久能山東照宮(2)

今回のいい寺は・・・・・
久能山東照宮参拝です



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静岡が全国に誇る場所といえば、日本平・久能山東照宮
ですね。
荘厳な権現造りの社殿は、日光東照宮の見本となり
徳川家康の歴史を残すものとなっています

 

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青銅の鳥居を潜って拝殿に向かいます
 
 「我れ死後は遺骸(いがい)を久能山に納め、葬儀は
江戸増上寺で営み、位牌(いはい)は三河大樹寺
立て起き、一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を
建て勧請(かんせい)し、関八州(かんはっしゅう)の
鎮守にせよ」
 
これが徳川家康の遺言でした。

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鳥居を潜ると左手に立派な朝鮮蘇鉄が植えてあります
周りの基礎石は明治になるまで此処に五重塔
建っていた跡です
廃仏毀釈で五重塔は取り壊され、駿府城から朝鮮蘇鉄を
移して植えたそうです。
駿府城も取り壊されて静岡市に払下げとなりました。
時代の移り変わりを感じます。

 

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蘇鉄の他に、徳川家康が駿府城に植えた樹齢三八〇年
の「実割梅」が移植してありました。
樹齢三八〇年にしては幹が細いですね
この梅は駿府七不思議の一つに数えられ、実の筋が深く、
簡単に割れて食べやすく重宝された梅だそうです。
 

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正面の石段には柵がしてあります。
正面の石段から唐門を通って拝殿に行けたのは、
勅使か徳川家だけだったのでしょうね参拝者は、
隣の石段を上ります

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1.富士 2. 3.茄子徳川家康が好んだ
清水・折戸の茄子です

 
徳川家康が駿府に居城を構えた理由として・・・

一、
富士が常に見られる(景勝地)
二、鷹(狩り)によい(民情視察や運動によい)
三、茄子を名産として何処よりも早く食べられる(温暖な気候)
 
の三つをあげたそうです。
 
民情視察といえば新製品を開発した時、先ず静岡と広島
で先行販売して商品の人気を調べるそうです。

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石段の途中に神庫があります。
校倉造りの建物で、ぬれ縁が銅版で覆ってあるところから
司祭で重要な物を入れて置く場所だと思います。

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日枝神社です。
江戸時代までは、薬師堂で薬師如来が祀られていました
廃仏毀釈神社に変わり、祀られていた仏さんは麓の寺に
移されています。
 
日枝神社と徳川家康の関係は深く桃山時代に江戸に移封した際、
江戸城の鎮守として遷宮したそうです。

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日枝神社から見た拝殿とつながった権現造りの本殿です。
最近、修復して彩色の鮮やかな社殿が蘇りました
日光東照宮に比べて質素と言われますが、豪華な造りですね。
 

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見事な飾りを施した拝殿の軒裏です。
彫刻、模様、組物等に桃山時代の技法も取り入れられた
江戸初期の代表的建物として明治45年、国宝に指定された
そうです。

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拝殿の正面です。
奥の本殿には三つの扉があり、中央が徳川家康で左右に
織田信長豊臣秀吉が祀られています
徳川秀忠は、父家康を大明神として久能山に祀ろうと
しましたが、「豊臣秀吉と同列の明神でいいのか
の一言により東照大権現となって祀られたそうです
その豊臣秀吉が脇に祀られているのも不思議ですね。

 
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本殿の左から徳川家康神廟に向かう石段があります。
参道沿いには、大名が参拝の折りに記念に置いた石灯籠
整然と並んでありました
苔むした石灯籠が、権現造りの建物と対照的で静かな
雰囲気でした。
 
 
 
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徳川家康神廟です。
徳川家康は元和2年4月に75年の生涯を閉じましたが
その日の夜には、遺骸(いがい)を久能山に移したそうです。
生身の遺骸を早く人目から隔離して、徳川家康の尊厳を守り
偉大な神として祀ることを考えたそうです。
その為、遺骸の埋葬式は神道でおこなわれ、ごく一部の
関係者以外の立ち入りを禁止したそうです
 
そして、徳川家康の遺言は位牌の件以外は反故とされ
増上寺での葬儀は行われず、日光に小さき堂を建て
勧請(かんせい)するはずが、一年後には遺骸を掘り起こし、
日光に改葬され大規模な東照宮が造営されました

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世の中の流れは常に変化して、本人の思いと周囲の思惑が
違った結果、遺言のとおりに行かなかったのでしょうね。
 
神廟前の灯籠には、宝珠と密教道具の三鈷杵(さんこしょう)
描かれていますね。
徳川家康東照大権現となる流れには、金地院崇伝
南光坊天海の二人の僧が大きく関わりました。
彼らによって、主君家康は神君家康となり関八州の鎮守
となったそうです。
そこで、明治になるまで各地の東照宮は神仏融合の場所
だったのでしょうね。
 
 
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日光東照宮が関八州の鎮守となり、久能山東照宮
西に睨みをきかす存在だったそうです。
生前の徳川家康も、江戸を守るために駿府に居城を建てて
西に睨みを利かせたのでしょうね
 
 
権力者は、自分が手にした天下を安定し継続させようと
思い、自分の死後の事が心配で心配でたまらないもの
なのでしょう!

