お友達に秋を贈りませんか?

今日はグリーティングカードの紹介です

秋の空ってとってもキレイですね

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でもあっとゆうまに暗くなってしまいますね。。。

もう秋なんだなーと実感がわきます

ところで・・・

最近手紙を書くことが減りましたよねー

ならば。。。

お友達にグリーティングカード季節を届けて
みませんかー

《秋色の庭でひと休み》

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下のアドレスをクリックすると、グリーティングカード
動画バージョン)が音楽付きで再生されます♪♪

《このカードのアドレス》↓
greeting.rakuten.co.jp/app/view/

カードの右下の「同じカードを送る」をクリックすると
お友達にカードをメールで送信する画面になります★

楽天グリーティング」のトップページには他にも
季節や挨拶のカテゴリー別にたくさんのカードが
あり、無料で使えます♪

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私はグリーティングカードでお友達に京都紅葉
見に行こう!と誘ってみましたよ

季節を盛り込んだかわいいカードを送ったら喜ばれると
思いませんかーー

 
※いい寺・秋の京都は「カテゴリー」の『京都 (秋)』を
  ご覧ください♪

☆special thanks:shin☆
 

カテゴリー: 京都 (秋) | 6件のコメント

いい寺★京都・東福寺(2)

今回のいい寺は・・・
東福寺の境内です♪

京都・東福寺の境内を散策してみました

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通天橋から見た臥雲橋です。
秋の連休だったので人がいっぱい!

紅葉もいいけど、私はやっぱりシンプルなお庭が
スキです

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今日紹介するのはまず東福寺の開山堂の前庭です。
白砂が敷き詰められて今年流行のチェック柄みたい
ですね

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紅葉の季節ですがやっぱり緑豊かな庭ってなんだか
癒されますね(´艸`)
温かい感じがします

次は方丈の四方を囲む庭園です

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一番中心となる南庭(前庭)に配置された石は縦に
置かれたものと横に置かれたものがありますね。
作庭家・重森三玲はこの石を探すのにとても苦労した
そうです
に置かれた石はとても珍しいですね

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西庭は立体的に刈り込みがされたお庭です
このさつきが季節ごとに雰囲気を変えて楽しませて
くれるそうですよ

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東庭は7つの石で北斗七星が表現されています
東司(トイレ)の柱石の余材を利用したものだそうですよ。

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北庭は杉苔と石で市松模様を描いた庭です
勅使門から続く敷石をリサイクルしたものです。
とても斬新な感じがしますね!!

この方丈庭園は、近代の禅宗庭園として世界各地に
紹介されていて、「ZENスタイル」として海外でも
評価が高いそうです

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NYを訪れたとき、海外でZENが浸透していることを
強く感じましたよ

お次は龍吟庵です。
こちらも重森三玲の作です

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枯山水のお庭はシーンとしていて心を落ち着かせて
くれます

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西庭が海から顔を出して黒雲に乗って天に昇る
姿を表しているそうです
そうやって見るとお庭って面白いですね!!

黒砂の雲って珍しいですね~

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東庭ピンク色の砂が敷き詰められていて、驚き
ました
なんだかかわいいですね

次のお庭は即宗院です。

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島津家の菩提寺だったこの即宗院のお庭を篤姫
散策
そんなお話もあるそうです

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小さな公園のようなお庭で、東福寺の他の塔頭寺院とは
違ってゆっくりと散策できます

さて、最後は芬陀院(雪舟寺)です。

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丸窓越しに見る東庭の光景は雑誌などで見られた
方も多いかと思います
しばしこの障子の前でぼーっと座り込んでしまいました

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南庭には亀と折り鶴を表した石組みがあります。
縁側に腰かけてこんな風におしゃべりしながら
お庭を眺めるのも京都散策の楽しみですよね!!

廃物もムダにしないという禅宗の精神を持った作庭家・
重森三玲(みれい)はボランティアで東福寺の庭造りを
引き受けました

「江戸中期以降の庭園は芸術性が落ちている。
 そして、現在は将来に誇れるような庭が造られて
 いない。」と痛感したそうです。

全国の庭園を調査し、元々画家を目指していた芸術家
としての発想で、東福寺の庭づくりに取り組みました。

フランスの画家ミレーに憧れていたそうですよ。

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参道に落書きがされていました。
街並み、文化遺産を大切にしなければ、将来に遺して
いけないと思います。

フィレンツェの大聖堂に落書きをした人もいましたね
保存し、遺していこうと努力している人たちがいる事を
忘れてはいけませんね!!

