大浜の寺町界隈

今回のいい寺は・・・・・・
大浜の寺町界隈です。

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西三河の港町・大浜には、由緒のある寺院が
集まって寺町を形成しています
 
大浜は戦国時代に徳川家の国際貿易港として
賑わいました。
江戸時代には、沼津藩・水野家の力により幕府
年貢米の集散地となり地場産業の輸送港として
潤っていました
 
特に西三河で作られる三州瓦の需要が江戸や
京都で多かったそうです
大浜は海運の拠点となり、順調な発展のなかで
寺町を守ってきました。

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大浜のある西三河地方は、浄土信仰の厚い地域でした。
戦国時代に徳川家康・人生最大の危機の一つに
挙げられる事件がありました
三河で浄土真宗の信者が自分達の農地を守るために
起こした一向一揆では、家康の家臣の中にも浄土真宗
の信仰を重んじて一揆側に付いた者もいたそうです
 
徳川家康三大危機 三河一向一揆で家臣の造反
               武田信玄との三方ヶ原合戦
                                      本能寺の変と伊賀越え

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この西三河の浄土信仰の基を築いたのが浄土真宗
蓮如上人でした。
蓮如上人は、応仁の乱で混乱する都で比叡山衆徒
迫害を避けて西三河・西端(にしばた)に下向しました。
そして、この地を宗門再興の拠点として布教活動を
したそうです

※500年前の絵図です。
  碧南市はほとんど海の中ですね

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西端には蓮如上人が開いた寺があります。
応仁年間に建立したことから応仁寺といいます
蓮如上人の布教活動の拠点となった由緒ある寺
ですが、本堂が建つだけでお坊さんが住む庫裏
ありませんでした
 

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蓮如上人が西端を去ったあとは、村人が管理する
寺院として受け継がれ、今でもお坊さんを迎えずに
蓮如上人の帰りを待ち続けているそうです
 
無住寺院ですが、本堂内には明かりが灯され仏飯
お供えしてありました
地元門徒の皆さんで応仁寺を守っているのですね
 

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蓮如上人の布教により大浜にも本伝寺、西方寺
大寺院があります。
浄土真宗の寺院は伽藍が大きく装飾品が綺麗ですね
門徒の皆さんの寺を守る気持ちや信心の深さを感じます。
京都・本願寺の屋根瓦は、ここから船で運ばれた
三州瓦を使いました 
真宗寺院の需要が三州瓦を支えたそうです。

確かにこの辺りには瓦工場がたくさんあります
 

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大浜の海徳寺には丈六(4.85m)の阿弥陀如来が
祀られています。
座ると実際には2.8mですが、大きくて顔が拝めない
ですね

丈六は仏像の高さの基準値だそうです。

 
この阿弥陀如来は廃仏毀釈で解体される寸前に
住職が譲り受けて伊勢から船で運んできたそうです
最近の調査で平安時代後期の作と分かったそうで、
解体されずに大浜の大仏さまとして親しまれています
全国各地で廃仏毀釈が起こっていた時も西三河の人達は
お寺を守りました

 
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今、寺町を支えている大浜のお婆ちゃんです
お参りをする人がいるからお寺は存在するのですね。
お参りした後に階段に腰掛けて世間話をしていました♪
 

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大浜にも徳川家と関係した寺院があります
東照山・称名寺時宗の寺院です。
時宗は一遍上人が開いた宗派です。
一遍上人は法然上人の孫弟子にあたる九州の
聖達上人から浄土宗の教えを学んだそうです
 
時宗は一日を六つに分けて4時間ごとに順番に仏の
前で念仏を唱えて6時礼讃の御勤めをします。
お勤めをする人々を時の衆「時衆」と呼んだそうです。
江戸時代に「時衆」は時宗となって今に伝わっています。
 
北条時宗の菩提寺・鎌倉円覚寺を時宗の本山と間違えて
訪ずれる人もいるそうです

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本堂の向拝の柱にはおもしろいの彫り物がありました
昔の人は本物の象を見ないで彫ったのでしょうか。
毛がふさふさして瞳が青色でした

 

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約660年前に創建した称名寺は、徳川家との関係が
大変深い寺院です
境内には東照宮も祀られていました
徳川家康の幼名「竹千代」は、父・松平忠広が称名寺
行われた歌会で詠んだめくりはひろき園のちよ竹」から
付けたそうです。
今でも歌会で使用した文台と硯箱が寺宝として残って
います

 

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境内には松平氏歴代の廟があります。

初代・松平親氏時宗の僧でした。
念仏の教えをひろめるため諸国を遊行(旅)して、大浜
たどり着いて称名寺に滞在したそうです
 
その後、海岸線から山手に向かい松平郷に入って松平氏
の娘婿となりました
僧・親氏は清和源氏の流れをくむ世良田氏の出身でした。
そこで徳川家は親氏を松平家初代として、源氏につながる
家柄となったそうです。
将軍は源氏でなければならないという決まりがあった
そうです
 
 
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松平家祖廟から眺めた本堂です
屋根の形が面白いですね
古い建物ですから地震で倒れないように補強がして
ありました
この地域は太平洋戦争の末期に三河地震があって
被害を受けたそうです
また大地震が来るとの話もありますが、備えだけは
しておいた方が良いですね
 
駆け足で大浜の由緒ある寺院を巡ってきました
この狭い地域に宗派の異なるお寺がいくつもあり、
立派なお寺がたくさんあるなーと驚きました!