徳川幕府の治世を守るために、このように家康神格化
する事で、その威を示したり様々な政策がなされたの
でしょう。

そのような様々な政策のおかげで、徳川幕府は
200数十年にも渡って政権を維持しました

しかし、そうした政権の一つである鎖国のほころびが
倒幕への流れを作った事を考えると、時が経ても
大事にしなければならない事と、時代に応じて変化を
させなきゃいけない事があるように思いました

もうひとつは、家康が徳川幕府は開いた頃は
戦乱が長く続いた中で天下太平を望むという志で
幕府を開いたと思います。
そんな、天下太平の為に、安定・継続する治世を
望みつつ様々な手を打ってきたんだと思います。

それが、いつしか天下太平の為ではなく、徳川の
為になっていったのかもしれませんね・・・

いつの時代のいかなる政権も、天下の為(民衆の為
という『志』を失った時、滅びて因みを作っているように
思います。

高い志…できれば、私達もしっかり持って生きたい
ものですね

次は、駿府の町・静岡市街に行ってみます。

 

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久能山東照宮(1)

今回のいい寺は・・・・・・
久能山東照宮です。

 

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久能山東照宮へは日本平からロープウェーで
行きました
標高308mの日本平から標高216mの
久能山東照宮へ5分で結んでいます。
ロープウェーの車体は、お殿様、お姫様の籠を
イメージしているそうです

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ロープウェーから伊豆半島の先端まで見渡せます
駿河湾を往来するタンカーが小さく見えますね。
駿河湾の最深部は水深2500mで、この深い海に
黒潮が流れ込みこの地方は温暖な気候になっています
 
静岡県民は温暖な気候と富士山で温和な性格の方が
多いそうです

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久能山東照宮へ正面から上ると1159段の石段が
待っています

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眼下には、ビニールハウスが並んで見えますね。
久能海岸の狭い土地と斜面を使って「石垣いちご」の
栽培が行われています
温暖な気候とビニールハウスで正月からGW頃まで
「イチゴ狩り」が楽しめます

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門を潜ると目の前に門衛所があります。
江戸時代に門を守るために与力がいた場所で、
ここで登拝者を制限したそうです
久能山東照宮は、他の東照宮とは建てられた
意味合いが違ったのでしょうか。

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急な石段と石垣が、城の本丸に向かって上っているようです。
1500年前に久能寺として開かれた久能山は、
武田信玄によって自然の要塞・久能城と変貌しました
武田氏が滅んだあと駿河は徳川氏の手に入り、
徳川家康駿府(静岡市)に居城を構えました。
その後、遺言で徳川家康の遺体は久能山に葬られ、
二代将軍徳川秀忠によって久能山東照宮が建立され
現在にいたっています。
後に徳川家康の亡骸は日光東照宮へ移りましたが、
今でも廟が祀られています

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石段を上っていくと武田信玄の家来で軍師・山本勘介
掘ったといわれる井戸があります。
山本勘介は最初に今川家に仕えて静岡にいましたが、
武田信玄に才能を見込まれて武田家に仕官して甲府に
移ったそうです。
山本勘介築城術にも長けていていましたから、久能寺
城に改築するときにも腕を揮ったのでしょうね
そして、生活に必要な水を確保する為に、先ず井戸を
掘ったのでしょう

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は大切ですよね
1159段の石段を上ってきた人の喉を潤してくれますね。

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目の前には、楼門へと向かう石段があります。
喉を潤し呼吸を整えて、もうひと踏ん張りですね
 

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楼門の上には、御水尾天皇の御宸筆で「東照大権現
の額が掲げてありました。
徳川家康が東照大権現であることを天皇が宣旨(せんじ)
した証です。

一般参詣者が通る楼門ですが、天皇の勅使が通る役目も
しているそうです。
 
 

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楼門を潜ると、徳川家康の手形の色紙が置いてありました。
ふっくらした感じの手形ですね
ただ徳川家康が38歳の時は、長篠の合戦の後岡崎城に
いた正室と長男が武田方と内通しているとの事で、
織田信長の命により殺害した悲しい年でした
 
理由はともあれ嫡男を切腹させるのですから、
戦国時代は厳しい時代だったのですね
 

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楼門を潜ると御手洗い場があります。
ここで口を濯ぎ、手を洗って心を清めてから拝殿へと
向かいます

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二代将軍徳川秀忠が二年弱の短い期間に創建した
伽藍ですが色彩が鮮やかな権現作りの社となっています。
 
19年後に3代将軍徳川家光によって日光東照宮
創建されるまで、徳川家康久能山東照宮に祀られ、
多くの大名がこの地を訪れたでしょうね
参詣記念の石灯籠が沢山並んでありました
 
それでは、桃山時代の技法も取り入れられた江戸初期の
代表的建物を拝観しながら御参りしてみます
 
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静岡★清水港を見下ろす「日本平」

今回のいい寺は・・・・・・
清水港を見下ろす景勝地・日本平です♪

 

晴れた日には、駿河湾の向こうに富士山から伊豆半島の
先端までが一望できます
 

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清水は駿河湾の奥にある港町です
三保の松原が連なる半島によってできた折戸湾が
海運の拠点となって栄えてきました。
 
江戸時代には、甲斐や信州の幕府領地から富士川水運を
利用して年貢が清水港に運ばれ、集積拠点として賑わった
そうです。
駿府城の築城の折りには、清水港に資材が集まり
ここから巴川を上って運搬しました

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三保の松原は、日本三大松原の一つに数えられています

安倍川から流れ出た砂利が集まって半島を形成し
5万本以上の松が生い茂っているそうです。
この素晴らしい景観から天女が舞い降りた「羽衣伝説」が
うまれました。

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日本平の中腹には、清水エスパルスのホームグランドが
あります
清水は、サッカー王国として知られていますね。
日本サッカーの発展のために毎年「全国少年少女草サッカー
大会」が行われています
地道な活動の中から海外で活躍する選手が生まれるのでしょうね!