※イタリア・フィレンツェのサンタクローチェ教会はコチラ↓
 
  e-tera.net/Entry/115/

次は東福寺の開山・聖一国師のお弟子さんのお寺に
行ってみます。

カテゴリー: 京都 (秋) | 8件のコメント

いい寺★京都・東福寺(1)

今回のいい寺は・・・
京都・東福寺です♪

久しぶりの京都記事ですが・・・
これから紅葉が始まり、京都に観光で行かれる
方も多いと思います

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東福寺の開山・聖一国師です。
聖一国師は、現在の静岡市葵区栃沢で平家の落武者
の子として生まれました
に渡って禅宗の教えを学んで帰国し、最初は福岡
付近で布教活動をして、福岡市内の承天寺を開いて
住職になりました。

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当時、疫病が流行り聖一国師施餓鬼棚に乗せて
町衆が担いで町内をまわり、国師が水を撒いて疫病
退散の祈願をしました

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その功徳によって疫病が退散したことから博多
祇園山笠が始まったそうです

その名声が都まで届き摂政・九条道家の耳に入り
道家は京都・九条に東福寺を創建し、聖一国師を
迎え入れました。

奈良にある最大の寺院・東大寺や、繁栄した
興福寺のように。。。と願い「」と「」の字を
取って、「東福寺」と寺号をつけました。

※道家は天皇家の外戚として鎌倉幕府の将軍の父
 として関白まで上り詰めた権力者です。

聖一国師がから日本に伝えたもので有名なものが
3つあります。

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まずはお茶

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それから博多人形

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そばとうどん

昔は留学僧が文化の伝承者でした

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東福寺と聞いてまず思い浮かべるのが紅葉ですね

燃えるように真っ赤な境内を見に行きませんか
この境内の楓も聖一国師から持ち帰ったものです。

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開山堂の瓦屋根の上にさらに杮葺きの二階が見えます。
面白い作りの建物ですね~~

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屋根のてっぺんには宝珠の飾りが。
炎のような飾りにはどんな意味があるのかな

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この立派な山門は、日本最古の山門で屋根が
二層になっています。
軒が外に張り出しているので、外側にも支柱が
ありました

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仏堂の前には聖一国師の生まれ故郷・静岡市
栃沢のお茶の苗が植えられていました

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仏堂の隣には禅堂があります。
修行僧は主にこちらで修行をします。

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東司(とうす)はトイレの事です
東にあるのが「東司」、西にあるのは「西浄」と
いいます。

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何があるのか、狭い隙間から一生懸命
中をのぞいている人がたくさんいました

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お金を投げ入れる人がいっぱいいるみたいです

ここトイレですよね・・・

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東福寺で1番の紅葉スポットといえばこの通天橋
ですね

もうすぐ紅葉の時期です!
みなさんももみじ狩りにいかれますか~~~

今年も京都に行きたいと思っているのですが
どこかオススメがあったら教えてください

《記事中のそばのお店》
奈良・浄瑠璃寺門前の「吉祥庵」はコチラ↓
そばもくずきりも絶品ですっ
e-tera.net/Entry/144/

続きを読む

カテゴリー: 京都 (秋) | 4件のコメント

一色町★うなぎの養殖場

今回のいい寺は・・・
一色町のうなぎ養殖場 です♪

私は、名古屋っ子らしくうなぎが大好きです

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先日寺津周辺を散策していて見つけた
うなぎ屋さんののぼりです
寺津から車で10分ほどのところに一色町が
あります

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矢作古川で釣を楽しむ人がたくさんいましたー♪
何が釣れるのかなー
川の手前が幡豆郡一色町です。

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おっとビニールハウスを発見っ!!

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初めて見る養鰻場にワクワク

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池の中が酸欠にならないように、水車が勢いよく
まわっていました。
望遠で撮ったので中まで見えなかったのですが
たくさんのウナギがいるのでしょうねー!

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一色町はうなぎの養殖が盛んで、ビニールハウスが
たくさん続いていました。

おいしいうなぎは水質で決まるそうです。
キレイな水でうなぎ本来の味だけを残し余分なものは
洗い流します

西尾のお茶も矢作川を通った空気が湿度を持って
いるためお茶の栽培に良いそうです。

矢作川の豊かな水で育った一色産の鰻だから美味しい
のでしょうか。
 
お茶も鰻も自然の恵みを頂いていますね

もちろん名古屋にはおすすめのお店がたくさんありますよ。

紹介したいうなぎ屋さんはいっぱいあるのですが、
人気なのが「あつた蓬莱軒

(松坂屋店が一番混まないと思います♪)

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まずは肝焼き
甘辛くておいしいですよねっ
食べると元気になるような気がしますっ

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ひつまぶしを待っている間にいつも「うまき」を
頼みます
卵焼きにうなぎを入れるだなんて誰が考えついたの
でしょうね~
卵の甘みとタレの感じが合いますよね

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ひつまぶし》は
一膳目はそのまま
二膳目は薬味と一緒に
三膳目はお茶漬けにして食べるのです♪♪

うな丼もいいけれど、まんべんなくうなぎを堪能
できるひつまぶしは文句ナシの名古屋名物です

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夏に訪れた大分ではひつまぶしの味に感動した
お店の方が工夫を加えて生み出した《日田まぶし
を頂きました
さっぱりして、タレの味に慣れた私には新鮮でした

※天領の町★日田の町並みはコチラ↓
 e-tera.net/Entry/159/

次は西尾にお茶をもたらした聖一国師のお寺
紅葉で有名な京都・東福寺を訪れます

清水次郎長の足跡を辿ってきましたが
続きはまたの機会に。。。

カテゴリー: 愛知・三河 | 6件のコメント

吉良の塩

今回のいい寺は・・・・・
吉良の塩です
 
吉良町出身の有名人
先ず挙げられるのは吉良上野介義央ですね
そして吉良仁吉、尾崎史郎がつづきます。
合わせて吉良3人衆と呼ばれています。
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吉良仁吉は侠客で、清水次郎長と兄弟の盃を
交わした仲で義理と人情の人といわれています。