廃仏毀釈で捨てられる運命にあった大仏さまを譲り
受けて本尊として祀る海徳寺が印象深かったです。
 

散策するなかで小さなお堂を見つけました
大きな寺から次は小さなお堂にいってみます。

松平郷・高月院についてはコチラ↓
 e-tera.net/Entry/166/
 

カテゴリー: 愛知・三河 | 3件のコメント

沼津藩の西三河・大浜陣屋

今回のいい寺は・・・・・・
沼津藩の西三河・大浜陣屋です。
 

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寺津から矢作川を渡って西に行くと・・・
碧南市・大浜漁港に着きます
 
漁港の近くには寺町があり、大浜も寺と港の町に
なっています
陣屋(代官所)が置かれた場所ですから、町の大きさは
寺津の数倍あります

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みなさん、コレ何だか分かりますかー

うーーーんなんだろう~~
と近づいて見てみると・・・

どうやら気圧計のようです

さすが漁師町ですね!
漁に出る時に気圧計を見て、海の天候を調べたのでしょう。
自然の力は大きいので、事故の無いように確認する事は
大事ですね

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大浜陣屋の見取り図です
江戸時代の後半、大浜を中心に西三河一帯は静岡・沼津藩
の領地でした。
愛知の西三河にありながら、静岡の沼津藩の領地というのも
不思議ですね
 
大浜陣屋は領地を治める出張所の役目をしていました。
寺津の治助、間之助兄弟は大浜陣屋から十手を預かって
御用を勤めていました。

 

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現在、大浜陣屋の跡地は公園になっています。 
近所の方が飛行機を飛ばしに来ていました。

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芝生があるだけですが、なんとなく教科書に出てくる
歴史の舞台に立っているような気もしてきます

 

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沼津藩主の水野家は、徳川家康母・於大の方の実家で
西三河から知多半島に勢力を持った一族でした
沼津藩・水野家は分家で、当初は信州松本を拝領して
いましたが6代藩主の時に、江戸城中で刃傷沙汰
おこして領地没収となりました
忠臣蔵の赤穂藩・浅野家と同じですね
しかし、徳川家に関係した名門という配慮があって、その後の
幕府の対応は違いました。
水野家は旗本として存続がゆるされ、8代当主・水野忠友
の時に西三河の領地を拝領して大名に復帰したそうです。

刃傷沙汰を起こしたのに、許されて復活することは
なかなかない事ですよね

 

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水野忠友は10代将軍・徳川家治に仕えて出世し、側用人と
なった時に沼津藩の藩主になりました。

西三河の領地はそのままで沼津藩に所領を移されて城の
築城も許されたそうです
 
水野忠友の破格の出世の背景には 「田沼政治」で有名な
田沼意次の後ろ盾がありました
紀伊藩の足軽出身の田沼意次にとって水野家の家柄は
魅力的で水野忠友を片腕にして幕政を仕切ったそうです。
 
 
 
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田沼政治は「経済振興による財政の立て直し」でした。
経済システムを整備して都市と地方の商人の活動を
活発化させ、彼らから税を取る
ただ単に増税するのではなく、経済が潤うようにして、
自然に税金が入る方法を考えたのでしょうね
 
その後、天変地異がつづいて米価が高騰し農民一揆
町人の打ちこわしが頻発しました
幕府内で田沼政治に対する批判が噴出して田沼意次
失脚してしまいます
 
 
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田沼意次は領地を没収され、田沼派は幕政から一掃
されましたが水野忠友は領地も地位も安泰だったそうです。

またも名門の家柄が水野家を救いました
 
田沼政治の次は、三大改革の一つ「寛政の改革」が始まり、
財政再建、風紀取り締まりで幕府財政の安定をはかりました。
私達消費者も景気によってサイフの紐を締めたり、緩めたり
しますね

 

 
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寛政の改革の後、幕政を仕切ったのが水野忠友の跡を
継いだ沼津藩主・水野忠成でした。
当時は文化・文政期と言われ文化の最も爛熟した時期
でしたが政治の腐敗が著しかったそうです
水野出てもとの田沼となりにけり
水野忠成は田沼意次以上の賄賂政治を行いました。
 

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水野忠成は、腐敗政治を行った負のイメージが大きい
ですね。
しかし彼は、江戸の消費市場の活性化や全国に商品が
流通されるように促しました
地域の連合と自治を重視した政策で江戸幕府が安定した
最後の時代だったそうです
 
西三河地域も沼津藩・水野家の恩恵を受け、大浜は幕府の
年貢米を積みだす港として発展しました
当時は醸造業も盛んに行われましたが、明治時代になって
味醂醤油製造に移行して九重味醂やミツカン酢、
白醤油のヤマシンなどの会社となっています。
醤油は白醤油以外にも三河独特のたまり醤油があります。

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戻りガツオのおいしい時季ですね
私はおばあちゃんの家にいくといつもたまり醤油を使って
いました
濃厚でお刺身にはピッタリだと思います

 

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大浜の寺町には、立派な寺院が沢山あります
特に寺町で目を引くのが、真宗大谷派の西方寺です。
元々は天台宗の寺院でしたが500年前に真宗大谷派
変わり大浜に移ってきたそうです。
手前の太鼓堂は、明治になって藩主が学事の振興
願って開いた「新民序」の校舎として使用されました。
ここが、碧南の学校教育の発祥の地といわれています

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西方寺の本堂内です。
文化・文政時代に建立したそうです。
江戸時代の文化が最も爛熟したころの建物で豪華な
装飾品がありました

 

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境内には樹齢400年の「弥陀の松」が悠然と枝を
伸ばしています。
幹の太さと四方に伸びた枝の見事さに西方寺の
歴史を感じました。

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門前の多宝塔には「信ずるは力なり」と彫ってありました。
西方寺は宗教学者・清澤満之の終焉の地としても
有名で子弟がこの多宝塔を建立したそうです

大浜は信仰の厚い地域で、明治の初めに廃仏毀釈に
反対した「大浜騒動」が起こっています。

大浜の寺町を散策してみます

 

カテゴリー: 愛知・三河 | 6件のコメント

矢作川周辺散策♪

今回のいい寺は・・・
矢作川周辺散策です♪

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西尾・寺津から碧南市へと向かう途中にある矢作川
渡ります

・・・と言っても歩いて渡るには結構な距離です!
川幅が広く車で渡っても時間がかかります

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水源豊かな矢作川周辺にはたんぼが広がって
いました
身長ほどある里芋です
「よくもこんなにおっきくなって~」なんておばあちゃんの
声が聞こえてきそうです
手塩に掛けて育てた作物には愛着がわくのでは
ないでしょうか

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水はけが良く肥沃な砂地で育った里芋はまろやかで
おいしいでしょうね~♪

 

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ビニールハウスがずっと向こうまで続いていました。

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「写真を撮りたいので車を止めさせてもらえませんか」と
お願いしたところ快く駐車させてくださったおじさん♪
ハウスの中でカーネーションを栽培しているのだとか

私は日本でも海外でも旅先では人物を撮るのが
スキです
ただの風景でもいきいきとした写真になるような
気がしませんか

 

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小さい頃矢作川でしじみを採ったり、川遊びをした
記憶がよみがえってきて、なんだか懐かしい気持ちに
なりました♪