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山頂に近づくにつれて、一面にお茶畑が広がってきました。
清水といえばお茶次郎長一家も有名ですね
 
「旅姿三人男」
 
清水港の名物は お茶の香りと男伊達
見たか聞いたかあのタンカ
粋な小政の 粋な小政の 旅姿
 

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頂上付近のお茶畑と清水港です
江戸時代は、幕府の直轄地で年貢の集積地として港が
栄えましたが、明治になって直轄地としての役割を失い
港は寂れてしまいました
その後、海外と貿易のできる開港場に指定されて茶を扱う
外国商社が多くおかれ茶の主要輸出港として力を取り戻し
たそうです

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堅気となった清水次郎長も、清水港を国際貿易港にする
ために自宅に英語教師を雇って青年に英語教育を奨励
したそうです
これが日本で初めての英語塾と言われています

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現在の清水港は、羽衣フーズのシーチキンでマグロ
水揚げ高日本一になり、コンテナ貨物の国際港として
活路を見出しています
最近では、天女も舞い降りた景勝地・清水にクイーン
エリザベス2世号をはじめ多くの観光船が来航するそうです。

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日本平の頂上は、テレビ局の送信所となっています
右端は地上デジタル放送用の送信施設です
 
日本武尊(やまとたけるのみこと)が日本平の麓で野火
攻めに遭った時、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で
草をなぎ払って難を逃れた話から、その場所の地名が
草薙(くさなぎ)となり山の名が日本平となったそうです。
 
天叢雲剣は、名古屋・熱田神宮に祀られています
 
そして、日本平の向こうには久能山が連なっています。
大昔には久能寺があり、武田信玄によって久能城となり、
今は徳川家康を祀る久能山東照宮となっています
 

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久能山東照宮へは、日本平の頂上からロープウェーで
渡ることができます

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日本平のロープウェー駅にあったポスターです
全国各地にある東照宮の中で徳川家康との関係が深い
場所が三つのラインでつながるそうです
その中心に位置する久能山東照宮に行ってみます 
 

鳳来寺山 東照宮はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/158/

松平東照宮と葵紋コチラ↓
 e-tera.net/Entry/167/

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新しい風と独自性の融合《唐津焼》

今回のいい寺は・・・・・
唐津焼です。
 
唐津焼は「一.井戸 二. 三.唐津」と呼ばれ、昔から
茶人の間で
もてはやされてきました

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当初、唐津焼は庶民のやきものとして作られていました。
大分・日田 小鹿田焼(おんたやき)と同じように
半農半陶

陶工が自分達の必要とする食器を作ることが
始まりだったそうです。
 
 

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その唐津焼が急速な発展をしたのは、文禄・慶長の役で
朝鮮半島の戦地から引き揚げた際に
優秀な陶工
連れ帰ったことでした。

そこで、文禄・慶長の役(159298)別名「やきもの戦争
といわれています

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当時、唐津焼の勢いには目を見張るものがありました。
東の瀬戸に対して西の唐津
現在では陶磁器のことを「せともの」と呼びますが、西では
「からつもの」と呼ばれるほど隆盛を極めていたそうです。

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朝鮮の鮮やかな色彩の鞍ですね

戦に携わった諸大名は、朝鮮半島より多くの物品や
職業専門家を連れて帰り李朝文化の高度な技術が
西日本各地に定着しました。
 
その中でも特に陶工が各地で重用され、有田では
白磁鉱床を発見した李参平によって急速に有田焼
台頭しました。
おかげで唐津焼は衰退の一途をたどったそうです

 
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こちらの唐津焼は、色合いや質感が違いますね。
唐津の粘土はそれぞれの箇所で少量しか取れなく、
少し離れるだけで全く違う性質の粘土になるそうです。
そこで、他のやきもの産地と比べ唐津焼の種類は多く、
多岐にわたっています。
絵唐津、朝鮮唐津、班唐津、粉引唐津、三島唐津、黄唐津・・・
唐津藩初代藩主が美濃出身で美濃焼の影響も受けて
いるそうです。
「三.唐津」と呼ばれる器の形の定義は無いのでしょうかね!

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他の産地が茶の湯の道具として作品を生み出すなかで
唐津焼は茶人から注文が少なかったそうです。
朝鮮の技術で茶道具として焼かれた朝鮮唐津より
半農半陶の陶工が作った生活に必要な器(古唐津)を
茶道具として使う「みたて」で珍重されたそうです。

※「みたて」もともと、茶道具じゃないものを、茶道具として
 つかうことです。

後世に長く残って受け継がれる陶芸などの文化は権力者
によって形式や格式で生み出されていったものではなく、
庶民の生活に根ざした中で創造し追及されていったものが
多くの人に好まれる文化になっているように思います

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 「一.井戸 二.楽 三.唐津
優れた茶碗の両極を担うのは、李朝時代の高麗茶碗
(井戸茶碗)千利休によって見出された楽茶碗であることは
揺るぎないものでしょう。

井戸茶碗の姿には魅力的な力強さがあり、楽茶碗は
手にした触感に秀でています
その次に唐津の名が挙がるのは、本来の茶の湯
にとらわれずに自由な発想で楽しむということから
でしょうか!