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尾崎史郎は作家で、代表作に「人生劇場」があります。
「人生劇場」は吉良から上京し
大学に入学した青年の青春とその後を描いた
長編シリーズです。
尾崎史郎は早稲田大学卒業で、
自身をモデルにして作品をつくりました。
後輩の五木寛之は「人生劇場」を
手本にして「青春の門」を執筆したそうです。
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彼は故郷への思いが大変強かったそうです。
特に吉良上野介を慕い続けていました。
昭和22年に30年ぶりに帰郷した際に
吉良家菩提寺の華蔵寺を訪れ
吉良さん(吉良上野介)への思いを
色紙にしたためました。

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「往昔見ずして語り、今日見て語らず」
昔は真実を見ないで面白おかしく語り
今は本当のことが分かっても語らない
 
吉良さんにたいする当時の世論に
やるせない思いがあったのでしょうね
そして元禄の騒動の原因に吉良と赤穂の塩を
取り上げていました。
 
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吉良町は三河湾にも面しています。
昔は、三河湾で獲れた魚を帆掛け舟で矢作古川の
上流へ運んだそうです。

 

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最近は、潮干狩りに多くの人が訪れます。
吉良のアサリはぽっちゃり型で甘みがあり春の味覚
として有名だそうです。

 
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そして、500年以上の歴史があるのが吉良の
塩作りです。
吉良の塩は品質が良く、饗庭塩(あいばえん)の名で
知られていました。
昔から塩の需要は多く食用や岡崎の味噌製造や信州の
漬物に使用されました。
信州には矢作川を上り伊那街道を通って運びその道を
「塩の道」といいます。
他にも四方八方に塩の道があります。
昔、武田信玄の治めた甲斐、信州には富士川や利根川
からも塩が運ばれていました。
その塩の道が今川氏、北条氏に止められて領民が困窮
している時、武田信玄のライバル上杉謙信が越後から
甲斐、信州の領民に塩を送ったそうです。
 
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敵対関係にあっても相手が苦しんでいる時は手を差し
のべて助けてあげる…
これが、「敵に塩を送る」の意味ですね。
 
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塩田で濃度を濃くした海水を貯めておく桶です。
吉良の塩作りは、潮の満ち引きを利用し海水を
塩田に引き入れる「入浜塩田」でした。
 

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赤穂藩の浅野家は山国の常州(茨城県)笠間藩から
転封してきて当初は藩の経営に苦慮しました。
そこで、家来を吉良に向かわせて製塩法を習い
塩田の開発に努力して良質の塩を作りあげたそうです。
 
吉良の塩も良質で「饗庭塩」のブランドで江戸で
評判でした
元禄時代に赤穂藩が徳川綱吉に塩を献上したこと
から御用達になり、赤穂の塩は「饗庭塩」以上に有名に
なりました。

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スポーツの世界で同郷の先輩や前に在籍したチームに
勝つことを「恩返し」といいますが、赤穂の塩の場合は
吉良の塩の経営を脅かしたので「恩返し」とはいかなかった
みたいです。
ライバルでなく商売仇となってしまいました。

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今の社会では、他社のブランドを研究して良い所を
自社製品に取り入れていく事は常識となっていますね。
そして、他社に負けない物を造る事によって技術は
進歩していきます。
特に日本は改良していく技術は世界一だと思います。
 
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ニューヨークで見上げた高いビルはリーマンブラザーズ
のビルでした。
 

日本人には上杉謙信が敵に塩を送ったように
人情があると思います。
これからは、ただ利益に執着して業績をのばすだけを
使命と考えない社会になってもらいたいです

カテゴリー: 愛知・西尾 | 7件のコメント

高家・吉良氏

今回のいい寺は・・・・・
高家・吉良氏です。
 
高家は江戸時代にできた役職です。
将軍の代参や朝廷への使者、京からの勅使の接待や
接待役の大名への儀典指導が主な役目でした。
 
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高家に就いたのは、足利氏一門や室町時代の守護職、
著名な戦国大名の子孫でした。
名門の家には儀礼の方法が伝わっていますから、
高家の役職には名家が適任だったのでしょう
 

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勅使に出す料理です
料理の献立や接待にも決め事があって接待役(饗応役)
の大名は一つずつ高家に指導を仰いだそうです
 
高家の役職を創設した理由は・・・
「名家の出身旗本が一般旗本と同格では」
との幕府の配慮で家格を上げるためでした。
そして、高家は旗本でも官位は一般大名より上でした。
 
饗応役の大名は指導をお願いする為に、高家へそれなり
の授業料を払ったそうです。
吉良上野介浅野内匠頭の喧嘩の元は、授業料をちゃんと
払わなかったからという説もあります。

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高家は、役柄から多額の謝礼を頂き金銭的に潤って
いたそうです。
 