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久し振りに訪れた場所が変らずにあってくれると
うれしいですよね♪
遠くに碧南の火力発電所が見えました

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台風の季節ですね
農家の方にとって、天気は作物への影響がある
のでとても気になる事ですよね

私たちも、曇り空が日差しを遮ってくれたり、雨が
大地を潤してくれたり、雨続きの後の晴れ間で花が
元気になったり、自然の恵み・太陽の恵みを意識
するだけで、気持ちが豊かになれる気がします

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帰り道にキレイな夕焼けを見ることができました。
空があまりにもキレイなので夢中でシャッターを切って
いました
燃えるような夕焼けよりも空がうっすらサーモンピンク
なった頃が好きです

みなさんは最近夕焼け空を見ましたか
ふと空を見上げてみるのもいいものですよね

 

カテゴリー: 愛知・三河 | 9件のコメント

いい寺★寺津の治助

今回のいい寺は・・・・・寺津の治助です。

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寺津は名前の通り漁港(津)の町です
漁師は漁で生計を立てて海から恵みを頂きます
その海も嵐になれば人をのみ込み命を奪います
漁師は自然に身をゆだねながら生活をするので
信心深いそうです
畏怖と畏敬の念が信仰の厚さになってお寺を大切に
しているのでしょう。
 

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港の近くの通りには、三十三観音菩薩が祀られていました。
綺麗な花が、観音菩薩に手向けてありますね
ここで皆さん漁に出る家族の無事を願うのでしょう
 

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観音菩薩は、阿弥陀仏の脇侍菩薩で勢至菩薩と
合わせて阿弥陀三尊仏といわれます。
阿弥陀仏の代わりに現世で私達を助けるのが役目
だそうです。
三十三観音菩薩と言われるように、沢山の菩薩が
色々な姿に変わって私達を支えています

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私達の生活を支える観音菩薩
あるときは具足となって現れるそうです。
網も観音菩薩と思えば大切に使いますね
 
ノーベル平和賞を受賞したケニアのマータイ副大臣の
もったいない」の言葉は、使い捨ての時代への
警鐘でした
原材料費が値上がりしている今こそ物を大切に使うことを
考える時ですね
 

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軒先の竿に玉ねぎが網に入れて吊るしてありました
おばあちゃんの家にも吊るされていたなぁと思い出しました。

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商店街の仕出し屋さんでは、アナゴを捌いていました。
慣れた手つきで素早く二枚に下ろしていました
三河湾で獲れる魚は美味しいです
隣の一色町には、有名なウナギの養殖場があります。
昔はウナギと言えば浜松でしたが、今は三河一色産
ウナギもブランドですね。
 

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港近くの瑞松寺には寺津城の遺構があります
昔、吉良氏の家臣・大河内氏の居城がありました。
大河内氏東条吉良家徳川家に仕え、三代将軍徳川家光
の時に松平家に養子に入った伊豆守信綱は老中まで
務めました。
伊豆守信綱は「智恵伊豆」とよばれ島原の乱を鎮定した
功により武蔵川越の領主となり、寺津の大河内氏も
三河吉田藩・上野高崎藩に移封しました。
 
そして、治助親分の時代の寺津は静岡・沼津藩の領地
となっていました。
隣接する碧南市・大浜には出張所の役目をする沼津藩・
大浜陣屋がありました。
治助親分は、そこから十手を預かってお上の御用も
務めていました。

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親分稼業の収入源は、博打の開帳でした
博打は昔もご法度でしたから、賭場として使用されたのが、
町奉行の管轄外の神社仏閣でした。
そこで、開帳の場所代を寺銭というそうです。
寺津は漁港で活気があり寺社が多くありますから
賭場に困らず繁盛したのでしょう。
治助親分の所には、60人もの子分がいたそうです
 
治助親分は十手も預かっていましたから町の治安を
守りながら程よく住民を遊ばせていたのでしょう。
天下の大親分として慕われていたみたいで浪曲・
清水次郎長伝の石松三十石舟の段でも話が出てきます
旅人が天下の大親分は寺津の間之助か西尾の治助か・・・
それとも清水次郎長か。
その後、清水一家の子分の話になった時に石松が割って
入って「食いねー食いねー鮨食いねー」「江戸っ子だってね」
と有名なセリフが続きますね。
 

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治助間之助は兄弟です。
治助の後を継いで寺津一家の親分になりました
間之助も大浜陣屋から十手を預かり地元の治安を守りました
間之助は海運業でも莫大な資産を手に入れたそうです
地元では間之助の方が有名で、間之助羊羹があり菩提寺・
養国寺にはお墓があります
 

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時代がたって繁栄した寺津も一地方の町となっています。
最近、名鉄三河線が廃線となって、寺津駅の跡は草に
覆われていました
 
寺津の治助も間之助も清水次郎長がサイコロと剣の
修行をした事も忘れられてしまいそうです
 
地域や人物の名前を残すのは、大変なことですね!
ただ歴史を伝えるだけでなく、そこから何か学べること
あれば皆さん耳を傾けてくれるでしょう
 
その何かを探してみるのも楽しいです
見た目では分からない何かを・・・・・
 
次は治助親分、間之助親分に十手を持たせた
碧南・大浜陣屋にいってみます

カテゴリー: 愛知・西尾 | 4件のコメント

いい寺★次郎長・矢田を目指す

今回のいい寺は・・・・・
次郎長・矢田を目指す
 
お茶屋の主人から
「矢田の一本松から半里いったところが
寺津の町です」
と聞いた清水次郎長一行は西尾・矢田を目指します。

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矢田に着くと、街道沿いに大きな寺院が
目に入ります。
亀休山・養寿寺です。
創建は今から1200年前です。
東大寺の僧・勤操僧都が矢田を通りかかった時、
浜辺だったこの地に霊亀が現れて砂浜で休んで
いるのを見て弁財天を祀ったのが始まりだそうです。
 
 

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山門前には、三河・円光大師(法然)二十五番霊場
の石碑がありました。
養寿寺は浄土宗西山深草派の寺院で、京都・河原町
六角の誓願寺が本山です。
法然上人から伝わる念仏信仰を宗旨として、全ての人
が救われる「念仏」の教えを説いています。
 

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渡世人となって清水を飛び出した次郎長一行
仏の教えから外れて侠客の道へとまっしぐら!
 