唐津焼は芸術品として鑑賞するより、使用する中で
土色が変化し(雨漏り)貫入(釉薬に発生するヒビ割れ)
が入ることで味わいが増していくそうです。
素朴な色合いと、時間とともに変化するところが好まれて
いるのでしょうね。

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朝鮮半島から来る新しい技術の波を取り入れて、地元の伝統
と融合するなかで、九州各地の産業が発展したのでしょう

技術の進歩や文化の発展は、如何に外の空気を取り入れて
自分のものにしていくかが大切ですよね!
ただ、外国に限らず外から得たものを真似するだけではなく、
自らの意志で芸術や文化の向上を目指そうという思いのもとで
作り上げていくものがクオリティの高い、後世に受け継がれる
文化や芸術を醸成していくのでしょうね!

虹の松原の防砂林のように必要なを通し、暴風からは
身を守るように海外とも交流できれば良いですね。

次は三大松原の一つ三保の松原に行ってみます

樂茶碗についてはコチラ↓
 《いい寺★浄瑠璃寺門前を散策》
 e-tera.net/Entry/144/

大分・日田の小鹿焼きについてはコチラ↓
 e-tera.net/Entry/161/ 
 

カテゴリー: 九州 佐賀 | 4件のコメント

佐賀・呼子の町

今回のいい寺は・・・
佐賀・呼子を訪れました♪

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唐津城を後にし海岸線を走って呼子の町へと向かいました
肥前・名護のあった場所で、諸大名の陣地も造営され
大阪と並ぶ政治・外交の中心地だったそうです

豊臣秀吉が名護屋城在陣の際、将兵や町民の士気を
鼓舞するために野遊会を催しました
加藤清正福島正則の陣営を東西に分け、軍船のとも綱を
用いて引かせたそうです。
今でも呼子大綱引きとして伝わっています。

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そんな呼子といえばイカが有名です

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海沿いにイカ料理のお店が点在しています

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透き通っていてついさっきまで活きていたことが
わかります

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足をハサミで切っても動いてます

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イカ釣り漁集魚灯でイカを集めます
しかし、集魚灯をともすのには多くの燃料を使い、燃料高
影響を受け、出漁しても採算が取れない状態だそうです

先日一斉休漁がありましたね
こんなに大規模な漁業者のストライキが行われたのは
初めてで、それほど苦しい、国や国民に知って欲しかった
のだと思います。

休漁中に、全国のイカ釣り団体は、高い燃料代の穴埋め
や、経営を続けられるようにする金融対策などを国に
求めました

燃油高が今後も続いたり、さらに値上がりすると廃業に
追い込まれる人が増えるでしょう
比較的安い食材を提供し、食糧自給率の向上にも
役立っているイカ釣り漁の衰退は、国民的な問題でも
ありますね。

集魚灯の数を減らしたり、船の速度を落とすなどの
省エネ努力はするものの、燃油高のスピードには
とても追いつけないそうです

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燃油高の影響は農業などにも及びますね
財源を工面するのも容易ではないでしょうが、国は知恵
絞りイカ釣り漁船のいさり火を消さない支援を打ち出して
もらいたいものですね!

 

カテゴリー: 九州 佐賀 | 4件のコメント

九州・佐賀★唐津城

今回のいい寺は・・・・・
筑城400年を迎えた唐津城です。

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「佐賀の城」と言えば、唐津城ですね
左右に広がる松林を羽に見立てて「舞鶴城」とも言われています。
前面に広がる玄界灘と海岸線に伸びる松林、天守閣から見渡す
景色はとてもキレイです

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唐津の地名は、古くは南北朝時代の古文書に記載されて
いるそうです。
唐は中国、津はを意味しますから、唐津は古来より
大陸と日本を結ぶ場所だったかも知れませんね
 

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九州北部は、対馬海峡を挟んで朝鮮半島と向かい合う
地域ですね
鎌倉時代には玄界灘を渡って、モンゴル帝国と服属政権・
高麗軍による文永・弘安の役(日本遠征)が起こりました。

南北朝時代のころには倭寇(日本の海賊による侵略)
行われました

明は室町幕府に倭寇の討伐を要請し、見返りに貿易に
便宜を与えたそうです。

これが、金閣寺・銀閣寺を代表とする室町文化が栄えた
一因となったそうです。

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唐津城の展示室にあった肥前・名護屋城の軒丸瓦です。
肥前・名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮への侵略戦争を
行った時(文禄・慶長の役)の日本の拠点となった城です
 
肥前・名護屋は、唐津に程近い呼子町鎮西町にあって
諸大名の陣地も造営されて大阪とならぶ政治・外交の
中心地だったそうです。

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名護屋陣中で炊事用に使われたと伝わる大釜です
豊臣家や諸大名が費やした財は相当なものだったでしょう。
 
