大分 臼杵の武家屋敷

今回のいい寺は・・・
臼杵の武家屋敷です。

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市内の中心部には稲葉家の下屋敷があります

稲葉氏は関ヶ原の合戦で西軍から東軍に変わって手柄を
あげ、郡上八幡から臼杵に国替えとなりました。
手柄のご褒美としての国替えでしたが、江戸時代には
鎖国で南蛮貿易が途絶え、臼杵藩は財政的に恵まれて
いなかったそうです。

明治になると、当主は版籍奉還をいち早く行い、藩知事となり
廃藩置県で藩は臼杵県となるなど政府の方針に素早く従いました。
その後、稲葉家は華族となって東京へ居所を移しました。
稲葉家には戦国時代や明治時代と、時代の変わる時に先を
見る目がありましたね

先を見る目」というのはグローバル化した今の社会にもあてはまり
ますね。

ある会社のHPに・・・
機を見て、勝負するときは思い切って勝負する。
 その時大切なのは時代や経済を的確に見抜く判断力と
 先を見る目である。

と書いてありました。

この変化の激しい現代においては、先を読んで時代を読み
身を処していくという生き方はとても必要なことだと思います。

しかし、大阪の陣に参戦した真田幸村のように不条理なことに
一矢報い立ち向かっていく
生き方もとても《美しい生き方》だと
思います

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東京に移った稲葉氏が臼杵に訪れた時の住まいとして
地元の有志によってこの屋敷が建てられました。
臼杵を去っても、お殿様は人望を集めていたのですね

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庭のアジサイが綺麗に咲いていました。
ひとつひとつの花がグリーンに映えますね。

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屋敷の庭は、樹木と芝の緑が眩しかったです
昔から殿様が何時お越しになっても良いように、庭の手入れが
行き届いていたのでしょう
今でも常に庭師が入っているようですね。

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屋敷の広間です。
この大書院の部屋から臼杵城を眺めたのでしょうか
殿様が里帰りの折に城が眺められるようにと、この場所に
屋敷を建てたのでしょうね

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屋敷の内部には、武具やお姫様の豪華な駕籠など
稲葉家伝来の品々が展示してありました。

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臼杵藩稲葉氏の家系図が置いてありました。
関ヶ原の合戦で手柄をあげた藩祖・稲葉貞通父・稲葉一鉄
美濃国・斉藤氏、織田信長、豊臣秀吉に仕えて名を馳せました。

稲葉一鉄は、文武両道に優れていましたが頑固な一面が
ありました。
織田信長の家臣でありながら意見が合わない時は信長の
言うことさえ聞き入れなかったそうです
そこで、名前の「一鉄」にかけて《頑固一徹》の言葉が生まれました。

美濃で活躍した稲葉一鉄と臼杵の町で新しい稲葉家を築いた
稲葉貞通・・・
同じ生き方はしなかったようです。

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それぞれの環境に合った生き方をする事が大事ですね!
自然に背く樹木は枯れてしまいます

稲葉一鉄、稲葉貞通親子を樹木に譬えてみました。

稲葉一鉄の生き方は、自然に生えた樹木・・・
地中深くに直根が伸びて風雨に曝されても、日照りが続いても
平気なように、何事にも動じないものだったのでしょう。

息子・稲葉貞通は、美濃から臼杵へと環境の違う土地に移りました。
それは植木に似ています。
直根を切って移植すると細根を四方八方に伸ばして、万遍なく
養分を吸収する・・・そのように細心の注意を払って、万遍なく
気配りし新しい土地に馴染んでいったのでしょう。

そして植木の添え木と同じように、先遣隊の七人衆が臼杵藩を
支える役目をしたのでしょうね。

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五代将軍・徳川綱吉黒印状も展示してありました。
稲葉一鉄の姪には、三代将軍・徳川家光乳母・春日局
いました。
一時期、春日局は臼杵に身を寄せていたこともあります。

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春日局は夫と離別したのちに血縁の稲葉氏を頼り、一時は
二王座(市内の武家屋敷街)で暮らしていました。
後に春日局は三代将軍・徳川家光の乳母になりましたから、
臼杵藩にとって大きな後ろ盾になったでしょうね。

先が見えない人生や、環境の変化で迷った時の一筋の灯り
この灯りに「救われた」と思うことがありますよね。

それは、言葉であったり、さしのべられる手であったり

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稲葉家下屋敷の隣に移築した上級藩士平井家の武家屋敷
あります。
江戸中期の藩士の生活が見えます

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朝の柔らかい光の中、向こうの方に見えるがとても
爽やかな印象でした