吉良上野介は刃傷沙汰で、浅野内匠頭が切腹した
後に赤穂浪士の襲撃にそなえて頑丈な屋敷に造り
変えました。
浪人も沢山雇って襲撃に備えました
 
吉良町の資料館に江戸屋敷の見取り図があります。
 
赤穂浪士が入った門
清水一学が討たれた庭
吉良上野介が隠れていた納屋
赤穂浪士に吉良上野介が討たれた場所
元禄時代の出来事が目に浮かぶような気がします
 
本懐を果たした赤穂浪士は殿・浅野内匠頭が眠る
泉岳寺に向かい墓前に本懐成就の報告をしました。

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浅野内匠頭赤穂浪士が眠る東京・泉岳寺門前の
店には討ち入りの道具が揃っています

師走の雪の降りしきる夜、赤穂浪士は吉良邸・討ち入り
決行しました
浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、
大石内蔵助が門前で「一打三流」の山麓流陣太鼓
打ち鳴らします
太鼓の音で清水一学は「あれぞまさしく山麓流」と
赤穂浪士の討ち入りに気づき・・・

という場面は、歌舞伎の中の演出で、実際には羽織も
太鼓も無かったそうです。

それでも泉岳寺の一番のお土産は太鼓羽織ですね

 

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泉岳寺の門前で、おいしいきなこプリンが頂けるお店
おしるこいもり」を発見してしまいました~~

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とろけるきなこプリンはあんみつ屋さんなだけに、
卵を使わずに寒天を使用しているそうですよ!
都営浅草線・泉岳寺駅で降りてくださいっ

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高家・吉良氏菩提所・華蔵寺の庭には柿の実が
沢山なっていました。
 

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本堂の裏に庭があります。
深山幽谷を表した小堀遠州好みの庭となっています。
平庭の部分が枯池で中央に亀島を設けて
奥の雪見灯籠付近の出島で鶴を表しています
 
奥に見える壁は御影堂です。
その左横には茶室があります
吉良上野介はここで茶の湯を楽し和歌を嗜んだ
でしょう。
 
「雨雲は、今夜の空に かかれとも
晴行くままに、出る月かけ」
吉良上野介が詠った和歌です

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書院の床の間に吉良上野介の書状が掛けてありました。
 

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吉良上野介義央の花押です。
忠臣蔵は、昔から映画やテレビで上映されています。
ストーリーの本になっているのが歌舞伎の忠臣蔵で
歴史考証は行われてきませんでした
 
高家・吉良氏は騒動の責任をとらされて改易となり
歴史を調べる資料が乏しいそうです。
その中で、吉良町の郷土史家の研究で吉良家の
本来の姿が分かってきました。
 
最近では、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」で研究の
成果を取り入れてもらいました。
石坂浩二が演じた吉良上野介「義央」の読み方が
「よしなか」から「よしひさ」になったのもその一つです。
花押のなかに「」の字が入っていますね。
吉良上野介は通称で、吉良義央が正式な名称
だそうです。
吉良義央も央が読めるように花押に「久」を入れた
みたいです。
 
他にも勅使の接待役を命じられる前から吉良上野介
と浅野内匠頭は面識があり浅野内匠頭の婚礼に
吉良上野介が出席した場面や、実際の喧嘩の
原因は不明であることなど史実に則った演出が
されていました。
 

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御影堂に祀られる高家・吉良氏の祖・吉良義定の
木像です。
室町時代の公家を思わせる出で立ちですね
 
吉良氏は幕府の名家を残す配慮で高家となりました。
吉良上野介は高家筆頭となりましたが殿中の
刃傷沙汰赤穂浪士の討ち入りで高家の名を
汚してしまいました
 
一度汚してしまった家に高家を続ける資格は
無かったかもしれませんね。
それが、吉良家改易の理由だったような気がします。
 
喧嘩の理由は分かりませんが、順風満帆の道に
思わぬ落とし穴がありましたね
 
喧嘩は吉良と浅野の両家をまき込んでしまいました

当主の行動や判断が家臣や一家の命運を左右する
事ってありますよね。
まさに吉良家と浅野家は当主の行動や判断が後の
家臣やお家の行く末を左右することになりましたね。

いつの時代もリーダーの行動と判断が下の人や
関わる人たちに大きな影響を与えることを考えると
リーダーの責任は重要ですね!!

 
 
カテゴリー: 愛知・西尾 | 4件のコメント

いい寺★吉良家菩提所・華蔵寺

今回のいい寺は・・・・・
吉良家菩提所・華蔵寺です。

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矢作古川を上っていくと幾つもの支流に分かれます
のどかな小川の風景ですが、一度大雨が降れば
氾濫して被害をうけます
江戸時代の初めに矢作古川の氾濫を抑えるために
新たな水路を通しましたが、それでも矢作古川流域
では水害が度々おきていました

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吉良の村々でも大きな被害をうけていました
領内を視察していた吉良上野介は領民の窮状を知り
水害から守るためにを築きました
こののお陰で水害の心配もなく稲穂が豊かに
育ったそうです
そこで黄金色に育った稲穂から「黄金堤」と呼ばれて
います。