堅気の人なら畏怖の念があって道から外れる事に
躊躇しますよね。
侠客の道を志した清水次郎長は、そんなことは
おかまい無しで地獄の閻魔様も怖くはなかったでしょう。
そんな、清水次郎長も耳を傾けたくなる教えがあります。

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法然上人の説かれた教えに
「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」
悪人正機説があります。
 
親鸞聖人
「悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の
根機である」と説いています。
侠客でも救われて、閻魔大王でなく阿弥陀様の
顔を拝むことが出来る・・・
これは、清水次郎長にとっても実にありがたい教えですね!
 

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しかし、そこにはちゃんと注意書きがあります。
法然上人は悪を慎み、を努めることを勧めました。
親鸞聖人も「薬あればとて、毒を好むべからず」と戒めています。
誤解すると邪鬼のように四天王に踏まれて、極楽浄土
遠くなってしまいますね。
 
豊田、岡崎から西尾にかけて矢作川沿いには浄土宗
浄土真宗の寺院が多いです。
この地方に暫くいて侠客の修行をしましたから地元の
風習信仰の影響もうけたでしょう。
明治元年に官軍の支配下にあった清水港で幕府海軍・
咸臨丸が撃沈されました
 
咸臨丸の船員の遺体を懇ろに葬って裁きを受けた清水
次郎長は、「死ねばみな仏、仏に官軍も賊軍もありません。」
山岡鉄舟に答えた話があります。
 
感銘を受けた山岡鉄舟は、
「精神満腹」と書した額を清水次郎長に渡したそうです。
その素養は、浄土宗の盛んな三河で自然に養ったもの
かもしれませんね。
 

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善でも悪でも、敵でも味方でも、どの道を歩んでも手を
差しのべる仏様がいます。
皆さんご存じの地蔵菩薩です。
あの世で二進も三進も行かなくなった時、最後に救うのが
地蔵菩薩の役目です。
すべての人を極楽浄土まで連れていってくれるそうです。
 
あの世の事を心配しては渡世人稼業は務まらないでしょうが、
寺津まで後半里、清水次郎長一行は矢田の養寿寺でお参り
してから治助親分の所に向かったような気がします。
 

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養寿寺徳川家と所縁のある寺院です。
ここには、家康初陣の木像や大伯母矢田姫の墓があります。
矢田姫は、戦国時代に吉良荘を治めていた吉良義安
に嫁いだ姫です。
吉良義安は今川義元に刃向かい駿府で人質となった時、
徳川家康と出会って元服した際には理髪役を務めたそうです。
そして、吉良義安の子孫が吉良上野介です。
吉良家が徳川家の遠縁にあたる事を考えると殿中の刃傷沙汰
で吉良上野介がおとがめを受けなかったのも分かりますね。

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養寿寺の釈尊涅槃会は『矢田のおかげん』と親しまれています。
当日は境内に沢山の露店が出て、多くの人々で賑わいます
かげん」とは管弦楽のことで、今から三百年以上前にこの地で
飢饉があった時に、人々が音楽を奏でて安泰や繁栄を祈った
そうです
 
さらに西尾藩の殿様の計らいで管弦楽付の涅槃会が10日間
行われその間藩内は休日だったそうで
これが『矢田のおかげん』の始まりです。
修行中の清水次郎長も『矢田のおかげん』に出向いたでしょうね。
境内の何処かでサイコロを振っていたかもしれません

 
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もしかしたら地蔵菩薩に願を掛けていたかもしれませんね。
「日本一の侠客になりますように」
 
後で住職に伺いましたら清水次郎長が露天商を呼んで
祭りを企画したそうで芝居などもあったそうです。

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現在の寺津町です。
名前の通り寺と漁港(津)の町です
 
寺津に着いた一行は、早速に治助親分の門を潜ります
ところが、玄関先の壁には十手や捕縄が整然と掛けられていました。
博徒でお上の御用をつとめる二足の草鞋を履く岡っ引きの家でした。
 

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次郎長の生家に氷川きよしの写真が飾られていました♪
清水次郎長は腹をくくって
「おひけぇなすって・・・・・・清水次郎長 江尻熊五郎、
庵原広吉・・・」
一通りの挨拶をすませると奥から治助親分が現れ
「よく来てくれた、さあ」
と手をとり奥に案内しました。
「国元で喧嘩をやって飛び出してきたが、途中で路銀が
つきて困ったところに兄貴の事を聞いてやって来たしだいです。」
程なく清水次郎長は、治助親分のところで草鞋を脱ぐことが
出来ました。
治助親分は清水次郎長一行を家において、厚くもてなした
そうです。
 
次は、寺津の治助です。

※養寿寺の本山「誓願寺」についてはコチラ↓
  e-tera.net/Entry/107/

カテゴリー: 愛知・西尾 | 3件のコメント

いい寺★実相寺と西尾の文化

今回のいい寺は・・・・・
実相寺と西尾の文化です。
 
西尾市は、むかし吉良荘といわれ京都・九条家
領地でした。
吉良と聞いて先ず思い出すのは、忠臣蔵の敵役・
吉良上野介ですね
吉良上野介の先祖は、清和源氏の流れを汲み
足利氏の支流という武家の名門でした。
三河地方の守護職に就いて吉良荘に入ってから
吉良氏と名のったそうです。
 
その後、内紛から西条吉良東条吉良に分かれて
勢力は弱体化してしまいます
ただ、足利将軍家の近臣として仕えて、名門としての
誇りは高かったそうです
東条吉良家は江戸時代には高家筆頭として幕府に
仕えましたが、元禄年間の刃傷沙汰がもとで改易と
なってしまいました
名門の誇りが仇となり、忠臣蔵の敵役として有名に
なってしまいましたね。
吉良上野介の領地は、西尾市に隣接する吉良町
なっています。

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西尾市は、江戸時代には西尾藩といわれ松平家の支流
大給(おぎゅう)松平家が藩主でした。
松平家の支流ということで家紋は「ひとつ葵」です。
 

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兜の前立は「」の一字ですね。
西尾藩の居城跡は整備されて、城門や櫓や歴史
資料館が併設されています。
 
徳川家康の父・松平広忠は、吉良氏の家臣でした。
時代は移り変わり、西条吉良氏は徳川家康によって
滅ぼされて、江戸時代に西尾藩となったそうです。
藩城・西尾城は、西条吉良氏の居城・西条城の跡地に
建てられました。
東条吉良氏は「名門の家を残す」ということで助かったそうです。