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映画「武士の一分」を思い出しました
つましくも懸命に、身の丈に合った日々を生きる主人公。
木村拓哉演じる下級武士と彼を支える妻の情愛

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日々の暮らしに根ざしたささやかでかけがえのない夫婦の幸せが
お互いを思いやる言葉手料理などに詰まっている気がしました。

武家屋敷のたたずまいは、決して派手さのない質実剛健と
いった雰囲気でした。
これは今でも臼杵の気風となっていて、質素、倹約、勉励が
臼杵の精神とされています。
そして稲葉一鉄の影響か、頑固者多いそうです。

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いつでも殿様のお越しを待っているかのように、稲葉家下屋敷の
玄関は幕が引かれ、掃き清められていました

次は、春日局も住んだ二王座界隈です。

※徳川家康と真田幸村についてはコチラ↓
  e-tera.net/Entry/124/

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大分 大友宗麟が創建した臼杵城

今回のいい寺は・・・
大友宗麟が創建した臼杵の城です

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戦国時代、九州北部六ヶ国を手に入れた大友宗麟
南蛮貿易で手に入れた富を基に力を伸ばしていきましたが、
人生は順風満帆とはいきませんでした。
家督相続の争いでは父や弟を討ち、敵対した家臣を粛清しました。

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近隣の国との戦で身内や家臣を失うなかで、北九州全域を
手に入れて全盛期を迎えました。

そんな時に大友宗麟(義鎮)は、出家して僧名・休庵宗麟
なりました。
多くの流血と犠牲があったので、仏門に入って菩提を弔う
気持ちになったのでしょう。
キリシタン大名になる前の姿ですね。

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大友宗麟は国を治める政の中心を府内(現大分市)
置きましたが妻との不仲から臼杵に城を創建して、妻子を
残して府内から移ってしまいました

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大友宗麟は臼杵の丹生島に城を造りました
北に毛利氏、南に島津氏と有力大名に囲まれていたので
自然の要塞としてこの島を選んだのでしょう
引潮の時に砂洲ができて一ヶ所だけ陸とつながったそうです。

今は周囲を埋め立てて、臼杵の町の一角となってしまいましたが
城郭へ登る道が自然の岩盤を削って造られていて昔は島だった
ことがうかがえますね

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大友宗麟は六ヶ国を治めた上に、対岸の四国・伊予半国も
手に入れていました。
四国・佐多岬半島と大分・佐賀関半島の豊予海峡が海の
関所となったのでしょう。
臼杵が往来する南蛮船の停泊地となって、活発に交易を
行いました

地の利を活かした大友宗麟の政治的手腕が大友家の
領地拡大につながったのでしょうね

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南蛮貿易を盛んに行った大友宗麟は、キリスト教への改宗
によってポルトガルの信頼を得たのでしょう
当時としては新兵器である鉄砲大砲、それに火薬類を豊富に
手を入れることが出来ました

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ところが大友宗麟のキリスト教への改宗は思わぬことに・・・
異国の宗教に改宗したことで一族や家臣の反感を買い
落胆した家臣の士気落ちてしまいました
また、離反する家臣も多かったそうです
信仰が深くなるにつれて、領地を失うことになってしまいました。

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海に浮かぶ自然の要塞・丹生島城
四方八方に櫓が造られて、臼杵湾に浮かぶ軍艦のようだったの
でしょう。
そして大友宗麟の晩年に、この城が活躍するときが訪れました。

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九州北部六ヶ国を治めた大友家は、度重なる敗戦で領地と力を
失っていきました。
最後は薩摩・島津氏の侵攻によって、大友宗麟の丹生島城
残すだけとなってしまいました
大友宗麟は島津軍を籠城して迎え撃ち、豊臣秀吉の援軍
来るまで持ちこたえたそうです

※これが豊臣秀吉の九州征伐です。
 豊臣家の家臣・細川忠興も出陣して、この間に細川ガラシャ
 カトリック教会を訪れてクリスチャンとしての信仰を深めました。

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この合戦では、南蛮貿易で手に入れた武器が大友宗麟を
助けました

中でも、ポルトガルから入手して 丹生城に備え付けられた
大砲《国崩》の威力は凄いものでした
大音響を発して敵陣に命中し、多数の死傷者を出した島津軍は
戦意を消失したそうです。

そして、豊臣秀吉によって九州は平定されました
この戦で、大友宗麟は疲れ果ててしまったのでしょう。
多くのものを失い、失意の中この世を去りました。

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現在は、城跡の至るところに鳥居があります。
キリシタン大名・大友宗麟が創建した城も明治の
廃仏毀釈をへて、神道の聖地となっているのでしょうか…

