モリコロパークで自然を考える

今回のいい寺は・・・
モリコロパークで自然を考える です♪

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2005年に開催された愛・地球博のメインキャラクター
森の妖精《モリゾーとキッコロ》です
環境を考える万博として「自然の叡智」をテーマに
していました
会場内には、外国パビリオン、日本企業館と合わせて
自然を体験したり科学したりするゾーンも併設して
ありました。

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会場内を回廊でつなぐグローバルループもありました。
この回廊を歩いて会場全体の雰囲気を味わうことが
出来ました

自然、環境をテーマにした施設を回廊で巡るのは
京都・浄瑠璃寺池泉回遊式庭園と共通する
ところがありますね

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愛・地球博記念公園です
愛・地球博のテーマのなかには、終了後の会場の
リユースもありました
昨今、資源のリサイクル・リユースは日常的に行われていますが、
計画当初はまだ消費優先の社会でした。
そして、環境をテーマにした万博の跡地ですから、今も
自然との共生について取り組んでいます。
会期は終了しても、万博のテーマは継続して行われて
いるのですね。

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跡地を再開発するのではなく、いかにして自然と共存していくか、
そして子供たちが自然を学び自然と触れ合っていくか。
長い時間をかけて実行していく難しいテーマですね!

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自然との共生をテーマにしても会場を作るにはどうしても
一度その場所の環境を破壊しないとできません。
そして、多くの樹木や草花を植えて、テーマに即した
新しい会場を作り上げます。
私達人間は、環境を壊すことも、造ることも短時間
行えますね

ただ、一瞬で作り上げたものは本物の自然ではありませんから、
ほころびがすぐに出てきます。

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根付かなかった樹木は弱って枯れていきます

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樹木が生い茂り、が落ちることによって自然に土地が保たれ
ますが、開発した土地は荒涼として雑草に覆われてしまいます。

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いたるところに雑草が我がもの顔で生えています
これが宴の後の現実です。
しかし、これで終わりというわけではありません

ここから《自然の回復力》が発揮されます
人間は短時間に壊し、造り上げますが、自然は
時間をかけて順番にじっくりと回復していきます。

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開発した跡地にはすぐに草が生えますが、樹木も
徐々に生えてきます
そして、時間をかけて根を伸ばし、土地に根付いて
いきます。

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切り株には虫が入って、徐々に土に戻していきます。
シロアリは害虫として嫌われていますが、何でも食べる
森のお掃除屋さんで、自然界では重宝されています。

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木材のチップで造った道も朽ちてあぜが出来ていますが
ここも徐々に土に戻っていきますね

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荒涼とした土地でも雨が降ればコケも生えます
そして、開発したところも徐々に元の大地へと回復して
いきます。
これが本物の《自然の叡智》なのでしょう

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そして、この様な自然と人間が共存できる環境に戻ります。
このありふれた景色に戻るには時間がかかるのですね!
この道の向こうに、昭和30年代の当時にはどこにでも
あった風景が・・・

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サツキとメイの家》がありました
映画「となりのトトロ」の主人公が暮らす家を再現した
ものです
映画そっくりなサツキとメイの家に思わず興奮して
しまいました
子供の頃見た映画ですが、こどもにしか見えないという
かわいいトトロメイの冒険は今でも鮮明に思い出すことが
できます

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見ていると、おじいちゃんやおばあちゃんの家を思い出したり
懐かしい気持ちになりますね。
みなさん、映画を思い出しながらトトロの世界に浸って
いました

次はサツキとメイの家を訪問してみます

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いい寺★浄瑠璃寺門前を散策

今回のいい寺は・・・
浄瑠璃寺門前を散策です

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浄瑠璃寺の前には新鮮な野菜の直売所がありました

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たまたま通りがかったそば屋さん《吉祥庵
浄瑠璃寺秘仏・吉祥天から名称が付いたのでしょうか。
雰囲気がとても良さそうなので入ってみることにしました

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せいろ蕎麦》を頂きました。
浄瑠璃寺の湧き水と、北海道や福島のそば粉を使用
した細麺はこしがありとても美味しいです

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看板があまりにも味わい深かったので《くずきり》も
頂くことに

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もちもちとしたくずきりはやはり《吉野葛》を使用されて
いるそうです。
なめらかな口当たりとつるんとした食感がたまりません!
蜜も甘くてとろとろでした

ご主人は
「そばも葛も素材の良し悪しで決まる。
 あとは手を加えなくても美味しいものが出来るよ。」
とおっしゃっていましたが、材料はお金を出せば手に
入りますよね。

しかし大事なのは、それを調理する料理人の技量であり
であり、であると思います

人を喜ばそうと懸命になって調理する・・・
心を込めて作れば人を感動させることができる
ものですよね!

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テーブルの脚がユニークですね
廃校になった学校の工作室から譲り受けたもの
だそうです。

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温かくどこか懐かしい雰囲気のたたずまい

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築120年以上という奈良の古民家を譲り受けた建物です
移築先を探すのに困ったそうですが、浄瑠璃寺の和尚さんの
ご好意により門前の土地を借りているそうです。

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茶室の床の間にはかわいい小手毬が活けてありました
土と一緒に練った藁が模様となり、すすけた感じと
合わさって味わいのある壁になっています。
そして壁が花の白さを引き立たせていますね

今朝摘んだ瑞々しい花が、あちらこちらに活けて
ありました。

お客様を『』で迎える、こうしたちょっとした気遣いが
日本古来の《おもてなしの心》なのでしょうね。
私達も商売をしているわけでなくても、このような
おもてなしの心を持って豊かな心で生きていきたい
ですよね

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にじり口から見える緑が爽やかですね

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お店のご主人が作られた花入れに飾られた一輪の花が
なんともかわいらしいですね
素朴な味わいの器には野花がよく似合いますね!