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西条吉良氏は滅びましたが、西尾には二つの文化が
伝承されています。
その二つの文化の発祥地・実相寺です。
実相寺は吉良氏の菩提寺として鎌倉時代・文永8年に
建立されました。
 
それは、モンゴル帝国フビライ・ハーンの使者が再来日
した年です
当主・吉良満氏は、吉良荘が京都・九条家の領地だった
関係で九条家の菩提寺・東福寺から聖一国師を開山として
迎えました。

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当時は、吉良氏の財力により境内には七堂伽藍の
堂宇が建ち、全盛期には40ヶ寺の塔頭があったそうです。
戦国時代に織田信長の焼き打ちにあい諸堂は全て焼失
してしまいました
 
今は、遠州地方の古堂を移した仏殿と周囲の老松が
古刹としての面影を残しています。

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境内の周りには、茶畑が広がっていました
聖一国師は、開山として迎えられた折りに境内により
持ち帰った茶の種を蒔いたそうです
当時、茶は修行の為の薬と考えられていましたから、
修行僧の為に京都から持ってきたかもしれませんね。
これが西尾茶の始まりといわれています。

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聖一国師が開山となり、国師の弟子・二世応通禅師に
寺の運営を託しました。
七堂伽藍の境内は、国師が修行した中国・径山万寿寺
模して造られたそうです

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鐘楼の釣鐘が、珍しい形をしています
鐘の下、裾の部分が八葉に型取られた日本では珍しい
日中混交式で八葉宝鐸型梵鐘 (はちようほうたくがた
ぼんしょう)と言います。
この釣鐘には、龍神が和尚の法話に感銘して寄進したとか
中国・径山万寿寺が火災にあった時、援助したお礼に頂いた
とか、諸説があります。
また、胴周りがのっぺりとして撞木の当たる所も無いので、
風鈴として飾られたという話もあります
どちらにしても中国文化が西尾に伝わったことを示すものですね。
 

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西尾に伝わる文化として有名なのが、三河万歳(みかわ
まんざい)です。
正月や慶事に披露する祝福芸で国の重要無形民俗文化財
に指定されています。
祝福芸というと染之助、染太郎の「おめでとうございます」を
思い浮かべますね。
 
この三河万歳は、二世応通禅師が中国へ留学中に習い
覚えた随の万歳楽が本となっています。
 
人々に仏教を分かりやすく説くために言葉と節を付けて
教えたのが始まりです
知多半島に伝わる尾張万歳も、応通禅師の兄弟子・
無住国師が名古屋・長母寺に入って法華経を分かりやすく
伝えるために知多の寺領で教えたのが始まりだそうです。
 

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吉良氏の菩提寺・実相寺の近くに隠居所・丸山御所が
ありました。
そこで、実相寺を中心にした中世文化を「丸山御所の時代
と呼んでいます。
その歴史を経て西尾茶は、茶の湯・文化として生活に
浸透しています
市内で抹茶を頂ける場所や販売店が至る所にあります。
 

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実相寺に隣接するコミュニティーふれあいセンターに
茶室がありました。
だれでも使用できる場所があり、みんなが親しむことによって
文化は広がるのでしょうね
 
 
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西尾城の中にある旧近衛邸で抹茶を頂きました
栗蒸し羊羹はとても懐かしい味がしました。

近所の和菓子屋さんのおじいちゃんが作る栗蒸し羊羹
が大好きでした。
朝早く、羊羹を蒸す湯気が窓から漏れていました。
栗を手でむき、絶妙な味加減で評判でした。
最近引退され、少し寂しいです。
 

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「お茶」と「三河万歳」
 

歴史を紐解くと色々な人や場所との繋がりが見えて
きますね
文化を伝えることは、歴史を伝えることになるでしょう。
そして歴史を知る事によって、文化を大切にする気持ちが
生まれると思いました。
 
 
清水次郎長は、治助から生まれ故郷は万歳の出る
ところと聞いていました。
「この土地は、万歳の出る処じゃないかね」
「ここは、本場ですよ」
「寺津はまだ先かね」
「矢田の一本松から半里いったところが寺津の町です」
茶屋で話を聞いた清水次郎長一行は、寺津の親分は
治助に間違いないと確信して先をいそぎました。
寺津の親分が治助なら、そこで侠客の修行をしようと
考えていました。
 
次は一行の跡を追って矢田から寺津に向かいます。

カテゴリー: 愛知・西尾 | 4件のコメント

清水次郎長と寺津

今回のいい寺は・・・・
清水次郎長・寺津に行く です♪
  
天保13年の秋、清水次郎長は喧嘩沙汰が
きっかけで、店も妻も財も捨てて清水を飛び
出して無宿者になります
 
それは、坂本竜馬が脱藩して「志士」となったように、
侠客」となって身を立てることを望んでの事でした。
 
江尻の熊五郎、庵原の広吉を従えて「志を立て郷関を
出る」ように期待に胸をふくらませての旅立ちだったの
でしょう。
清水を後にした3人は、大井川を渡り、天竜川を渡って
上方に向かいました
そのころ、世間は天保の改革の真っ盛りでした。

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改革の中心となった老中・水野忠邦は、出世の為に
家臣の反対を押し切って唐津藩・実封25万石から
浜松藩・実封15万石に転封を願い出た殿さまです
願いは叶い大阪城代、京都所司代、老中首座と
出世街道を上りつめて改革に着手しました。
 
当時、アヘン戦争で清が英国に敗れ、異国船が日本近海
に出没して海防を脅かすなど改革が急務でした

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そんな浜松藩を通って清水次郎長一行は、三州藤川(岡崎)
に辿り着きました。
藤川に着いた時には、三人とも懐にびた一文もなく、
この辺の侠客の親分に世話になろう」と決めて
宿場人足のたまり場に行ったそうです。
 
この辺の侠客でえらいのは誰かね
そりゃ一番は吉良の武一 肝っ玉が大きく剣術の達人
いやいや、寺津に今天狗といわれ、武勇並はずれて
日の出の勢いの親分がいますよ

 
風貌を聞いたら「そりゃ 治助ずら」と顔が浮かびました。
昔、清水次郎長の家に厄介になったことのある男でした。
 
そんな縁で、清水次郎長は寺津治助親分のところで
厄介になりながら侠客の修行をすることになりました

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寺津は、西尾市にある漁師町です
岡崎市から矢作川を下っていくと西尾市があります。
西尾市の特産といえば、清水と同じお茶です
お茶の歴史を紐解くと、偶然にも共通するところがありました。
 