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治水事業の視察の時に吉良上野介は赤馬に乗って
領内を回ったという話があります
そこで、殿を慕う気持ちが郷土の民芸品になっています。
その歴史は三百年!
赤穂浪士に討たれたころから、この地域の子供の玩具
として親しまれているそうです

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吉良町の吉良家に関係した場所では、この銅像が
迎えてくれます。
忠臣蔵の憎き吉良上野介義央とは違う姿で・・・・

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吉良上野介が眠る片岡山華蔵寺です
 
戦国時代に東条吉良氏を継いだ吉良義安
今川義元に捉われて駿河の地で亡くなりました
妻は徳川家康の伯母桶狭間の合戦の後、子・義定を
連れて吉良に戻ってきました
それを知った徳川家康は伯母親子に禄を与えて吉良家
復興させます
そして、吉良義定が新しい吉良家の菩提所として創建した
のが片岡山華蔵寺です。
 
*西条、東条吉良氏と区別して復興した吉良氏を
  高家・吉良氏と言います。

 

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境内の片隅にある「真実をもとめて」の碑です
私達が知る赤穂浪士の物語は、江戸時代に歌舞伎
演目として作られた「仮名手本・忠臣蔵」が本となって
います
 
その内容は、史実にもとづいた事実だと思っていましたが
碑文には・・・
「元禄時代に吉良義央公浅野長矩公との間に不和を
生じ、その処理に冷静さを欠き、殿中で浅野公刃傷
及んだ事から、幕府の掟に触れ、家は断絶、身は切腹
という事になった

浅野公の舎弟大学氏の後継が不首尾になった結果、
旧臣たちは禄を離れることになり、一か八かで吉良公
討ち取ったが、当時の学者と協議して赤穂浪士に切腹を
命じた
吉良公は、治水等の功績が大で、評判の良い名君
あったからである
 

名君(吉良上野介)を暗殺した者を忠臣(赤穂浪士)
したのでは、武士道にも反し芝居にならないので、
小説家、劇作家たちが、興味本位にいろいろのつくりごと
(増上寺畳替え、屏風の取り替え等)をして吉良公
極悪人に仕立て上げ、忠臣蔵として世間に広めた
ものである・・・・」
 
と、述べてありました。
物語と事件の真相は違うみたいですね

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 「もろもろのうらみつらみを泡と消し
 心やすけく 生きなんわれら」

76年に建てられた碑文の最後にこの短歌が
ありました

90年春に吉良町の有志と赤穂市の代表が浅野吉良
それぞれの菩提寺に墓参りをして双方の和解と交流が
始まったそうです

東京・泉岳寺義士祭でも行列パレードを終えた後
代表者が本所松坂町公園(吉良邸跡)を訪れ、吉良祭
の法要にも参列するそうです

赤穂浪士の討ち入から300年が経って、

吉良浅野も、ともに事件の犠牲者なのであるから、
 今の世の自分たちが仲を取り持ってやらなければ、
 永遠に仲直りすることが出来ない」

と、関係者は語っています

 

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本堂の横には、吉良義安、吉良義定、吉良上野介義央
の木像が祀られた御影堂があります。
 

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御影堂の前には、高家・吉良氏6代の墓所があります。
自然石の土台に立派なお墓がならんでいました。
 

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歴代当主の墓より簡素で小さいのが吉良上野介
墓です。
何時も線香と花が絶えないそうですよ
 

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どなたが何時お参りに来ても良いように、墓所は
キレイに掃き清められてありました

 
高家・吉良氏は名門の流れを汲みながら、今川、
織田、徳川の間に挟まれて苦難の時が長かった
そうです

足利氏の支流として吉良荘に入り、繁栄と挫折を
繰り返して最後には、吉良の地から消えた一族・・・
終焉の地がこの墓所です。

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墓所の奥には、鉄眼版一切経が納められた経蔵が
あります。
吉良上野介が遺した唯一の建物です。
 
創建当時の棟札には・・・
このお堂を拝み瞻(み)て 讃え喜ぶ結縁の人々
みんな速やかに、極楽浄土に生まれんことを・・・・
吉良上野介の願が書いてあります。
 
平成14年に没後300年を記念して改修工事を
行いました
その時に瓦葺きから杮葺きに変えて上品な
建物になったそうです
 

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墓所の中には、赤穂浪士の討ち入りで亡くなった
家臣の供養墓があります
 
「忠臣蔵」では敵方の手下として討ち取られました。
ここでは殿に忠義を尽くした赤穂浪士と同じように
家臣として墓所に祀られているのでしょうね
 

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吉良上野介義央300年祭記念句会に参加した
人の作品です。
義央忌来てみて知るる名君ぞ
この地を訪れてみて吉良上野介が名君と分かって、
詠ったのでしょうね
 

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 仮名手本・忠臣蔵で作られた憎き吉良上野介
吉良上野介が憎ければ憎いほど、赤穂浪士
同情し、討ち入りの場面が映えました。
吉良上野介を演じる役者もどれだけ悪者になれるかが
腕の見せどころですよね

今回、初めて吉良上野介の菩提所を訪ねてみました。
私も境内を散策して碑文を読み、お墓参りをしたら
いつの間にか吉良上野介の悪いイメージが消えて
しまいましたよ

夏めくや吉良と赤穂に通ふ風

吉良赤穂のわだかまりが無くなり、交流が進む
事を願います♪

 

カテゴリー: 愛知・西尾 | 2件のコメント

清水次郎長、吉良で修行する!