ここにも、ご主人の温かいおもてなしの心を感じられます。
先日新聞で、あるファッションデザイナーが日本人が
昔から大事にしてきている《おもてなしの心》について
語っていました。

《おもてなし》とは「わざわざ・いちいち」といった事だそうです。
それを、大変と思わず、自然に行うことができたら
良いですね

このように生活に根ざした「美しい日本の文化」は
しっかりと受け継いでいきたいですね。

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お店の中には骨董の目利きとして知られている
白州正子さんとのお写真が飾られていました

この建物を譲り受けても移転費用が無かったそうです。
そこで、友人と建てているときに職人と間違えて声を
かけた人との縁で焼き物の世界に入っていったのだ
そうです
その方の所有していた信楽焼の水差し《鬼桶》に
魅せられて陶芸の道に入られたそうです。

そこから白州正子さんに認められて、今はご主人の
作った骨壷の中で彼女は永遠の眠りについて
いるそうです

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団扇の飾りが涼しげですね♪

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土間まで箒の目がついてしっかりと掃いてありました。

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飲み易そうな口元の黒樂茶碗ですね
手びねりというシンプルな工程で作られています。
人の手にすっとなじむようなデザインですね!
シンプルだから作者の心が茶碗に出やすいのでしょうね。

黒い器というのは日本にしかないそうです

薄暗い茶室の中で、黒い茶碗を手にしたら、茶碗の
存在は消え、お茶そのものを手で頂いているような
錯覚を起させますね
茶のみを際立たせ、その他一切のものを消し去ろうと
するのでしょう。

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黒樂茶碗の箱には浄瑠璃寺の和尚さんが付けた銘「遠霞」と
書いてありました。
「遠霞」は春の季語です。
春の山々が霞がかって見えるという意味です。
この黒樂茶碗でお茶を頂きながら、その情景を思い浮かべて
ください、と銘が付けられたのでしょう

私は、ふと春に訪れた臼杵からみえた島を思い出しました。

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ご主人の守田蔵さんです。
気さくな方で、器のこと、花のことなど色々と教えて
頂きました。
「茶道具は選ぶときりがないので《道楽》でやっている」
とおっしゃっていました。
樂茶碗の黒が一番好きだそうです。
数ある茶道具の中でも《茶のための道具黒樂茶碗
魅了されてらっしゃるのではないでしょうか。

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吉祥庵から見える
浄瑠璃寺の三重塔も綺麗で眺めが良いでしょう。」
と教えてくださいました。
境内を散策したときも、自然が多い境内だなと感じ
ましたが、離れた場所から眺めてみてもまさに自然
囲まれたお寺だという事がよく分かりますね

境内はみなさんのものであり、御堂に上る時にだけ
 拝観料を頂く

浄瑠璃寺はそうゆうお寺ですよ、とやさしい目で話して
くださいました。

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若い和尚さんがお花を活けていた話をすると、最近では
フラワーアレンジメントが流行り、華やかに活躍する
華道家がみえますが、
本来お花は本尊さんにお供えするものですよ。
とも教わりました。

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自然に囲まれた場所にある奈良のお寺散策は、とても
気持ちがいいものでした
浄瑠璃寺は境内を通して自然の見方や恵み
教えてくれました。

次は、自然と共生をテーマにした2005年愛・地球博
の跡地 モリコロパーク、サツキとメイの家に行ってみます

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いい寺★浄瑠璃寺《御堂》

今回のいい寺は・・・
浄瑠璃寺の御堂です。

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浄瑠璃寺の案内板に『浄瑠璃寺九体寺)』とありました。
「浄瑠璃(薬師の浄土)だけでなく九体阿弥陀さんの寺
 でもあるのですよ。」
境内は西方浄土(阿弥陀の浄土)にもなっていることを
和尚さんが私達に教えているのでしょう

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九体阿弥陀堂です。
ここには平安時代から九体阿弥陀が祀られています。
建物の造りは長方形で屋根は低く、御堂内に九体の
阿弥陀如来を祀るには、小さな建物ですね

九体の阿弥陀如来の前には、それぞれの唐戸があって
戸は開けられてありました。

御堂の真ん中で屋根の一部が前方に突き出し、拝礼の
場所となっているところを《向拝》(ごはい)といいます。
堂内ではなく、ここが拝礼する正式な場所なのでしょう

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格子戸の隙間から灯明が見えました
なにげないローソクの灯りですが、灯明と花と飾り香を
焚くことによって、阿弥陀如来の存在を感じることが出来ますね。

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御堂の傍らで、和尚さんが阿弥陀如来に供える花を活けて
いました
境内の掃除を終えて、野に咲く草花を供えるのでしょう。
日々同じことの繰り返しですが、変わらずに行うことによって
平安時代から今日まで境内が守られてきたのでしょう

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そして、誰もがお参り出来るようにと山門には拝観料を払う
場所がありませんでした
外からでも阿弥陀さんを拝むことは出来ますが、仏さんの
姿
を見たいときは供養として拝観料を払ってお堂の中に
入ります
お寺は訪れる人のために開放されているのですね。

このような貴重な文化遺産のある寺社仏閣は観光地化
されていて山門の入口で拝観料を払うところが多いのが
常識になっています。
価値のある文化遺産を管理維持しながら公開するわけです
から拝観料というのはもっともな事かもしれません。

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しかし、仏教寺院の建立時においては寺院というのは
信仰を求める人などが訪れる法域だったのではないか
と思います。
それを考えると、この浄瑠璃寺のような形で境内を公開
している寺院は仏教寺院本来の姿に近いのかもしれま
せんね。

とても素晴らしいことだと思いました
いずれにしても、そういった先代住職からの考えを大事に
しているこのお寺。
私達もそんな気持ちを察して訪問し、境内を散策しないと
いけませんね!!

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御堂の中には九体阿弥陀如来が整然と並んでみえます。
中央のひと回り大きい中尊の阿弥陀如来は手を開いて
来迎印を結んでいます。
阿弥陀如来の前の台は供物を置く場所となっています。
堂内は、仏殿や本堂というほど大きくなく、荘厳な飾りも
なく、ただ九体阿弥陀如来を祀るだけの場所のようですね。

仏殿ではなく大きな厨子と思ってください。」との説明に
納得をしました。

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この御堂の中には九体阿弥陀如来のほかに、《吉祥天立像
が秘仏として祀られています。
平安朝風の衣装で、仏の荘厳さと現実の女性を思わせる
姿をしています。
公開の日には多くの拝観者が訪れます

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対岸から見た九体阿弥陀堂です
阿弥陀さんは西方浄土(彼岸)にみえます。
私たちはこの世(此岸)にいますから、対岸から手を合わせる
のが一番自然ですね