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大友宗麟の亡くなった後に大友家は改易となり九州の地から
姿を消してしまいました。
丹生島城は関が原の合戦後、臼杵藩に国替えした稲葉家
よって整備され三層四階の天守と31基の櫓が上げられて
臼杵城となりました。
廃藩後は、天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の
海も埋め立てられました。

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天守閣跡の脇にある卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)です。
寅の方角と卯の方角の間に位置するとされる「卯寅口門」の脇に
位置することから、この名前が付けられました。

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この横から登る鳥居のトンネルがありました。

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丑寅稲荷神社が建っています。
この神社は大友宗麟が築城に際して、丑寅口が城中の鬼門に
あたるため城の地主神・丹生島明神を祀ったのが始まりです。

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臼杵城に隣接して護国神社があります。

臼杵城は明治に起きた西南の役臼杵士族西郷隆盛軍
戦いの舞台となりました。
明治になって士族(上級武士)の生活が困窮して、不満を持つ
薩摩の士族が西郷隆盛を担いで反乱を起こしました。

臼杵の士族は、西郷軍に合流することなく政府方につきました。
そして、数で劣る臼杵士族隊は各地で敗れて、臼杵城は一日で
落ちたそうです。
戦国時代から江戸時代を経て、また薩摩との戦とは因縁めいて
いますね。

護国神社臼杵士族隊の霊を祀るために造られたそうです。
そして、稲葉藩の歴代の藩主と国家公益につくした人の霊が
祀られています
臼杵士族隊は、政府要職に就いた殿のためにと思って西郷軍に
戦いを挑んだのでしょう。

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臼杵城の至るところに護国神社の参道として鳥居があります。
城の入口の鳥居は、護国神社創建120年を記念して建てられた
ものです

臼杵藩を思う人々の心意気を今に伝えるものですね。

家臣が離反していった大友家稲葉家のためと負け戦に
向かっていった臼杵士族隊
・・・
臼杵を治めた二つの大名を比べてみると現代社会にも結びつく
ような気がしました。

経営者にとって、自分の理想を実現する会社にしたいと願う事は
当然でしょう。

宗麟の失敗は、人心を掌握しない経営者がたどる道と重なりますね。

武士社会であれ現代社会であれ、時を経ても要となる部分は
同じなのでしょう。

人心を掌握するということ・・・

不安を感じたり、苦しんでいるときにその状況にふさわしい一言
投げかけてあげられたらいいですよね

その一言で やる気を起こし

その一言で 励まされ

その一言で 夢を持ち

その一言で 嬉しくなり

その一言で 立ち上がる

その一言で 腹が立ち

その一言で 泣かされる

ほんのわずかなその一言で 不思議に大きな力を持つ

ほんの一寸のその一言で・・・

現代に生きる私たちもそれぞれの立場で考えるべきだと
思いました。

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城郭の跡地は運動公園となっています。
皆さんゲートボールを楽しんでいました

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城からの眺望です
臼杵港は造船所や九州と四国を結ぶフェリーの港となっています

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臼杵城の向かいの丘には、稲葉家の菩提寺武家屋敷が立ち並ぶ
二王座》があります。

次は、稲葉家下屋敷を訪ねてみます

※いい寺《玉造教会と細川ガラシャ》はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/123/

※いい寺《細川家菩提寺・高桐院》はコチラ↓
 e-tera.net/Entry/125/

カテゴリー: 九州 大分 | 4件のコメント

大友宗麟の町 大分・臼杵を散策して

今回のいい寺は・・・
大友宗麟の町・臼杵を散策してです♪

キリシタン大名 大友宗麟の国、豊前・豊後(大分県)を
訪ねてみました

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大友宗麟の居城・丹生島城があった臼杵市です。
臼杵市は、日本に最初に仏教が伝わった地域として寺院が
多いそうです。
寺院と武家屋敷のある街並みは、大林信彦監督の映画
なごり雪」の舞台となりました

大友宗麟が築いた町ですが、当時を偲ぶものは城跡だけに
なっていました
江戸時代には、臼杵藩となって稲葉氏の領地となりました。
稲葉氏は元々郡上八幡の殿様でした。
関ヶ原の合戦で当初西軍でしたが、東軍側について手柄を
あげて臼杵藩五万石へと国替えになりました。
今は、大友宗麟よりも稲葉氏の町として知られています。

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臼杵藩五代目藩主の頃に城下町は整備されて藩政が
整いました。

