私のいい寺「高桐院」②

今回のいい寺は・・・
高桐院②です☆

見事な紅葉の庭を見ていると時を忘れてしまいます
この庭に温かみを感じるのは、石組や玉砂利が敷いて
いないからでしょうか。

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その代わりに灯篭が一基、庭の中央に備わっています。
この燈篭のおかげで雑然とした庭が引き締まってみえますね
この燈篭は、千利休より細川忠興に遺品として渡った
欠け燈篭」の片方です。
豊臣秀吉が所望しましたが、千利休は「天下人に似合わぬ」と
自ら傷物にしてまで断ったそうです。
豊臣秀吉織田信長にも「天下を取る名石藤戸石」を戦の
褒美に所望しましたが、「まだ早い」と断られた事があります。

その石は後に天下人となった豊臣秀吉の手に渡り、
醍醐寺三宝院の庭園に備えられています。

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生茂った路地も味わいがあります。
緑の中の紅葉も良いですね。

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細川忠興は戦国武将として織田信長に劣らぬほどの
冷徹さと気性の激しさを持っていましたが、千利休
師事して利休七哲の一人に数えられた文化人細川
三斎
としての一面もありました。

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境内には、茶人細川三斎にまつわる建物が点在して
います。

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三斎井戸です。
ここで汲み上げた水を細川家の墓所に供えるそうです。

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細川家の墓所に燈篭がありました。
これは庭の燈篭と同様に千利休より渡ったものです。
細川忠興の参勤交代の折にも肌身離さず移動させたそうです。
遺言により自身と正室明智玉の墓となっています。
それだけこの燈篭と正室明智玉は大切だったのでしょう。

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細川家歴代の墓です。
本能寺の変で父細川藤孝は明智光秀の援軍要請を
断りました。
関が原の合戦では正室明智玉は、敵方の石田三成方に
捕らわれて人質となる事を避けるために自ら命を絶ち
お家を守りました。

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裏を見せ、表を見せて散る紅
良寛さんが詠った歌です。

武将細川忠興茶人細川三斎として、そして正室
明智玉クリスチャン細川ガラシャとしてそれぞれに
違う姿を見せながら人生を終えました。
細川ガラシャと呼ばれた所以を探ってみたくなりますね。

また機会があったら由緒地を訪ねてみたいと思います。
ここ高桐院にも新緑の頃にまた訪れたいです♪

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