特別な日には九体阿弥陀如来の前に蝋燭を置き、夜間に扉を
開けて御堂を灯します
対岸からは、池泉の水面に来迎の阿弥陀が浮かんで見える
そうです。
その幻想的な世界を是非、見てみたいですね

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浄瑠璃寺には伽藍の荘厳さや華やかさはありませんが、
自然が織りなす四季の変化を楽しめます。
そして、景色を眺めていると、私たちが及ばない自然の力
感じることもありますね
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春と秋の彼岸の中日には、東方薬師如来を祀る三重塔
真上から太陽が昇り大日如来の存在を表す阿字池の上
を通り、九体阿弥陀如来の中尊の真上に太陽が沈みます

太陽がこの真ん中を通るお彼岸の頃は、「暑さ寒さも彼岸まで」
といわれ、季節の変わり目で暑くもなく寒くもない過ごしやすい
時期ですね

また昼と夜の時間がちょうど同じです。
そこで「両岸のどちらにも偏らないように
「同じであるように向かい合っていきましょう」
と私たちに伝えているようですね。

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太陽の恵みによって地球の自然は成り立っていますね

私たちも、知らず知らずのうちに自然からたくさんの生きる
恩恵を受けています。
それだけでなく、自然から色々な事を学び智恵を頂いて
いますね

日常の生活のなかで、ゆっくり歩いてみて自然に目を
向けるとその事に気がつくことがあります
そんなゆとりが欲しいですね。
もしかしたら、お寺を散策するゆとりが生活のゆとりかも
しれませんね

私がお寺や和の良いところを探して気づいた事や
学んだ智恵は、皆さんにもここでお伝えできたら
いいなと思っています♪

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いい寺★浄瑠璃寺を散策して

今回のいい寺は・・・
浄瑠璃寺を散策します♪

当尾の里にある浄瑠璃寺は、のどかな田舎の寺
という感じがします

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参道の入口にあるこのお店は八百屋さんでしょうか!
観光地のお店のような賑やかさはなく、山あいの
直売所のような雰囲気です

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吉野葛に葛きり、柿羊羹、わらび餅粉・・・
奈良の名産がたくさん売られていました

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参道の食事処の土塀です。
昔は、土塀を造るのに2年ほどかかったそうです
藁と土を混ぜて発酵させて粘りが出てから使うので
ハンマーで叩かないと崩れない程丈夫だそうです
時間をかけて土を作ることから始める・・・
今ではそのように時間をかけて作ることが少なくなって
いるようです。

丹精を込めて作ったものは崩れにくい・・・
何でも簡単に出来るものの便利さに私達は恩恵を受けて
いますが、こうして手間隙をかけて作ったものが崩れにくい
ものである事を、今回土塀について調べる中であらためて
知ることができました。
土塀が2年もかけて作られていて、それが非常に崩れにくい
ものであるという事にとても驚きました

これは、単にものだけではなく、お客様への思いを、紡ぐように
手間隙かけてサービスを提供しているお店などにも共通して
言える事で、人の心に残る、人の心を打つものは、そうした
手間暇》をかける中にあるのでしょうね!

なんでも、「簡単に出来る事が良い」という現代に生きている
私達に、ハっと気付かせてくれた《古きよき物》でした。

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参道を歩くと山門が見えてきました
参道も山門も観光寺院とは少し違う雰囲気です。
緑の眩しい、のどかな山寺
浄瑠璃寺の境内に入っていきます

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山門の両側にはお地蔵様がいました。
赤いおべべには経が書かれています。
を込めて作ったのでしょうね
竹の花筒に野花を活けてありました

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境内に入ってまず目に飛び込んでくるのがです。
浄瑠璃寺は境内の中心に伽藍が配置されていないようです
この境内の中心となっています。
入口から境内へ入ったとき、何か他のお寺と違うような
気がしました。

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池の周りを時計回りに歩んでまずお薬師さんにお参りを
します
対岸の阿弥陀堂を眺めながら三重塔に向かいました

対岸から眺める風景は池と阿弥陀堂と樹木、ただそれだけですが、
昔から変わらずに皆さんが見てきた風景でしょう。

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阿弥陀堂とは対照的に鮮やかな朱色の三重塔です。
東方瑠璃光薬師如来が祀られています。
この朱色が東から昇る太陽の輝きを表しているのでしょうか。
薬師如来の放つ瑠璃光は、如来が太陽に照らされて光る
輝きなのでしょう
地球が太陽に照らされて瑠璃色に輝くように

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浄瑠璃は東方薬師如来の浄土を表します。
このお寺の本尊は元々阿弥陀如来ではなく薬師如来でした。
創建当時から薬師如来は、小さな庵に祀られていたそうです
その後、平安時代に移築した三重塔に移して現在に
至っています。

本尊を小さな三重塔に祀り、境内を広く使う・・・
仏の世界全体をこの境内で表そうとしたのでしょうか。

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手前の灯篭の中から池の向こうを覗いてみると
池の真ん中に置かれた対岸の灯篭阿弥陀堂
の中心がほぼ一直線に並びますね。

池の両岸に同じ灯篭が建っています。
それぞれが対岸からの目印になっているようですね
この池は、この世(三重塔側)からあの世(阿弥陀堂)へ
渡る《三途の川》を表しています。
この世とあの世にある灯篭は、渡るときの目印か、渡った
後の足元を照らす灯りでしょうか。

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中之島に祀られた社にお参りするための橋が架かって
いました。
池に落ちてしまいそうな小さな石橋ですね!

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池の周りの参道には、いたるところに石仏が祀られて
いました。
お地蔵さんとお釈迦様のようです。

池泉回遊式庭園では、池の周りを歩きながら景色の
変化を楽しむことが出来ます
そして参道の傍らに祀られた仏様に手を合わせると
智恵をいただけそうな気がしますね

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対岸の阿弥陀堂から見た三重塔です。
近くより対岸から見た方が、視界が開けて朱色の三重塔と
緑が調和して良い眺めです
自分自身(こちら岸)は見えなくても、相手(対岸)は良く見える
のと一緒ですね。
あの世の先祖も私達の事をしっかりと見ているかもしれませんね。

私達人間も『自分から見た自分』は良く見えているように
思っていても、実は『他人から見た自分』の方が良くも
悪くも、客観的に(正確に)見えているという事はあります。

自分はそんなつもりはなくても、他人からはそう映っている…
案外《客観的に見た自分》の方が正確な姿かもしれませんね
時々に他人からどう映っているのかを自省する事は必要
な事かもしれませんね!