今回のいい寺は・・・・
清水次郎長、吉良で修行する!です。

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清水次郎長は喧嘩が原因で清水湊を飛び出しました。
都に向かう途中、岡崎で路銀が無くなってしまいます
 

この辺りの親分のところで世話になろうとお茶屋に入って
「三河で有名な親分は」
と尋ねたところ・・・
吉良の武一が剣の達人で、侠客中の侠客といわれた
親分です」
 
寺津の親分は、武勇が並はずれて日の出の勢い
ですよ」
と二人の親分の名前がでました。
寺津の親分が旧知の治助と分かった清水次郎長一行
現西尾市・寺津に向かいました

 

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寺津の治助の所に草鞋を脱いだ清水次郎長は、
夜はサイコロをふり昼間は吉良の武一の門下に
なって剣術を学びました
吉良の武一は元備前岡山藩の藩士でした。
 

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寺津吉良の間には矢作古川が流れています
この川を渡って吉良武一の道場に通ったでしょうね
武一の道場で清水次郎長は稽古の虫だったそうです。
それも、開けても暮れても「突き」の稽古でした。
「こちらがジッとまっていると相手切り込んでくる
それをすっとかわして、サッと斬る それでおしまい」
ここで、次郎長剣法が開眼しました
後年、刺客の襲撃を受けた時に、逆転の突きで相手を
たおしています。

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吉良の有名人といえば、吉良上野介ですね
吉良上野介の家臣・清水一学も吉良出身です。
吉良邸に押し入った赤穂浪士に最後まで抵抗して
雪の積もる庭で倒される場面がありました。
 
清水一学は剣の達人として忠臣蔵に登場しましたね。

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山の手に東条吉良家の居城跡があります
 

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麓の殿町には江戸時代の舘・岡山陣屋跡があります。
清水一学は岡山陣屋の道場に幼少の頃から通って
腕を上げました
吉良上野介の奥方に認められて十五歳で江戸へ
向かい、用心棒兼、中小姓にとりたてられました。
赤穂浪士の討ち入りで亡くなった時の年齢は二十五歳
でした。
 

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清水一学の故郷・吉良町宮迫の風景です。
山の向こうに東条吉良氏の居城や岡山陣屋跡があります。
百姓の家に生まれた清水一学は、腕一つで出世街道を
歩んできました
吉良上野介も清水一学の腕に頼ったのかもしれませんね
 

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宮迫地区の中心に大きな松の生えた寺院があります。
清水一学が眠る日蓮宗・円融寺です
 

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山門の両側の松は、清水一学の時代からあるのでしょうか?
最近は、全国的に松食い虫の被害で大木が少なく
なりましたね

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赤穂浪士討たれた清水一学は吉良家の
江戸菩提所・万昌院に
葬られましたが、後に
生まれ故郷の円融寺に分骨されました。
当時の僧侶が吉良上野介の戒名
霊性寺殿実山相公大居士」に因んで清水一学の
戒名を「端翁元的信士」から「実相院宗禅信士」に
改めたそうです。
西尾市にある吉良氏初代の菩提所・実相寺にも
つながる戒名ですね

 

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清水一学は故郷の風景を一望できる場所に眠っています。
寺の周りに茶畑が広がります。
西尾市・実相寺に聖一国師がお茶の苗を伝えてから
明治時代に西尾市全体にお茶の栽培が広がりました。
吉良にも伝わり「吉良茶」として栽培が普及しています
 
清水一学の生まれる以前に、この地から武芸に秀でた
人物が出ました。

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弓道の達人、尾張藩に仕えた星野勘左衛門です。
円融寺の境内には、「星野勘左衛門 旧里」の記念碑が
建っています。
その力が発揮されたのが三十三間堂で行われた
通し矢」の競技でした

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京都・三十三間堂で成人式の日に行われる大的大会です。
新成人の門出を祝う行事として毎年多くの参加者が
腕をふるいます
この行事の本となったのが江戸時代に盛んに行われた
通し矢」です。

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通し矢は、三十三間堂のぬれ縁の北の端から南の端に
置いた的を一昼夜の間に何本的に当てる事が出来るか
を競います
 
特に御三家の尾張藩・紀伊藩では互いにどちらの藩に、
より優れた弓の使い手がいるのかを競うようになり、
通し矢の記録は次々に更新されていきました
 

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成人の日に大的大会に参加した新成人の結果です。
遠くの的を射るのも大変ですね
 
江戸時代の「通し矢」で記録を出したのが尾張藩に
仕えた星野勘左衛門でした。
八千本の記録を立てて「総一」の称号を受けました
この記録は、24年間守られました
この記録を塗り替えたのが紀伊藩の和佐大八郎でした。
8132本の記録は今でも破られていません
縁側に腰かけて、軒と濡れ縁の間に矢を通し、120m先
の的に向けて1万本以上の矢を射るそうです。
技術と体力もどちらもいりますねー!!