 

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西尾市内に入ると先ず目にする看板です
抹茶の原料となるてん茶が主で全国生産量の
約20%を占めています

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西尾茶の特徴は、深い緑、上品な香り、穏やかな
うまみとコクがある所です
春の摘み取りの前には、黒いシートを広げて
直射日光を当てないようにします
そうする事によって新芽が柔らかくなるそうです

 
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茶畑を過ぎると、今度はお茶屋さんが道の両側に
並んでいます
ここは、「お茶街道」と言いたくなるぐらいです。

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店の裏にも茶畑がありました。
寺院の境内まで茶畑が続いています
このあたりの土は、水はけが良くて栽培に適している
そうです
西尾の友達が学校行事で茶摘みがあるよ!なんて言って
いたのを思い出しました

 
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この寺院の門柱に「茶祖之寺 紅樹寺」と
書いてありました。
ここにお茶街道のルーツがありそうなので
拝観してみることに・・・・

 
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三十三観音が整然と並んで祀られています

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ここは浄土宗の寺院で、徳川家康の伯母・常在院殿
の菩提を弔うために建てられました
明治になって西尾茶を再興させるため足立順道住職が
宇治より茶種を持ち帰り、境内の荒れた土地を開墾して
茶園を開きました
その後、製茶技術を導入して近隣の農家に茶栽培を
奨励して、お茶の町・西尾の基石となったそうです。
 
寺の役目は先祖の供養をするだけではないですね!
有名な高崎のダルマ市も少林山の和尚が、地域の
発展の為に考案して地元農家に製作を勧めたのが
始まりだそうです。

 

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住職が宇治から持ち帰った茶の原樹です。
西尾茶は、今から800年前に京都・東福寺開山
聖一国師が西尾・実相寺の開山となり境内に
から持ち帰った茶の種子を蒔いたのが始まりです。

 
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実相寺は紅樹寺の近くにあります。
二つの寺の歴史の中で茶畑が広がり、
お茶屋さんが軒を並べているのですね
開山聖一国師静岡の生まれで、若い時に
久能寺で修行したそうです。

そして、静岡茶もから持ち帰った茶の種子
蒔いたのが始まりといわれています。
 

清水次郎長は、偶然にも侠客の修行に入った場所が
お茶に縁のある町だったのです。
後に次郎長も静岡茶の発展に寄与しましたから
不思議な御縁がありますね!
 
 
次は、西尾の茶文化を探りながら実相寺に行ってみます♪

久能寺についてはコチラ↓

 いい寺・久能山東照宮(1)
 e-tera.net/Entry/174/

※お茶の町清水についてはコチラ↓

 清水を見下ろす日本平
 e-tera.net/Entry/173/
 

カテゴリー: 愛知・西尾 | 4件のコメント

侠客・清水次郎長

今回のいい寺は・・・・・
侠客・清水次郎長です。

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静岡から見た霊峰富士です
 
文部省唱歌 富士山
あたまを、雲の上に出し、四方の山を見下ろして
雷さまを下に聞く、富士は日本一の山
 
明治36年読売新聞で著名人千人を取り上げる「千人評」を
催した時、乃木大将、福沢諭吉らと並んで清水次郎長
取り上げられました。
 
そのなかで
「さぁ来いと、富士を背中に背負って立つ、男の中の男一匹」
と、清水次郎長を評しています
 
 

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富士山の前に広がる駿河湾です
対岸が伊豆半島です
駿河はアイヌ語で、トリカブトを意味します。
猛毒のトリカブトは、使い方によって薬にもなるそうです。
 
この湾は海底が深く暖流が入り込むため、沿岸と湾の
真ん中では気圧が違うそうです
沿岸では穏やかな海でも中心部に低気圧が発生する
ことがあります。
晴天でも台風のようなシケとなって航行する船に襲い
かかるそうで、トリカブトみたいに取扱いを間違えると
大変なことになることから駿河湾と名がつきました。
 
若いころの清水次郎長は、粗暴な振る舞いで世間を
困らせ、家族にとって駿河(トリカブト)のみたいで
扱いに難儀したそうです。

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甲州(山梨県)から駿河湾に注ぐ、富士川です。
戦国時代には武田信玄が甲州から富士川を南下して
今川氏を追い出し、駿河国を領地にした時期もありました。
甲州と駿河を結ぶ重要な川で、江戸時代にはこの水運を
使って甲州年貢米が清水港に納められ、塩が甲州から
信州に運ばれました

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安藤広重の描いた清水港です。

徳川家康が駿府城を築城した時には、清水港から巴川を
上って資材が搬入され大阪冬・夏の陣では、多くの徳川
軍勢が清水港から大阪に向かいました
 
兵員や物資の輸送に尽くした功によって富士川から駿府の
安倍川までの海上輸送は、全て清水港の廻船問屋だけが
取り扱う営業特権を徳川家康から与えられました。

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港には広大な幕府蔵屋敷が建ち、納められた甲州年貢米
千石船に積まれて江戸浅草河岸まで運ばれました
清水港は廻船問屋を中心に物資の集散地として栄えたそうです。
 

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清水次郎長の養父は、甲田屋という米屋を営んでいました。

 
清水次郎長は米屋の跡取りとして安定した暮らしを望む
ことなく博打場での刃傷沙汰から清水港を飛び出して
しまいます
 
西に向かった清水次郎長は、三河で路銀(旅費)に困り
寺津の治助親分の所で草鞋をぬいで、侠客の修行に
励みました。
腕と度胸を磨いて清水に戻った次郎長は、早速けんかの
仲裁という大仕事をこなして名が知れるようになりました。

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喧嘩の仲裁で男を挙げた次郎長一家の元には、多くの
渡世人が訪れました。
敷居を跨いだ渡世人は客として食事の世話をしますから、
数十人の飯を食べさせるうちに金回りは追いつかず質に
出す家財道具も無い状態が続いたそうです。

親分稼業も大変です。
私利私欲ばかりを考えていたらとても務まりませんね。
渡世人が出立の時には草鞋銭を持たせますから一宿一飯
の恩は、決して忘れないものでした。

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「切った、張った」の世界を生き抜き東海一の大親分
となった清水次郎長です。
義理と人情に厚い侠客・清水次郎長の活躍は、時代劇で
取り上げてご存じですね。
千人評で「富士を背中に背負って立つ」と評されたのは
後の活躍でした。
 