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この池は阿字の形をすることから、阿字池ともいいます。
阿字は、大日如来を表します。
大日如来は宇宙の中心にみえる根本佛です。
その大日如来と向き合う阿字観(あじかん)は、自分自身を
振り返り
ながら自分の本来の心をさらけ出して、清らかで
穢れの無い心を感じていく瞑想法です。
※中之島で阿字の真ん中を表していますね。

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阿字池を眺めれば、自然に真言宗の瞑想法・阿字観(あじかん)
を行うことになるそうです。
この池に余分な物を捨てて本来の自分自身の姿を映しだす
のでしょうか。

阿字池が境内の中心にあるのは、真言宗の本尊・大日如来の
存在をこの池で感じる為でしょうね。
そして、池の周りを巡りながら自然と一体となり、
自然の智恵を頂けたら良いですね!

次は、彼岸の本尊・九体阿弥陀堂に入ってみます

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いい寺★浄瑠璃とは・・・

今回のいい寺は・・・
浄瑠璃寺を訪れます

その前に《浄瑠璃》について調べてみました。
浄瑠璃寺は、京都府木津川市にあります。
イメージ的には奈良の観光地に属していますね。

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境内の三重塔には薬師如来が祀られています。
浄瑠璃》とは、東方薬師瑠璃光如来のみえる東方浄土
ことを示すそうです。
一般的には、浄瑠璃というと文楽の浄瑠璃を連想しますね。

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文楽といえば上方芸能の代表的なものですね。
大夫(浄瑠璃語り) 三味線(三味線弾き) 人形(人形遣い
の三者が合わさって人間の内面を人形で演じる芸能です。

人形に魂を入れて、情感あふれる表情を醸し出す。
人間以上に人間らしく演じさせる技は、見事なものですね。

曽根崎心中の最後に徳兵衛が首を吊って風に揺られる
場面では、《揺れる姿》それだけで世の哀れさと理不尽さが
伝わってきます。

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人形浄瑠璃は文楽以外に兵庫県淡路島・長野県伊那谷
地方・その他各地で祭礼時の伝統芸能として伝えられて
います。
淡路島には源義経正室・静御前が晩年暮らしたと
伝えられる場所があります
その関係でしょうか、淡路浄瑠璃には弁慶の人形も
あります。

浄瑠璃とは琵琶や三味線を弾きながら節を付けて
物語を語る芸能ですが、なぜ「浄瑠璃」というのでしょうか?

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浄瑠璃という名称の起源は、御伽草子(おとぎぞうし)の
浄瑠璃物語』だそうです。
物語は、浄瑠璃姫源義経の情話に薬師如来などの
霊験記をまじえたものです。

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浄瑠璃姫矢作(岡崎)の長者・兼高夫妻が鳳来寺・
薬師如来に祈って授かった姫でした
源義経が平家討伐を誓い奥州に向かう途中に矢作の
宿でこの浄瑠璃姫と出会い、恋に落ちて一夜の契りを
結びました

しかし、先を急がなければならない身である故、源義経と
浄瑠璃姫はすぐに別れてしまいます
源義経は蒲原(静岡市)に入ったところで病に倒れて
危篤となってしまいました

浄瑠璃姫は、源氏の氏神八幡大菩薩のお告げで現地に
向いましたが、着いたときには既に義経は亡くなって
いました
そこで、蘇生の祈願をして祈りが届き、義経は息を
吹き返して自分の身分を明かして涙ながらに姫と
別れ、再び奥州に向けて旅立ちました

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愛した人を助けた物語ですが、話には続きがあります。
浄瑠璃姫は源義経との別れの悲しさに耐えられず、
乙川に入水自殺してしまいました
愛おしい人との別れは相当辛いものだったでしょうね

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「散る花に流れよどむ姫の渕」
浄瑠璃ヶ淵に句碑がありました。

浄瑠璃姫物語には、もう一つ別の物語があります。
矢作の里に入った源義経は、兼高長者の家に宿を
取りました。
ある日、ふと静かに聞こえてきた浄瑠璃姫の
音色に惹かれた源義経が持っていたで吹き合わせた
ことから、いつしか二人の間に愛が芽生えました

しかし、源義経は旅立たねばならず、姫に形見として
名笛「薄墨(うすずみ)」を授けて矢作を去りました。
姫が源義経を想う心は日毎に募るばかりでしたが、
添うに添われぬ恋に、悲しみのあまりついに乙川
身を投じて短い人生を終えたという話です

源義経は母・常盤御前から授かった名笛「薄墨」を
浄瑠璃姫に渡すのですから二人の愛が深いことが
わかりますよね

源義経は、木曾義仲を討つために上洛する途中
矢作の里に立ち寄りました。
そこで浄瑠璃姫の死を知り、悲しみの中で供養の
ために「妙大寺」をこの地に建立しました。

今では「明(妙)大寺」という地名だけが残っています。

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入水自殺した場所を浄瑠璃ヶ淵といいその下流
には徳川家康の居城岡崎城》があります
岡崎城には浄瑠璃姫の供養塔が祀られていました

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岡崎の市街地にも浄瑠璃寺があります。
ここには、浄瑠璃姫の守り本尊・薬師如来と源義経と浄瑠璃姫の
像が祀られています。

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長者・兼高夫妻は、娘・浄瑠璃姫の菩提を弔うために十王堂
建てました。
十王堂は阿弥陀如来を中心に西方浄土に渡るまでの間に巡る
十王尊が祀られています。
浄瑠璃姫が無事に三途の川を渡って極楽浄土へいけるようにと
願ったのでしょう。

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堂内に祀られている十王尊です。

右端の鏡は、生前の行いを映し出す閻魔大王の浄玻璃(じょうはり)鏡
です。
長者・兼高夫妻は薬師如来に祈願して浄瑠璃姫を授かりました
一家で幸せな日々を送っていたのでしょう。
しかし、娘に先立たれてこれ以上無い悲しみのどん底に落とされて
しまいました

子が先立ち親を悲しませると地獄に落ちるといわれます
そこで閻魔大王ら十王尊を祀り、地獄に落ちないようにと祈念した
のでしょう
悲しみのなかでも、娘の安楽往生を願う親の気持ちが伝わって
きますね。