全国を統一した豊臣秀吉は、領地の拡大を海外に向け
朝鮮半島の制覇を目論みました。
しかし、作戦は二度とも失敗して豊臣秀吉の死によって
戦も、名護屋城も役目を終えました。

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役目を終えた難攻不落の名護屋城は、徳川幕府の命令
によって石垣まで解体されてしまいました
 
その解体資材を用いて7年の歳月をかけて造られたのが
唐津城です。
築城したのが豊臣秀吉側近・寺沢広高でした
寺沢広高は関ヶ原の合戦では東軍について徳川幕府の
外様大名(唐津藩)となり、功労として肥後国天草郡
手にいれました。
 
順風満帆のようでしたが2代目藩主寺沢堅高の時に、
島原の乱が起きて領地・天草郡の富岡城を一揆方に
攻められた責任で天草郡の領地を没収されてしまいました
その遠因で、藩主寺沢堅高は江戸藩邸で自害してしまい、
寺沢家は断絶となりました。

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その後、徳川幕府の譜代大名が次々に藩主となり
最後は小笠原氏の時に明治を迎えました。
唐津城廃藩置県で廃城となって解体され、跡地は
「舞鶴公園」となり昭和41年に現在の模擬天守閣
つくられました
 

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天守閣からの眺めです
唐津市街を流れる松浦川の川幅はとても広いです
初代藩主・寺沢広高は、川の流れを変更して城の手前で
玄界灘に注ぐようにして自然を利用した要塞としました。
 
九州諸大名の助力を得て築城したので、堀には筑前堀、
薩摩堀などの協力した藩の名が残っています。

 

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築城の際、築堤(盛土)に人柱を埋めて完成を願いますが、
代わりに千体の仏像を作って供養をしたそうです
また、唐津城には天守閣が無かったそうです。
寺沢広高は、外様大名だったので徳川幕府に配慮した
のでしょうか!
 
 
 
 
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そして、今に残る寺沢広高の功績は、海岸線に続く防風林
虹の松原」です。
 
寺沢広高は、「松原の中に、自分が愛してやまない松が7本ある」
といって住民が心理的に松の伐採を出来ないようにしたそうです
松原は藩政時代から厳しく管理され、今では保安林となっています。
 
現在の唐津市の基礎を築いて400年、長い年月のなかで守られた
風景をこれからも大切に後世に伝えてもらいたいですね

カテゴリー: 九州 佐賀 | 2件のコメント

世界文化遺産 吉野ヶ里遺跡

今回のいい寺は・・・・・
平安時代より遥か昔、弥生時代の集落が出現した
吉野ヶ里遺跡です。
 
下鴨神社は平安時代以前の姿を今に伝えて、
世界文化遺産に登録されました。
吉野ヶ里遺跡は昭和61年からの発掘調査で発見された
新しくて古い文化遺産ですね

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吉野ヶ里遺跡は、吉野ヶ里町と神崎市にまたがる丘陵地に
築かれました。
50ヘクタールの広さの場所に再現された集落は国営
吉野ケ里歴史公園となっています
公園の向こうに現在の町が見えますが、田畑が広がって
吉野ヶ里遺跡の集落がずっと続いているようにも見えました

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吉野ヶ里遺跡の中心となる主祭殿です。
一番大きな建物で吉野ヶ里の指導者たちが重要な話し合いを
したり最高司祭者による儀式が執り行われたそうです
 
発掘調査開始から三年後の平成元年に大規模な環濠集落跡が
発見されて当初は「邪馬台国か?」と騒がれたそうです。
吉野ヶ里遺跡は次々に弥生時代の建物が復元されました。
遺跡の調査で、これだけの建物が復元で来るのには
驚かされますね

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集落の環濠には丸太の柵が築かれていました。

 
 
 
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その他に物見櫓が数か所あることから防御的な性格が強く
吉野ヶ里遺跡は日本の城郭の始まりといわれています
当初は邪馬台国と騒がれましたが、九州北部にあった
複数の「クニ」の一つにすぎないそうです。
周囲にも同じような「クニ」があって、お互いに敵対的な関係
だったのでしょうね
 
吉野ヶ里遺跡は、日本百名城の一つに選定されています
 
 
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高床式の貯蔵庫です。
「ネズミ返し」も付いていました。
収穫した食糧を守ることは、死活問題ですから敵から、
自然災害から、生きものから守るために人々は必死だった
のでしょうね!

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茅葺の屋根です。
平成の時代に蘇った建物ですが、弥生時代も今も造り方は
変わらないのでしょうか。

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弥生時代というと、この竪穴式住居ですね
各地の遺跡でよく見る形です。
住居の真ん中で火を焚き、共同生活を営んでいました。
一つの空間のなかで、皆で生活をすれば会話も弾む
そんな家族の団欒を想像してしまいました
 

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中心となる建物です。
南方の島々にも在りそうな建物ですね
 
吉野ヶ里遺跡の歴史は、弥生時代前期、中期、後期に
分かれます。
前期は小さな集落で、後に防御のために使われた環濠
ゴミ捨て場だったそうです
 

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時代が経つにつれて集落は大きくなり、中期には死者に
対する畏怖の念から墳丘墓や集団で埋葬する大規模な
墓地が造られ副葬品が貴重な資料となっています。
 
中期の後半には、他床式の貯蔵庫が造られ後期(1世紀
~3世紀)には、最大級の環濠集落となったそうです。
集落の中心の建物群は、後期に築かれた建物です。
 

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主祭殿の内部です。
集落の人々は団結して物事に当ったのでしょう
 
