交渉には、五山僧や儒学者が当たったそうです。
厳原には、長寿院という禅寺があります。
境内の裏山を登っていくと・・・
そこは、対馬藩の外交役を務めた
雨森芳洲一族の墓所があります
雨森芳洲は、江戸前期の儒学者・木下順庵の
高弟でした。
高弟でした。
木下順庵の推薦で22歳から対馬藩に仕え
朝鮮との外交、貿易の問題に心血を注ぎました
彼は著書「交隣堤醒(こうりんていせい)」のなかで
朝鮮との交接は、第一に人情事勢、諸事風儀が違う
事を良く理解し、互いに欺かず、争わないことが肝要
であると説いています
事を良く理解し、互いに欺かず、争わないことが肝要
であると説いています
第8次、第9次朝鮮通信使では、応接役を務めて
江戸まで帯同しました
江戸まで帯同しました
そして、厳原の地で88年の生涯を終えました
雨森芳洲の外交姿勢は時代を越え、讃えられて
います
います
蘆泰愚大統領が来日した際、宮中晩餐会でも
紹介されました
紹介されました
今でも対馬と釜山を結ぶ航路があります
対馬から釜山まで約50km、
高速船を使えば2時間半の距離です
この航路を使って観光を楽しむ人、
アウトドアを楽しむ人・・・
韓国から沢山の人が訪れます
一番近いお隣さんですね
朝鮮通信使が
対馬藩士が
京都の五山僧が
多くの人々が渡った対馬海峡
私もこのゲートを潜って雨森芳洲が説いたように
朝鮮半島を知るために歴史や文化を探りに渡って
みようと思います
朝鮮半島を知るために歴史や文化を探りに渡って
みようと思います
対馬から釜山へ新しい旅が始まります