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京都・浄瑠璃寺です。
薬師如来が祀られている三重塔から阿弥陀如来の祀られている
阿弥陀堂を眺めた風景です

間にあるがこの世からあの世に渡る三途の川を表します
無常の世から、喜び怒り悲しみ楽しみ・・・全てをこの
池の中に捨てて渡っていくのでしょう。

長者・兼高夫妻の人生も、浄瑠璃姫の人生も、源義経の人生も
そして、閻魔大王の浄玻璃境に映ったものも捨てるのでしょうね。

愛する人との出会いや別れ・・・
とても、寂しく悲しくも見えますが、そこには人間として純粋に
生きるという『美しさ』も感じます。
出来事はハッピーエンドでなく、悲しい結末に見えますが、
一途に真っ直ぐに生きた人たちの人生は、悲哀と後悔だけでは
なかったのではないかと思います
また、そんな切ない話があるからこそ、現代に生きる私たちは
そうならないように努力する》事ができるのかもしれませんね!

次は、浄瑠璃寺の境内を散策してみます

※義経の歴史の舞台となった奈良 吉水神社はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/99/

※信州伊那街道 飯田の山寺はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/128/

※伊那谷のお寺はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/129/

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フランシスコ・ザビエルのもたらしたもの

今回のいい寺は・・・
フランシスコ・ザビエルのもたらしたものです♪

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フランシスコ・ザビエルは1506年、スペインのナバラ国の
貴族の末子として生まれました。
日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師です。
彼はインドのゴアにいたときに日本の存在を知り日本に
行くことを希望していたそうです

その願いが叶い鹿児島に上陸しました。
その後、長崎下関と渡り京都に入りましたが、都で成果を上げる
ことなく、山口で布教活動を行っていました

そこへ、府内に南蛮船が入港したことを聞き、大友宗麟
招きもあり豊後・府内を訪れました

大友宗麟の保護を受け、神の教えを広めたのです
それと同時に新しい《南蛮文化》の花が咲き乱れることと
なりました

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大友宗麟は22歳の若さで九州の何ヶ国も治める大名でした。
宗麟がザビエルという異国の宣教師の言葉に感銘を受け
後にキリスト教を広めていくようになるのですから、その影響力
には驚かされますね。

人のために尽くして死ぬことこそ究極の愛
戦は憎しみの連鎖を生むのみである

ザビエルが人間的に素晴らしく魅力的であったのでしょう

宗教はもちろん中身が大切ですが、それ以上にそれを広めよう
とする人の人間性振る舞いが大切なのでしょうね!

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府内(現在の大分市)にはザビエルの遺徳を偲ぶキリシタン
殉教公園やザビエル像などがあります
そしてザビエルの功績をたたえて和洋折衷の菓子《ざびえる
が誕生しました。

バターの聞いたヨーロッパ風の皮と、精選された純日本風の
白餡が口の中で溶けていくようです

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旅行者のみならず、地元の方のお茶うけとして多くの人に
愛されてきた銘菓でしたが、平成12年に製造元が
自己破産に陥ったため、味わうことができなくなってしまいました
そんな中《ざびえる》を愛する元従業員たちが
「もう一度みなさんに味わってもらいたい」と私財を投じて
会社「ざびえる本舗」を起こし、平成15年に見事復活を
遂げました

すばらしい話だと思いました。
従業員が自分たちの意思で商品を開発し、自分たちの意思で
作り、自分たちの意思で販売していく・・・
個々人が『自分の意思』を持って努力ができると、どのような
組織でも強くなるでしょうね!

《ざびえる》の会社が一度倒産したにもかかわらず、従業員の
意思と団結によって見事に再生したことがそれを証明して
います。

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豊かな漁場で獲れた魚

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良質のブランド魚が集まる大分で、おいしいお魚を頂きました

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大分と愛媛の間の海峡で獲れる《関アジ》です
大阪に向かう南蛮船は、豊予海峡か関門海峡から瀬戸内海を
通っていきました
大友宗麟は南蛮貿易で優位に立つために両方の海峡を手に
いれようとしたそうです

昔は重要な拠点でしたが、今では美味しい魚が獲れる
場所です
大分・佐賀関で水揚げされるアジ・サバは「関」の名が付き
ブランド魚となっていますね。
対岸の佐田岬で獲れる魚は、「岬」の名が付きます。
同じ魚ですが、佐賀関では一本釣で獲ってから出荷まで
厳格に取り扱われるそうです。
商標の裏に隠された弛まぬ努力 それが美味しさの秘密
なのですね。

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大友宗麟がフランシスコ・ザビエルを招いた後、府内に日本初の
洋式病院が建ち、ポルトガル人青年医師アルメイダによって
外科手術が行われたそうです
5年後には入院患者が百人にもなり、遠く京都や関東からも
患者が訪れたそうです。

日本では、昔から薬草を煎じて飲んだり漢方で対処したりして
いましたから西洋医学は画期的で大変な評判だったでしょう。

明治になって正式に西洋医学が日本に入ってきたとき、
西洋医学と日本古来の治療法を駆使して名医が沢山
輩出された地域があります。

兵庫県の《やぶ》地方です。
評判が高く《やぶ》出身の医院はいつも患者でいっぱいだった
そうです。
あまりの評判で《やぶ》の看板を掲げれば患者が来ると企んで
全く違う医者まで《やぶ》の名前を使うようになりました

そんな浅はかなことを考える医者ですから腕は
よくありませんよね。
その結果、今では《やぶ》の意味はまったく反対に
なってしまいました。

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大分名産 豊後牛のかわいらしいタイルを見つけました
いつの時代でも、看板で偽ったり生産地でごまかしたり偽装と
いうものは後を絶ちませんね。
大切に一生懸命生産している方々の努力を無駄にしないように
私たちもしっかりした目でみていかなければなりませんね

大分で食事をして名称には、深い意味があることを感じました。

次は、寺の名前について京都・浄瑠璃寺にいってみます。

カテゴリー: 九州 大分 | 6件のコメント

キリシタン大名 大友宗麟の蒔いた種

今回のいい寺は・・・
大友宗麟の蒔いた種です

 