 
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主祭殿墳丘墓の方に向いて建てられています。
先祖や自然に畏敬の念を持つことが集落を守るうえで
一番大切なことだったと思います。
 
今に伝わる各地の祭りは、自然の恵みを頂くことへの願と
収穫への感謝の意味がふくまれていますね
お盆や施餓鬼法要も地場産業が一段落ついた時に
先祖に感謝する意味で行うそうで、地方によって新盆、
旧盆、地蔵盆など時期が違うそうです。
 

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自然に従い、自然の恵みを頂いていく
時として自然は、人々に牙を向けることもあります。
そんな自然に人々は、畏怖と畏敬の念を持って共同生活を
営んでいたのでしょう。
 
時代は変わっても、とても大切なことですね
「もののけ姫」のシシ神が何処かから見つめているような
そんな自然に囲まれた場所に吉野ヶ里遺跡が在りました。
 
 
つぎは佐賀にあるもう一つの名城・唐津城に行ってみます


 

※「もののけ姫」シシ神についてはコチラ↓
 いい寺「大分の自然を散策する
 e-tera.net/Entry/148/ 

 
カテゴリー: 九州 佐賀 | 2件のコメント

下鴨神社と双葉葵

今回のいい寺は・・・
下鴨神社と双葉葵についてです。

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徳川家康は、松平郷・松平親を始祖として松平家から
徳川》と姓を変えて、征夷大将軍となりましたが、
家紋は松平親氏の養父・在原重信より伝わる《》を
使用しました。

清和源氏の流れをくむ新田氏の紋は銀杏だそうです。
源氏の末裔を名乗っても《葵の紋》を通したところに
徳川家康の葵に対する思いが感じれられますね!

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岡崎城で使用した昔の瓦です。
この紋は「立ち葵」といい、本多氏が使用した紋です。

徳川家康は、天下を取ると家来に葵紋の使用を禁じた
そうです
家来の本多氏は、元賀茂神社の神官であったと
伝えられ「立ち葵紋」を使用していました。
徳川家康は、本多忠勝に葵紋を用いないように
求めましたが、「本多家は京都・賀茂神社に仕える
賀茂族の流れをくみ、賀茂の家紋である葵紋を
使用することは当然
」だと言って断ったそうです

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徳川家康岡崎城を居城とした時期は短く、地の利の
良い浜松城を居城として家来が岡崎城を守りました
江戸時代になると、岡崎は譜代大名の領地となり、
最後は本多氏が明治になるまでの120年間を
治めたそうです。
本多氏の使用した文箱です。
本多氏は2つの紋を使用したみたいですね

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賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)通称・下鴨神社
(しもがもじんじゃ)です。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに古代の賀茂氏の
氏神を祀る神社で両社を合わせて《賀茂神社》と
総称されています

境内の自然林は「糺(ただす)の森」と呼ばれ、
東京ドームの3倍の広さだそうです
平安京以前の原生林を残す貴重な森林として
国の史跡に指定されています

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参道には、国家「君が代」で歌われた《さざれ石》が
ありました。
さざれ石は「小さな石」という意味で、年とともに
成長してやがて岩となると信じられ、神霊が宿る
石だそうです

北京オリンピックでも「君が代」が流れましたね。
表彰台に立つ日本人選手の活躍ぶりに感動させられました。
今後も若い人たちが世界の舞台で活躍してくれる
ことを願いたいですね!!

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本殿前のボンボリには双葉葵が描かれていました。
柔らかな灯りに映し出された上品な双葉葵ですね

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拝殿の奥が本殿です。
両側に並ぶボンボリが幻想的で、下鴨神社の歴史と
威厳を感じさせます。

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拝殿の唐破風の飾りにも双葉葵がありました。
双葉葵は葵祭が行われる時期に咲く植物だそうです
葵祭は京都三大祭りのひとつで、昔は祭りといえば葵祭を
さしたそうです。
毎年5月15日に総勢五百数十名の王朝絵巻さながらの
衣装で下鴨・上賀茂神社へ行列が進みます
その時に祭りにかかわるすべての人々が、清浄のしるし
として葵と桂を身につけることから葵祭と呼ばれるように
なりました

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本殿の鬼瓦には、三つ葉葵が飾られていました。
徳川家の三つ葉葵紋も、元は賀茂神社の紋かもしれませんね。

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本殿前には「鴨の社の干支詣で」といって各干支に関係した
神様が祀られていました
自身の干支を司る社に参詣して、絵馬に願いを書き奉納
します
また、下鴨神社は縁結びの神としても有名で、縁結びに
関係したお守りが色々ありました

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本殿の東には、井上社 別名・御手洗(みたらし)社
あります。
下鴨神社の糺(ただす)の森から湧く水は、ここから
霊水として流れ、御手洗川、奈良の小川となって
鴨川へと注いでいます

土用の丑の日には、社の前の御手洗池で「足つけ神事」が
行われ、夏の風物詩となっています

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足つけ神事」は平安時代から行われ。貴族たちも恒例に
していたお祭りです。
膝下ぐらいまでの水位の御手洗池(みたらしいけ)に足を
ひたし、水の中をそろそろ歩いて井上社にろうそくを
献じます
そうしてお参りをすると罪、けがれを祓い、疫病にかからず
元気に夏を過ごせるそうです

今は水位が低いのですが、土用の頃には御手洗池に
清水が湧き出るそうです
下鴨神社七不思議のひとつだそうです。
池底から自然に吹き上がる水泡をかたどったのが
みたらし団子」の始まりと伝えられています

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提灯にも双葉葵が描かれていました
双葉葵のデザインも様々ですね!