「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われ、徳川幕府を
倒して世間が湧くなかでした。
徳川幕府の家臣を引き受けて清水港で迎え、生活に困らない
に世話をしたそうです。
 
そして、大政奉還で将軍職を辞した徳川慶喜が静岡で
暮らすことになり、新門辰五郎に見込まれて清水次郎長は
警護役を任されました。
 
世の中が明治新政府、文明開化と進むなか歴史の
表舞台は知られていますが、江戸城開城後の幕臣の
行き先は知らなかったですね。
この功績が「富士を背中に背負って立つ 男の中の男一匹」
といわれ弱きを助け悪に立ち向かう清水次郎長の真骨頂
だったのです。
 
 

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清水次郎長は幕臣の就職先を斡旋するために三保の
塩田や有度山の開墾、相良の油田開発と色々な事業と
関わりを持ちました。
廻船問屋には蒸気船による横浜との定期航路開設を説き、
静岡茶の輸出会社設立に尽力しました。
私欲の無い次郎長は、自ら事業を行って財を成そうとは
思わなかったみたいです。
その代りに船宿「広末」を開業して、悠々自適な生活を
おくったそうです。
 
次は次郎長が若い頃、侠客の修行をした三河・寺津に
行ってみます
 
カテゴリー: 静岡・清水 | 3件のコメント

清水の町と清水次郎長

今回のいい寺は・・・・・
静岡市・清水港です

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平成の大合併清水市静岡市は合併し、清水市の名は
消えて静岡市・清水区となりました
皆さん、これで「清水」の名が消えていくのかと心配したそうです。
そんな折に「次郎長翁を知る会」の会報に勇気付ける文章が
載りました。
 
これは、どの地域にも当てはまると思うので一部を紹介します。
 
文化があれば地名は残る
 
残念ながら、清水という都市名が消えた。
清水という名が忘れられずにずっと残るだろうか・・・・
合併して大静岡市が生まれると、これからの市長は
清水、静岡の両市民の対立感情をなくすために、極力、
清水意識や静岡意識を消そうと努力するだろう。
 
これから50年以上も経つと清水の名は次第に消えていくだろう。
清水の名をずっと残すにはどうしたらよいだろうか。
 
博多は昔、福岡と合併したが、現在でも博多という名前は
はっきり残っている。
 
まず、新幹線の駅は博多駅であり、博多という地域名にも、
博多人形、博多どんたく、博多織などの地域産品名にも
残っている。
私たちは福岡と言うより、博多といった方が親しみがある。
大阪という都市名と同じように、難波という地域名は有名だ。
つまり、しっかりした文化があり、多くの人がその文化に
憧れれば、そこの地域名は永遠に残るはずだ。
 
 
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博多どんたくです。

 

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博多には博多織の文化を体験できる場所があります。

清水の人たちも「清水」という伝統や文化をしっかり
残していくために、清水市にある良い文化や伝統を
後世に伝えていけるよう努力していただきたい
ですね。
その地の良き伝統や文化が残るのは、その地域に
住む人たちの、その地域に対する誇りがそうさせて
いくものだろうと私は思います

市町村合併によるホームタウンの吸収に負けずに
その土地の良さをアピールしていってもらいたいもの
ですね

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今、清水の街を全国に紹介しているのは、皆さんご存じの
ちびまるこちゃん」ですね。
原作者さくらももこの小学生時代の清水を舞台にしています。
昭和50年前後で、清水の街が賑わっていたころです

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そして、清水エスパルス
Jリーグ発足当初から参加して、話題の選手を沢山だしています。
以前は、市内の高校が全国大会の優勝・準優勝の常連校で
有名選手が多く入団しました。
最近は一時期の勢いは無いですが、市民と地元企業の
サポートによって上位をねらって頑張っています

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清水の人物といえば、幕末から明治にかけて清水港
拠点に活躍した清水次郎長が先ずあげられますね
浪曲師・2代目広沢虎造の18番「清水次郎長伝」で
 
旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名代なる東海道、
名所古蹟の多いところ、中に知られる羽衣の松と、
ならんでその名を残す、東海道一の親分は、
清水港の次郎長~
 
と語って一躍有名になりました。
テレビ時代劇で「清水次郎長」が放送されたころは、
多くの観光客が訪れて清水市よりも清水次郎長の方が
有名で、次郎長の清水だったそうです

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港にそそぐ巴川の河口近くに清水次郎長生家があります。
他に菩提寺・梅蔭寺や晩年に営んでいた旅館・広末亭
近くにあります。
生家の中には次郎長の遺品や資料が展示してありました
 
 
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清水次郎長のハマり役といえは、杉良太郎でした。
大江戸捜査網、水戸黄門、遠山金さんと時代劇に
欠かせない役者で人気は抜群でした

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最近ではNHK・木曜時代劇で「次郎長背負い富士」が
放映されました
原作 山本一力「背負い富士」
脚本 ジェームズ三木
主演 次郎長・中村雅俊 おちょう・田中美里
「斬った、張った」の侠客・次郎長より、史実に則った人間・
次郎長
が描かれていました。
杉良太郎、中村雅俊と体格の良い丸みのある役者が主役を
演じ、次郎長はクリーンで包容力のあるイメージがしました。
 

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清水次郎長はミュージカルにもなりました
平成を斬る!舞う。歌う。
髷(まげ)を取って歌あり、タップダンスあり、娯楽と
人情味のある内容で幕末と現在を重ね合わせて、私達が
忘れかけている情や夢を伝えています
 

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今度は、映画になります
 
次郎長三国志
 
泣く子も黙ると謳われた清水港の次郎長一家。
情が厚くて義理堅い次郎長親分を筆頭に、大政、
小政、法印大五郎、桶屋の鬼吉、関東綱五郎、
大野の鶴吉、そして森の石松ら
肩で風切る荒くれたち。
恋女房・お蝶の姿を瞼に抱き、甲州で一大勢力を誇る
黒駒の勝蔵、裏切り者の久六、宿敵・三馬政と一世一代の
闘いを繰り広げる!
 