大友宗麟が家督を息子に譲って丹生島城(臼杵)へ
隠居した時に府内(大分)の多くのキリスト教徒臼杵
移りました。
当時、大友宗麟のキリスト教への信仰心は揺るぎない
ものでした。
その強い意志のもとキリスト教の国を創るために日向
攻め込んだのは翌年のことでした。

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大友宗麟は島津氏との合戦の直前に洗礼を受けて、正式に
キリスト教徒となったのです。
洗礼名「ドン・フランシスコ」
欧州でキリストの聖地を取り戻しに十字軍が遠征したように
大友宗麟もキリスト教の国を創るという信念を持っていた
のでしょう。

合戦に負けて夢は叶いませんでしたが、キリスト教への
支援を積極的に行いました。
そして、臼杵に祈りの場としての教会と養成の場としての
修練院が出来ました
大友宗麟の庇護のもと臼杵は豊後のキリシタンの中心地
なっていきました。

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大友宗麟が亡くなってすぐに、豊臣秀吉がバテレン追放令
出しました。
九州地方のキリシタンは大慌てとなり、宣教師の間では比国・
マニラ王に海軍の派遣を願おうという話まで出たそうです。
そこで、天正遣欧使節が豊臣秀吉に謁見したときにヴァリニャーノが
インド副王の使いとして随行し、宣教師が日本に残れるよう尽力し
成功しました。

九州地方には多くの宣教師が残り、信者も増えたそうです。
徳川時代になるまで、臼杵はキリシタンの国として安泰でした。

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徳川幕府のキリシタン弾圧は徹底的なものでした。
臼杵も稲葉藩の領地となって、厳しい取締りが行われたそうです。
その関係か、町の中に当時のキリスト教を偲ぶものが見当たり
ませんでした。

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臼杵から完全にキリスト教の信者が消えてしまった
のでしょうか?
市内を巡るうちに、隠れキリシタン墓と推定される墓が
残っていると聞き二王座を後にし、探してみることにしました

しかし、なかなか見つけられず、地元の方に尋ねても、
役所の方に聞いても分かりませんでした・・・。

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臼杵の観光協会に電話したところ
「ちょっとわからないけど、調べて折り返し電話をしますね。」
と言ってくださいました

そして待つこと20分・・・
観光協会の女性はキリシタン墓の場所を調べてくれました。

名古屋から遠く訪れた九州の地で思いがけず触れた人の
温もり
顔の見えない電話の向こうの相手に「わかりません」と答えて
しまえばそれで済む話なのですが、この女性は真心を持って
相手に接することが出来る方なのだなと感じました

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やっとの思いで探し当てたキリシタン墓
畑の脇道に小さな小さな看板を見つけました。

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うっそうと茂る樹木の中にひっそりと祀られている墓
教えてもらわなければたどり着く事が出来なかったでしょう

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キリシタンの多かった臼杵市の中でも掻懐(かきだき)地区は、
江戸時代初期においても庄屋以下全員がキリシタンでした。
幕府のキリスト教弾圧によってこの地区は危機に立たされ
ましたが平清水の大橋寺の第6世道上人が、
この地区の民は仏教徒である』と
宣言したことによってその弾圧から逃れられました。

現在に至っても彼の命日には、この地区の人々は野菜を
持ち寄り報恩供養を行っているそうです。

信じるものが違ったとしても、相手の気持ちとなり
手をさしのべる事が、人間本来の姿なのでしょうね

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16~17世紀に造られた2基の墓です。
側面に彫られた十字架が確認できますね
しかし、2基とも十字架の他に記銘は見られませんでした。
キリシタン禁止令の中、ひっそりと信仰は受け継がれてきた
のでしょう。
近所の方の気遣いでしょうね、青葉が供えてありました

このように整備されて守られたお墓を見ると、受難の時期を
乗り越えても受け継がれた信仰の力の大きさを感じました。

今は府内(大分)に大友宗麟伊東マンショの像があり、
臼杵よりも当時を偲ぶものがあるようです。

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大分駅近くにある大分カトリック教会を訪れてみました
外観はシンプルな感じで、鐘楼がありました

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女性信者がミサの準備をしていました。
朝日が差し込んで堂内はとても明るかったです
コンクリートで出来た建物ですが温もりを感じました。

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両側のステンドグラスには、イエスの生涯が描かれていました。
誕生から受難、そして復活・・・
日本でのキリスト教の歴史もイエスの生涯と似ていますね。

フランシスコ・ザビエルが日本を訪れて、イエズス会を中心に
布教活動が行われました。
当時は、ポルトガルが主導権を握り、インド、マニラ、マカオを
中継地として宣教師が日本に派遣されました。
南蛮貿易を通して、日本各地に出向き教えを広めました
そして、江戸時代の禁止令という受難期を迎えました。
その間250年、密かに隠れキリシタンとして教えが受け継がれて
きましたね。

宣教師が命に及ぶ迫害を受けていく中で耐え忍び、
純粋な気言動によって地道に広めてきました。
どの宗教にしても、そういった人達の弛まぬ努力によって
受け入れられて、定着していくのでしょう!

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明治の開国を迎えた時、キリスト教再布教の主導者は
パリ外国宣教会に移っていました
彼らはフランス植民地政策をバックに日本における明治以降の
カトリックの基礎を創りあげました。
彼らによって、日本のカトリックは復活しました。
そして、プロテスタント教会ギリシア正教が日本に進出して
キリスト教は新しい時代を迎えました。

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開国後の布教は教育活動を中心とし多くのミッション系の
学校が生まれました。
大分カトリック教会も幼稚園を運営していました。
戦国時代は貿易を通して、今は教育を通して教えの種
蒔いていますね。

大友宗麟を通して、日本におけるキリスト教の歴史を探る
ことができました
機会があれば長崎も訪れてみたいですね

カテゴリー: 九州 大分 | 8件のコメント

大友宗麟の夢見たキリシタン王国

今回のいい寺は・・・
大友宗麟の夢見たキリシタン王国です。

大友宗麟は九州六ヶ国を手にいれたときには、出家して
休庵宗麟と名乗りました。
その後、家族との不仲から心の安らぎを求めてキリスト教
傾倒していきました
領地の拡大と南蛮貿易で富を得ましたが、自分勝手な
振る舞いから人心を掌握することが出来なかったようです

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大友宗麟は出家して仏門に入ったときも宣教師には
府内での布教活動を許可していました。
自身が洗礼を受けて《ドン・フランシスコ》となった時には
領内に多くのキリスト教信者がいました。

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大友宗麟は信仰を深めるあまり、キリシタンの理想郷
建設する名目で寺社仏閣を破壊したそうです

信仰は自由で皆平等ですよね。
自分が信仰する宗教ではないからといって、他人の
信じるもの壊しても良いということはありませんね!