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下鴨神社は平安時代以前から存在する京都で最も
古い神社の一つとして、平成6年に世界文化遺産
登録されました
建物と境内の森、どちらも守られていきますように!

次は、一つの発見から大きな遺跡群となった
佐賀の吉野ヶ里遺跡に行ってみます♪

上賀茂神社(賀茂別雷神社)の観月祭はコチラ↓
  e-tera.net/Entry/355/

※徳川家康生誕の地・岡崎はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/156/

カテゴリー: 京都 《歴史》 | 4件のコメント

松平東照宮と葵の紋

今回のいい寺は・・・
松平東照宮と葵の紋です。

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松平家の始祖松平親氏の銅像です。
この勇ましい姿からは、時宗の僧侶だったと想像
できませんね
松平親氏は松平郷を訪れて領主・在原重信の娘と
結ばれました
婿となって家督を継いでからは、豪族としての力を
発揮したそうです

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徳川家・葵の紋の柄となった、双葉葵です
双葉葵は賀茂葵とも呼ばれ、賀茂神社の神事に使われる
神聖な植物です

京都・賀茂神社の祭礼では、賀茂葵を冠や牛者に付けて
行列することから《葵祭》と呼ばれるそうです

松平親氏の養父・在原重信の先祖は六歌仙、三十六歌仙
ひとり在原業平とも、京都・賀茂神社系の賀茂氏の末裔で
本名は松平太郎左衛門重信とも言われています。

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長久手の合戦の折に徳川家康が着た帷子(かたびら)です。
徳川家康は、三つ葉葵の紋の他に賀茂葵の紋も使用して
いました。
当時は、賀茂氏から繋がる松平郷出身の三河武士という
意識が強かったのでしょうか。
神聖な賀茂葵を身に付けて、戦での縁起をかついだかも
しれませんね

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南禅寺・金地院にある東照宮です。
拝殿には、三十六歌仙が飾られていました。

金地院・崇伝和尚は徳川家康知恵袋でした。
将軍職に就いた徳川家としては、清和源氏の流れをくむ
松平親氏を始祖として、それ以前を在原姓とした方が、
歴史をつくる上で都合が良かったのでしょう。

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群馬県太田市の世良田東照宮です。
ここも徳川氏発祥の地といわれています。
松平親氏は世良田氏出身の時宗の僧侶だそうです。
清和源氏の流れをくむ世良田氏の領地だった場所に
東照宮を造ることによって、歴史をつくる作業は完結
したのでしょうね

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松平東照宮です。
正式名称は、八幡神社・松平東照宮といいます。
当初は、松平親氏が氏神として若宮八幡を
勧請した八幡神社がありました。
江戸時代になって静岡・久能山東照宮から
徳川家康の分祀を行いました

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現在の社殿は、関ヶ原の合戦後に建てられた屋敷跡
にあります。
周囲を堀と石垣で囲まれていて、往時を偲ぶことが
できます
松平郷は山に囲まれていて、里山全体が自然の
要塞だったのでしょう

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真っ赤な門扉に金色の家紋が目立つ建物が徳川家康
生誕の折に用いられたという「産湯の井戸」です。
この地を開拓して領主となった在原信盛が掘った井戸
といわれ、松平家は代々この井戸の水を産湯に用いて
いました

徳川家康岡崎城で生まれたときにも、松平郷・松平家
の当主・親長がこの井戸の水を竹筒に詰めて、早馬で
運び、産湯に用いたそうです。

現在も不老長寿、安産に霊験あらたかな御神水として
参拝者に授与されているそうです

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鳥居を潜った横に、変わった御手洗(みたらし)場
ありました。
石で出来たタライのような水盤です。
支えているのは邪鬼ではなく、4人の関取です。
そして、台座は土俵となっていますね。

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平成5年には、松平親氏の六百年祭が行われました。
それに伴い松平郷は、松平親氏を中心とした史跡として
整備されています。

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高月院に上る遊歩道の途中に石碑がありました。
独特な書体の碑文ですね。
松平東照宮の宮司さん染筆の松平親氏公願文です。
松平郷の平穏無事を願う松平親氏の気持ちが伝わります。

松平親氏は、領地を拡大するといった野望よりも、
領内の安泰を願っていたようです
そのような野望を持っていなかった親氏の子孫が
後に日本全国を治めることになるわけですから
不思議ですね!

しかし、よく考えてみると、むしろ打ち続く戦乱の世に
終止符を打って安泰を願うという心が、家康に引き
継がれていたからこそ、太平の世が二百数十年と
続く礎が築かれたのかもしれませんね

思想や哲学というものは、親から子へと引き継がれて
いくものなのでしょう。
私たちも、子孫によき思想や哲学を残していける
ように生きたいものですね

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遊歩道には、氷池跡もありました。
明治から戦前まで真冬の間に氷を造って、山陰の
氷室に保管し、夏に岡崎方面へ出荷したそうです。

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猛暑のなかで氷の話を聞くと、カキ氷が食べたくなりますね。
遊歩道には、天下茶屋という休憩所があります

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店内にあった額です。
『鳴くまで待とうホトトギス』よりも滑稽な歌ですね。
歴史の流れが自然に徳川家康を天下人にさせたのでしょうか。
始祖・松平親氏平穏無事を願う気持ちが徳川家康に
伝わり、太平を願う戦国武将の気持ちを掌握して天下を
取ったかもしれませんね!