気力も・・・
 

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清水次郎長は、このような武芸の達人が出た吉良の
地で吉良武一の門を叩き、剣術の稽古に励みました。

そして、江戸時代の歌舞伎で大当たりした忠臣蔵の
敵役・吉良上野介の郷ですから、稽古の間に吉良家の
話などを聞いたかもしれませんね
「へぇー この地が吉良の殿様の郷かね」

次は、吉良上野介の菩提所・華蔵寺に行ってみます

京都・三十三間堂の通し矢についてはコチラ↓
 e-tera.net/Entry/53/

実相寺と西尾の文化についてはコチラ↓
 e-tera.net/Entry/180/

 

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矢作川と矢作古川

今回のいい寺は・・・・・
矢作川と矢作古川です。

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西尾市と碧南市の境を流れる矢作川三河湾に注いで
います
この三河湾で獲れる海の幸は川を上り伊那街道を
通って信州へ運ばれました
そして、信州からは年貢米や物産品が矢作川を下って
きました

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現在の矢作川は、江戸時代になって川の氾濫を抑える
ため新たに開いた水路を通っています。
昔の水路は、西尾市と吉良町の境を流れていました。
こちらは、本流の矢作川と区別して矢作古川といいます。

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矢作川で使用された帆掛け舟です
本流は川幅が広く、江戸時代は信州三河を結ぶ
水運の要として重要な役割をしていました
明治以降も水運が輸送手段の中心でした。
荷物をたくさん積んだ帆掛け舟が矢作川を上り下りして
活気があったそうです
 

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矢作川を上っていくと支流の乙川に分かれて岡崎城
繋がります
江戸時代には、三河湾から岡崎城まで五万石船
上っていったそうです
「五万石」という古謡で
「五万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく」
と歌われています。

淀川から京都・伏見に上った船が三万石なので
矢作川の五万石船は大きいですね
 

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こちらは、矢作古川です
穏やかな流れで三河湾に注いでいます
 
昔、この地域は吉良荘といい、足利家の流れをくむ
吉良氏が治めていました。
吉良荘は、この矢作古川を境にして西条東条
分かれていました。
 
足利家の流れをくむ吉良氏は、最初に西条の守護職に
就きました
室町時代には、西条東条を合わせた吉良荘の領主と
なりましたが、一族内の争いから西条吉良氏東条吉良氏
に分かれてしまいます
 

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応仁の乱の時には、東西両軍に分かれて戦った
そうです
両岸でにらみ合う吉良氏内の抗争は、一世紀にも
およびました
そして、吉良氏の分家にあたる駿河・今川氏から
侵攻を受ける事になってようやく和議を結んだそうです
今川氏の侵攻で内輪もめをしている場合ではなくなった
みたいですね
 
何時の時代でも身内の争いごとはあります。
きっかけは些細なことで、最初に水に流せば終わる事が
多いですね。
 
和解後も今川氏織田氏徳川氏を交えた戦が続いた
そうです
そして、西条吉良氏は徳川家康に討たれて西尾藩になり、
最後は忠臣蔵の事件により東条吉良も改易となって、
この地から吉良氏の名前は消えてしまいました
 

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現在、歴史の舞台となった矢作古川では、春と秋の
10日間船遊びが行われます
 
「や・や・や矢作古川、船遊び」
地元・西尾市のボランティアが考案して開催しています。
船は岐阜・長良川の鵜飼船の払下げです。
 
愛・地球博の時に外国人来賓用に使用された船だそうです。
今は畳を敷いてありますが、外国人が足を伸ばせるように
船底は深くなっています
 

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乗船すると御手洗団子2本とお茶を頂けます
夜間の船遊びでは鍋料理の食事をしながら川面の
風景を楽しみます
月夜にお酒を飲みながらなんてサイコーですね

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のんびりと船に乗って川遊び
吉良家が矢作川で船遊びをしたという文献は
ありませんが東条西条に分かれて争う前は船を
浮かべて和歌を詠んだのではと想像したくなります
 

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青鷺が今にも飛び立とうとしています
自然の中をゆっくりと下っていくと、普段目にしないような
風景を見ることが出来て楽しいですね♪
 

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川を下るとラジコンのボートが迎えてくれました
川下りの観客がいるとボートの操縦も張りきるそうです
 

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西尾茶の茶畑が見えてきました
西尾市では2006年に1万人大茶会を開催して
ギネス記録に挑戦しました
1万4千以上の方が参加して見事に記録を樹立した
そうです
その時の特別ゲストは加藤茶でした
 
ところが今年の2月にインドでティーパーティーが
行われて、3万人以上が集まりあっさりと記録を
塗り替えてしまいました
残念ですね!

ギネス記録は破られてしまいましたが、みんなで記録に
挑戦した楽しい記憶は残りますよね
 

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船上ではガイドさんが色々な話をしてくれてあっという間に
時間が過ぎてしまいました
ただ、ガイドさんの話で一度も吉良氏の名前出ませんでした。
吉良の歴史と深く関わった矢作古川ですが、吉良荘も
吉良氏も歴史の中で風化してしまったみたいですね
 
矢作古川も矢作川と同じように帆掛け舟海の幸
山の幸を運んだそうです
 
最近では岡崎の豪雨で矢作古川に沢山のゴミが流れて
きて、今回の船遊びを開催する前に大規模なクリーン作戦
行ったそうです
 
川の恩恵をうけるには、先ず川を守らないといけませんね!