監督マキノ雅彦は、ご存じ津川雅彦ですね。
監督作品第2弾として選んだのが、叔父マキノ雅弘監督が
生涯で13回監督した代表作「次郎長三国志」でした。
 
もう一度日本の娯楽映画の楽しさを思い出してほしい
と願いを込めて制作したそうです。

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主演 次郎長・中井喜一 おちょう・鈴木京香
富士を背負って「いざ出陣!」
 
因みに次郎長三国志の三国は、駿河遠州三河の国です。
そして、三河・寺津侠客・次郎長を生み、義理人情
渡世人稼業から天下の大親分へと歩んでいく出発点
となりました
三河には寺津の間之助吉良の仁吉乙川での
仇打ち
など次郎長に関係した人物や場所があります。
 
 
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清水次郎長は、無宿者となって旅姿で全国各地を
渡り歩き、腕と度胸を磨いて東海道一の大親分として
明治を迎えました。
そして、山岡鉄舟との出会いにより人生の大転機を
迎え、侠客・次郎長は堅気として、それまでと違う人生
を歩むことになります。
明治以降の清水次郎長を映画やテレビで取り上げる事
が無いので、その姿は知られていませんね。

次郎長翁を知る会」では、清水次郎長の本来の姿を

内外に伝えることを中心に活動しているそうです。
 
そして、活動を通して皆さんの心に清水の名を残そうと
努めています

これから、清水次郎長を通して関係した地域や
人物の歴史を探ってみたいと思います

カテゴリー: 静岡・清水 | 2件のコメント

静岡・駿府城

今回のいい寺は・・・・・・
駿府城です

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1・富士
静岡市からの眺めです

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2.
徳川家康の鷹を持つ姿です。
 

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3.茄子
徳川家康は、清水・折戸の茄子が好物でした
1.富士 2.鷹 3.茄子
徳川家康が駿府に居城を構えた理由であげた三つです
他にも意味が色々あり、富士は「広大」鷹は「つかみ取る
茄子は「成す」を表すそうです
いずれも吉を表し、「この三つの夢をみれば万事吉」と
言われていますね。

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徳川家康は幼少期の8歳から、今川義元が治めていた駿府
人質として住んでいました
その間に今川家軍師で静岡・臨済寺雪斉和尚から勉学の
指導を受けたそうです
臨済寺には、「徳川家康・手習いの間」が今でも残っています。
当時、岡崎は今川家の支配下にありましたが、19歳の時に
桶狭間の合戦で今川義元が討たれると岡崎に戻ったそうです。
 

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徳川家康の武将としての才覚は、人質時代に培われたものと
言われています。
忍耐強く機会を伺い、関ヶ原の合戦の勝利で天下を治めることに
なりましたね!

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徳川家康征夷大将軍となって徳川幕府を開くと直に三男・
徳川秀忠に将軍職を譲り徳川幕府は世襲であることを諸大名
に示してから、駿府に移りました
 
駿府に移って亡くなるまでの12年間、この地から諸国に睨みを
利かせて徳川幕府の基礎を築いていきました。
隠居の身となっても実権を握って政治を行ったので「大御所政治」と
言われています。

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駿府城から発令されたものには、武家諸法度禁中並公家諸法度
キリスタン禁止令があります。
そして、最後の仕事として「大阪の陣」へと向かっていきました
夏の陣豊臣家が滅ぶまで「南無阿弥陀仏」を書き続けたそうです。
それは、孫娘・千姫の嫁ぎ先の豊臣家を滅ぼすことへの供養の
為か徳川家の安泰の為か、数々の戦の中で失った家来や討ち
取った武将の供養の為だったのでしょうか!
 
戦国時代は徳川家康によって終焉し、天下太平の世を
迎えましたね。
 

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駿府城内に徳川家康お手植えのミカンです
 
日光山輪王寺には、大黒頭巾を被り寛ぐ晩年の姿の肖像画が
あります。
隠居の身となりながら大御所政治で奔走しましたが、大阪の陣
機に大黒頭巾型の兜を脱ぎ本物の隠居さんになったのでしょうね。
七福神の大黒さんは「裕福」を与えるそうです。
 
この七福神の顔ぶれが決まったのは天海僧正徳川家康
七福神の徳を説いてから後のことだそうです
 
*夷は清兼、大黒は裕福、毘沙門は威光、弁財天は愛嬌、
 布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を与えると
 いわれています。
 

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徳川家康の死後、徳川秀忠の二男・徳川忠長が藩主と
なりますが乱心のため兄・家光によって改易とされ、その後は
幕府直轄地(天領)となりました。
徳川家康によって創建された天守閣は失火により焼失し、
二度の大地震(宝永、安政)で石垣まで崩れる尽大な被害を
受けたそうです。
 
明治には、建物も取り壊されて城内は陸軍の管轄となりました。
現在では駿府公園となり、平成になって東御門と巽櫓が建て
られて城の雰囲気を取り戻しました

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堀の石垣です。
石積みが違うのは、地震のつめ痕でしょうか
東海地方には、周期的に大地震が起きると言われていますね
 

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発掘された旧堀と静岡県警庁舎です。
大政奉還により明治元年に官軍が駿府に駐屯して駿府藩が
成立し駿府町奉行所が廃止されました。
 
徳川宗家16代を継いだ徳川家達駿府城に入り、勝海舟
山岡鉄舟が同行して駿府藩幹事役に就いたそうです。
 
そして、駿府町差配役に就いた伏谷如水が清水次郎長
召し出しました。
街道一の大親分といわれた清水次郎長の渡世人稼業の
なかで、これまで犯した罪を放免として、東海道の沿道警護に
当たらせました。
 
江戸時代から明治に変わる混乱の中、治安を維持するには
清水次郎長が適任と考えたそうです
毒をもって毒を制す」今では考えられないことですね。

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駿府公園の周りには、行政施設や文化施設が建ちならんで
いて静岡文化と歴史の中心地となっています。

 
平成の大合併で、静岡市に清水市、蒲原町が編入し
て政令都市となりました。
行政的なメリットがあるでしょうが、歴史のある地名
変わるのは寂しいですね

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そんな中、大河ドラマで徳川家康を演じた津川雅彦
映画監督・マキノ雅彦となって「次郎長三国志」を
制作しました
 
 
次は清水次郎長の生まれた街に行ってみます

七福神についてはコチラ↓
 「いい寺・七福神めぐり」
 e-tera.net/Entry/59/

※七福神めぐりの「泉桶寺」はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/60/
 
 

 

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