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遊歩道は、色々な種類の草花が植えられて
多くの生き物が生息しています。
松平郷を訪ねてみて、自然と歴史に触れることが
でき、何か得をしたような気がしました

次は、葵の御紋のもととなった双葉葵について
下賀茂神社を訪ねてみます
 
※南禅寺 金地院についてはコチラ↓
  いい寺「何禅寺 金地院」①
  e-tera.net/Entry/51/

  いい寺「南禅寺 金地院」②
  e-tera.net/Entry/52/
 

カテゴリー: 名古屋 《文化》 | 2件のコメント

いい寺★松平郷・高月院

今回のいい寺は・・・
松平郷・高月院です♪

世界のトヨタ自動車の本拠地・豊田市
山里にある松平郷に行ってきました

松平郷は徳川家発祥の地で、松平東照宮
菩提寺・高月院があります。
徳川家康も元々は《松平家康》と名乗っていました

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途中には、名古屋グランパスの準ホーム・
トヨタスタジアムがあります
斬新なデザインの建物で、整えられた芝生と
観客席の赤が試合の興奮を想像させてくれますね!
豊田市はトヨタ自動車の力で新しい姿に変化しています

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松平郷に近づくにつれて、のどかな風景となっていきます。
今年は猛暑だったおかげで、米が沢山実り稲穂がしっかり
垂れていました
稲刈りの時期がもうすぐのようですね。

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こんな店も見つけました
「松平まんじゅう」
ジャンボまんじゅうも売ってるそうです!

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松平郷の高月院は、緑に囲まれた自然豊かな場所にあります。
春には桜が咲き、初夏のころには菖蒲が、梅雨のころには
紫陽花、秋には鮮やかな紅葉となり、雪化粧の松も風情が
あって一年を通して楽しめます

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高月院は、浄土宗の寺院で徳川家康の先祖・松平氏
の菩提所です。
足助重政が在原重信(松平氏の始祖・松平親氏の養父)
の庇護を受けて創建し、当初は寂静院と称しました。

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その後、松平親氏が本尊阿弥陀如来をはじめ諸堂を
寄進して、現在の本松山・高月院と名を改めて松平氏
の菩提所となりました。

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松平氏墓所には松平親氏、二代泰親、親忠夫人の墓があります。

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松平の姓との関係でしょうか、境内のいたるところに
記念の植樹がされています。
徳川家康お手植えの松の碑もありましたが、肝心の
松は見当たりませんでした

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松平氏の始祖・松平親氏です。
松平親氏は、清和源氏の流れをくむ新田氏の支族で、
世良田氏(得川氏)の一族出身で、一族の没落後、時宗の
僧侶
となって徳阿弥(とくあみ)と称して諸国を行脚して
松平郷にたどり着き、在原重信に才能を見込まれて
末娘の婿として家督を継がされました。

説明が長くなってしまいましたが、源氏しか就くことが出来ない
征夷大将軍徳川家康が就任するために整理された経歴
ともいわれています。

司馬遼太郎は「「街道を行く」のなかで、この事を厳しく指摘
しています
ただ、歴史は後から作られるともいわれますよね。
徳川家康が松平から徳川の姓に変わった理由には、得川氏
の存在があったのでしょう。

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現在の本堂や山門は三代将軍・徳川家光によって
建てられたものです。
参道も石段もキレイに整えられていました
本堂の方から賑やかな声が聞こえてきました

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高月院でも子供の修養会が行われていました。
小さな木魚を叩いて皆で念仏を唱えるのでしょうね
訪れた時には、数珠を作っていました。
お坊さんに教わりながら、子供たちも真剣なまなざしです。

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三つ葉葵の紋高月院の歴史を物語っているようです。
子どもたちは自分で作った数珠を手にして
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるの
でしょう。

数珠に限らず、自分で作ったり、体験したりすると
ぐっと身近なものに感じられますよね!

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お寺に泊ってみんなで過ごすことも思い出になりますね。
本堂に泊まるのはちょっとだけ怖いような気もしますが、
みんなで寝る楽しみもあります。
あんまり楽しくて夜更かしをすると、お寺の朝は早いので
翌朝が大変ですね

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司馬遼太郎が「街道を行く」で訪れたとき、昔の松平郷との
違いに落胆したそうです
当時の松平郷がどのような村だったかは分かりませんが、
山間の平地には田んぼが広がり、私には自然と調和した
山里に見えました

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高月院からの眺めです
松平郷を訪れるとまず松平東照宮があります。
そこから、整備された道を上っていくと高月院に着きます。
日傘をさしたご婦人が、のんびりと坂を下って行きました。

参道左手の塀を室町塀というそうです。
塀の向こうには、小川に沿って遊歩道も整備されており
歴史を感じながらゆっくりと史跡を巡る事ができます

次は松平東照宮葵の紋についてです♪

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