今は車社会となってしまいましたが、水運の方が輸送手段
としての歴史は遥かに長いですね
 
三河地方は水運のおかげで、産業・経済が大きく発展した
そうです
高速道路で結ばれた地域を見るだけでなく、海や川で
結ばれた地域を知ることによって、歴史の流れが見えて
きますね。
 
その歴史を知る事によって、他の地域にも親しみを感じ
人の和が広がるように思います
 

※西尾とお茶の関係についてはコチラ↓
  いい寺★実相寺と西尾の文化
  e-tera.net/Entry/180/

カテゴリー: 愛知・三河 | 4件のコメント

大浜の小さなお堂

今回のいい寺は・・・
大浜の小さなお堂です。
 
寺にはお坊さんが住んでいる寺院もあれば、
地域で管理するお堂もありますね
 
大浜の寺町にも近所の方が、お守りするお堂が
あります
 

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寺町の路地を入った所に薬師堂がありました
額には「妻薬師」と書いてあります
昔、お武家さんが妻の病気平癒を祈願して、
治癒したお礼に薬師如来を祀ったそうです
 

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灯籠を見つけのぞいてみると・・・

 
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中には六体の地蔵菩薩が祀られていました
これは、灯籠でなく六角堂だそうです
小さな小さな六角堂ですねっ

 

以前は称名寺の近くにあって、六角堂の周りを皆さんで
回って踊り念仏をしたそうです。
時宗の開祖・一遍上人は地方を遊行しながら各地で
太鼓や小さな鉦(かね)を鳴らして踊りながら念仏を
唱える「踊り念仏」を広めました
 
踊り念仏ってどんな感じだったのかなー
小さい頃行った「盆踊り」みたいにするのかな
 

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薬師堂の堂内です。
真ん中の厨子に秘仏の薬師如来が祀られていて
左右の日光、月光菩薩、十二神将が如来を守っている
みたいです。
 
厨子の手前の仏様は阿弥陀如来のようです。
薬師如来と阿弥陀如来が同じ場所に祀られるのは珍しい
ですね。
どちらも主役級なのに
 
阿弥陀さんはきっとどこからか頂いてきたのでしょう
近所の方が掃除をされて堂内はきれいで仏具も整って
いました

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隣の御堂には、石造の地蔵菩薩が祀られていました。
手作りの帽子がかぶせてありました。

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地蔵堂の隣は十王堂です。
十王さんはあまり聞きなれない仏様ですね
 
閻魔大王を中心にしたこの世の所業を見極める裁判官
極楽浄土に向かう間に私達は十王さんを巡っていく
そうです
 
 
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ここの十王さんは、みなやさしい顔をしていました
ちなみに閻魔大王が赤い顔をしているのはインド人
だからだそうです
 
木札と筆を持ってる彼は訪れた人の特徴を書き留める
のでしょうか
 

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隣には、米屋さんがありました
昔ながらの商店街は無くなりつつありますよね
 
大正時代の建物ですが、三河震災で倒壊することなく
今でも現役の店となっています
古い町並みが大浜の寺町を引き立てていました

車一台が何とか通れる路地が多くあります
建物や板塀に囲まれた閉ざされた空間は、生活の
においに満ちていて、歩く人を温かく包んでくれて
いる気がしました

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この米屋さんのお婆さんが、お堂のお守をしている
そうです
誰のものと言う事でなく、こうして善意で行う人がいないと
どんな物でも維持できないですね
 
「誰かが行う」は「誰もしない」になってしまいます。
お参りする人、守る人、色々な人が関わってお寺は
成り立つのですね。

 

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狭い敷地に小さなお堂が並んでいました。
変わらない風景をいつまでも守ってもらいたいですね。

 

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大浜にあった大正時代の警察署です
保存する為の工事をおこなっていました
 
形のあるものを残すことによって、市民の心に大浜の歴史を
伝える事が出来ますね
新しい物を造るだけでなく町の歴史を残すことも大切ですね!

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大浜の陣屋の記念碑です
大正時代に撮った写真に旧藩士の方々が刀を持って
写っています。
ひし形の飾りは大浜陣屋の紋です。
この記念碑の上にあるのは、矢を入れる筒です。

 

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旧警察署の建物にも菱形の紋があります。
陣屋の役目を引き継いだ事を表しているのでしょうか
大浜陣屋が無くなってしまった今となっては昔からの
繋がりを示す唯一のものです。

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私のお気に入りの風景です
大浜ではありませんが、とてもきれいな場所だと思います。

子供の頃、父に手を引かれて散歩した川沿いの道です
近くには氷屋さんがあって今でも残っています。
夏には氷屋さんのかき氷が常に冷凍庫にありました

大人になって、こんなに素敵な場所だったんだ・・・
と改めて故郷の良さを実感することができました。

みなさんの故郷はどんなところですかー

 

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