このことで家臣の不審をかってしまい、大友宗麟の夢は
頓挫してしまいました
求めてやまない人々の信仰心を力によって破壊し強制
するような行為は、たとえそれが正しい理想であっても人々
の信任を得ることはできませんよね!

自らが信仰によって人格を磨き、発言や行動で模範とされる
ような行いを指導者自体が示さないと、新しい信仰は新しい地に
根付いていかないものでしょう

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大友宗麟の考えた理想郷とはどんなものだったのでしょうか。

南蛮貿易のなかで西欧諸国がキリスト教を国教として国を
統治していることを知り、宗教の力によって領内を治めようと
考えたのかもしれませんね。

そこに理想郷を創るチャンスが訪れました
当時の九州は、大友氏島津氏の二大勢力が領地を
二分していましたが、日向国(宮崎)は大友氏の親戚に
あたる伊東氏が治めていました。

その伊東氏は島津氏との合戦に敗れてしまい、大友宗麟の
元に落ち延びてきました
大友宗麟は、伊東氏が助けを求めたことを口実に日向
攻入りました。
日向にキリシタン王国を創る」という夢を叶えるために
四万の大軍を率いて・・・

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大友宗麟は南蛮船に乗って日向に向かいました
船内では同乗した宣教師のもと、欠かさずにお祈り
行いました
日向の北、延岡に上陸してからは、仮設の教会を
造り家臣や側室とともに毎日ミサを行ったそうです

夢の実現のため、神のご加護を・・・
大軍を率いた大友宗麟は、家来が戦果を挙げながら
南下する状況に勝利を確信していたのでしょう

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ところが、大友宗麟が到着する前に家臣は島津軍と合戦を
始めてしまい大敗北を喫してしまいました
耳川の合戦と呼ばれていますが合戦の地は高城川でした。
耳川は、敗走する大友軍の兵士が川を渡りきれずに
多くの死者が出た場所です。
大敗北を象徴する場所が、合戦の名前になっています。

大友宗麟の落胆も相当なものだったでしょうね。
二度と理想郷を創るチャンスは訪れませんでした

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大友宗麟の元に逃れた伊東一族の中には、8歳の伊東マンショ
いました。
伊東マンショは豊後でキリスト教と出会い、入信し司祭になる
ために神学校に進みました

当時宣教師の布教活動は財政難から思うようにいきませんでした。
そこで布教事業の立て直しと次代を担う邦人司祭育成のために
使節をローマに派遣することになりました。
大友宗麟は、神学校にいた伊東マンショを派遣することに
しました。

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天正遣欧少年使節の正使として、伊東マンショはローマ
向かいました
キリシタン王国創造に失敗した大友宗麟にとって伊東マンショが
一縷の望みだったかもしれませんね。

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使節一行はポルトガル、スペイン、ローマと渡り、ローマ法王に
謁見
ローマ市民権を与えられました。
フィレンツェではメディチ家による舞踏会にも参加したそうです
多くの収穫を得て、一行は日本に戻りました

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見聞を広めた一行が日本に戻ったときには、日本の情勢が
変わっていました
大友宗麟は亡くなり、豊臣秀吉によってバテレン追放令
出されていました。
キリスト教には逆風が吹いていましたが、使節団は聚楽第
豊臣秀吉に謁見することが出来ました。
西洋楽器の演奏などをして豊臣秀吉に気に入られたそうです

その後伊東マンショは大友宗麟の遺志を継いで九州を中心に
布教活動を行って教えを広めました

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大友宗麟は、天正遣欧使節団の帰りを待ちわびていたでしょう。
キリスト教の国という夢は儚く散ってしまいましたが、
信仰による真のキリシタン王国を
最後の夢を彼らに託しながら天に召されたと思います。

大友宗麟が理想という形にこだわらなければ、そして人々の心の
なかに根付く王国
を創ることに気付けば彼の夢は叶ったことでしょう!

本来、宗教は形を造り上げるものではなく、を蒔いたら自然と
実っていくものではないでしょうか
形に残さなくても、に芽吹いたものは決してなくなりません。

それはキリシタン禁止令が出された受難の時期を過ぎても
信仰の芽が残ったという歴史が証明していますよね

次は大友宗麟の蒔いた信仰の芽を探してみます

カテゴリー: 九州 大分 | 4件のコメント

名古屋 白壁を楽しむ★

今回のいい寺は・・・
名古屋 白壁を楽しむです♪

大分 臼杵の武家屋敷から名古屋の武家屋敷跡へちょっと
寄り道です

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名古屋の武家屋敷は、市の中心地・白壁界隈にありました。
白壁界隈は静かな住宅街になっていますが、一歩外に出ると
片道3、4車線の道路や名古屋高速が通っています

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名古屋は織田信長の清州越しの際、城を中心に創られた
町です
城下は、武家屋敷、寺社門前、町人街に分かれ江戸時代の
白壁町付近は、尾張藩の中級武士が屋敷を構えていました。

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明治になって武家屋敷は財界の人々の住まいとなりました。
それにつれて洋風建築の住まいが増えていきました
現在、白壁界隈は町並保存地区に指定されて貴重な
建物の保存・活用をすすめています。

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旧・豊田佐助邸の洋間です
洋間の換気口には鶴亀のデザインが施されています。
よく見ると鶴の羽で「と」 胴体で「よ」 亀の甲羅で「田」を
表しています。
『とよ田』・・・遊び心のあるデザインですね

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大正時代の照明器具です
規格化されて大量生産する器具とは違い、丁寧に造られたものは
温もりを感じます
美術館の芸術作品とは少し違う、職人の技を見る事が出来ますね。

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こちらは、門と塀だけを残して敷地内にマンションが建っています。
白壁界隈には、このようなマンションが多いです
景観の保全と、土地の活用の狭間で苦心した結果でしょうね。

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旧家をそのままの形で維持する事はなかなか難しいです。
取り壊して駐車場になったり、マンションが建ったり・・・
この界隈は急速に変貌しています

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そこで、名古屋城、白壁界隈、徳川美術館を結ぶ一帯を
文化の道》として文化財の保存とイベントの実施や活用を
進めているそうです。
この旧家も『百花百草』の名で市民の憩いの場として
開放しています

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名古屋の中心街とは思えない程、自然が豊かな場所です。
景色を見ていると、雑多な日常を忘れることができますね。
ここは大正9年に建てられた建物を改修して、多目的ホールに
なっています。

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重厚な扉の蔵を見つけました
貴重品を災害から守る蔵・・・白壁界隈には蔵のある屋敷が
多くあります。
ここには美術品が展示してありました。

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手前は懐かしい井戸水を汲み上げるポンプです
真ん中に洋風花壇
奥には白壁の歴史を感じる蔵と異なるものが存在しながらも
不思議と違和感がありませんね。

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ホールではピアノの演奏も行われます

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そよ風になびく樹木、蝶々が舞う草花、ゆっくりとわずかな水が
流れる水路、ピアノの音色と合わさって心が癒される感じがしました。
まさに都会のオアシスですね

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道路沿いにある大木です。
この大木を避けるように道路が曲がっています
地元の方の協力によりこの大木は残ったのでしょう。
この他にも何本か道を曲げて樹木が守られています。

白壁界隈武家屋敷から始まり、この大木の年輪の
ように変化を積み重ねてきました。
その変化のなかで、地元では町の保存に取り組んで
います。

そして、ただ保存するだけでなく町を活用する試みも
しています。
一番大切なのは、人々が集う町造りなのでしょう。

二王座白壁界隈・・・
武家屋敷という共通の歴史を持つ町ですが、二王座は
人々が建物に合わせた生活をしながら「二王座」を守り
白壁町界隈は変化を受け入れながら「白壁」の名前を
残そうとしている
ようでした。

次は、大友宗麟が抱いた夢について、大分に戻ります

※いい寺《清洲城界隈》はコチラ↓
  e-tera.net/Entry/33/

※いい寺《二王座を歩く》はコチラ↓
  e-tera.net/Entry/135/

カテゴリー: 名古屋 《文化》 | 8件のコメント

大分 臼杵《二王座を歩く》

今回のいい寺は・・・
臼杵の二王座を歩です

臼杵藩の城下町には、今でも古い町並みが残っています。
そこには武家屋敷寺院が立ち並び、古き時代を今に伝える
場所となっています。

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臼杵城から眺めた月桂寺です
月桂寺は、稲葉家歴代藩主の菩提所として二代目藩主・稲葉典通が
建立したお寺です。

祖父・稲葉一鉄が妻の菩提のため、美濃に創建したお寺も月桂寺と
いいました。
臼杵藩への国替えに合わせて、同じ名前のお寺を新たな地にも
造ったのですね。
稲葉典通は、美濃から湖南宗嶽和尚を開山として招きました。

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二王座にある浄土真宗・善正寺です。
最近本堂を新築したお寺です。
親鸞聖人の像が祀られていました。
ここも400年前に郡上八幡より移転した寺院です。
本尊は美濃伝来の阿弥陀如来像で、開基顔了法師も美濃から
訪れました。

大名の引越しには、家臣や家来や多くの住民がお供していきます。
先祖を残して移る不安を解消するために、寺院も一緒に引っ越して
きたのでしょうか。

同じ郷里同じ信仰を持つ仲間がいた事はどれだけ心強かった
ことでしょう!
やはり、共有できるものを持った関係は強い絆で結ばれており、
お互いに安心と信頼の中で新天地で生きてきたのでしょうね!!

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国替えのときに宗教(先祖)が心の支えになったのでしょう。
僧侶が随行して新天地に向かって行きました

臼杵は、キリシタン大名・大友宗麟が築いた町でキリスト教徒
多くいました。

そこへ、美濃から和尚さんを伴って引っ越してきたお殿様一行。

宗教の違う人が同じ地域に住むということは、現代では難しい面も
ありますが、この臼杵では藩主がうまく舵取りをして融和していった
のでしょう

ところが、江戸時代になるとキリスト教禁止令が発布されて
檀家制度が確立されました。
キリスト教徒にとっては衝撃的な出来事だったのでしょう

これをきっかけに大友宗麟の築いた臼杵から稲葉家の城下町へと
変貌をとげました。

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昔ながらの町では、寺院を中心にして門前町や住居地を形成
しているところが多いですね。

寺院は昔から人の集まる場所でした
そして、先祖を祀る場所として景観や自然災害を考えて
立地条件の良い場所に建てたそうです

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小道を上がるとその先には古い町並みが続いていました
かつて、この地には春日局も住んでいたとか・・・

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格子戸の向こうに見える黄色い自転車がかわいらしいですね
歴史地区の中で景観を守りつつ住居として使われているようです。

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ゆるやかなアーチを描く道
二王座は阿蘇山の火山灰が固まって出来た凝灰岩の丘で、
あちこちの岩を削り取って道を通したものだそうです。
切り通し》と呼ばれ、風情がありますね

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二王座の町並みの中にある無料休憩所

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一歩中に入ると、懐かしい公衆電話に土間
おばあちゃんの家に来たような気分になりました。

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温かい色の電球のもとで懐かしさに包まれます

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毎年11月の第一土・日曜に《うすき竹宵》が開催されるそうです。
約2万本もの竹ぼんぼりが二王座歴史の道周辺に灯されます

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臼杵石仏を造った真名長者の娘、般若姫の御霊が都から
里帰りしたという伝説を再現したものです。

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こちらにも無料の休憩所がありました。
散策には嬉しい施設ですよね♪

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格子窓の町屋が並ぶ通りを歩いたとき
醤油屋さんのおばちゃんが笑顔で迎えてくれたとき
坂道を散策する人の嬉しそうな顔を見たとき
小さな水路でキレイな鯉を見つけたとき
朝、川のせせらぎで目を覚ましたとき・・・

小さな町っていいですよね

2泊3日の休みが取れたなら、近くの海外にも十分
行けるかもしれないけれど、国内の小さな町を訪れて
みるのも素敵な過ごし方ですよね!

ただそこにいるだけで、まるで自分のふるさとのような
懐かしいぬくもりに包まれるものです

大友宗麟の夢見た王国・大分の町 散策はまだ続きます

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