古い商店が立ち並ぶ城下町を散策してみました

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「可児醤油店」で味噌ソフトを食べました
ステキな笑顔のお母さんが「甘い味噌なんて珍しいでしょう」
と差し出してくれました

私の地元名古屋でもトンカツなどには甘い味噌をかけて
食べる事を話したら、可児さんの先祖は美濃国(岐阜)出身
だと教えてくれました。

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美濃藩主稲葉貞通が臼杵へ国替えになる一年前に臼杵の町を
偵察に来た7人の侍の中の一人だったそうです。
行商人に変装していた可児孫右衛門はこの場所で醤油屋
創めました。

江戸時代の身分制度で商人は、士農工商の一番下の位でした。
しかし、城下町商人として献納し藩を支えてきました。
後に名字と帯刀を許されて、可児家は武士に準ずる位に
なったそうです。

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可児醤油の暖簾を何百年以上に渡って受け継いできた今の
当主が話してくださいました。

私の先祖が稲葉氏の入城にさきがけ、遠く九州の臼杵に来て
 商人として主君である城主を支えていって現在まで暖簾を
 守ってきた
」と。

当時は武家が新しい街を活性化する為に、人が集まり住みやすい町
にと商人を優遇してきました。
それに応えようと、商人は知らない街に移り住み、町づくりに
一役買ってきました。

現代でいうなら、男性の住む街や転勤する街に移り住み、
家族を支えていく女性のような存在と重なりますね

家族を守る男性と、家族を支える女性という関係にもつながる・・・

当時の主君と商人の絆を感じました。

今も昔も、どういった関係においても信頼関係が大事なのでしょうね。

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江戸時代に繁栄して400年間この建物を守ってきました。
そして、第二次世界大戦の折、軍からの指示でB29戦闘機の
標的にされないように、白壁をで黒く塗った名残もあります。

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すぐ隣には醤油ソフトを売るお店もありました。
醤油と味噌で仲良く商売していますね。

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大分名物のどんこのお店を見つけました
大分県の山間にて冬の寒い時期にゆっくりと成長した肉厚の
どんこ椎茸は旨みが多く、味・香りともに最高です

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用水路には鯉が泳いでいました。
色鮮やかな錦鯉がたくさん
町全体で景観の保全に努めているのですね

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カメラを向けると自然にポーズを撮ってくれた男の子

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洋風な外観が印象的な情報発信施設「サーラ・デ・うすき
キリシタン大名・大友宗麟の時代に建てられたとされる
修道院を模して造ったそうです

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大友宗麟が使ったとされる大砲のレプリカが展示されて
いました

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稲葉氏の城下町として繁栄した臼杵の町に西洋の風を
取り入れた中庭が印象的でした。
南蛮貿易で栄えた町を今に伝える場所ですね。

次は大友宗麟が建てた《臼杵城》を訪ねてみます

※可児醤油店のHPはコチラ↓
 www.kagiya-1600.com/index.htm

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いい寺★京都《大徳寺・瑞峯院》

今回のいい寺は・・・
京都 大徳寺・瑞峯院です♪

戦国時代のキリシタン大名大友宗麟》の菩提所です。

キリシタン大名の菩提寺・・・
高桐院の灯篭墓とクリスチャン細川ガラシャのように物語が
ありそうですね!

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瑞峯院」の寺名は大友宗麟の戒名瑞峯院殿瑞峯宗麟居士
から付けられました。
そして大友宗麟が、わずか5歳のときに自身の菩提所として
創建したそうです。

大名としての元服名は義鎮です。
宗麟は得度(仏弟子となる)を受けた際に授かった名です。
その後キリスト教に改宗して、洗礼名《ドン・フランシスコ》
なりました。

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大徳寺参道の土塀が、雨に打たれて傷んでいました
これは、風雨にさらされて侵食することを想定した塀だそうです。
雨水に洗われてザラザラした部分、雨が当たらずに変わらない
部分、そして苔が付いて変色している部分と、変化が楽しめる
ように造られています。

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瑞峯院に向かう途中には石碑がありました。
石碑には《独坐庭》と彫ってあります。

世の中に流されることなく、静かに坐る
独坐庭》そんな場所でしょうか・・・・

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瑞峯院・方丈の前庭《独坐庭》です。
荒々しい波が押し寄せてくるような枯山水の庭ですね。

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粒が大きい砂利の波紋が立体的で、波打つ音が
聞こえてきそうです
松風にしても波にしても実際に聞こえない音を表現されると
想像力が掻き立てられますね

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立てた石組みで蓬莱山をあらわしています。
「独坐、大雄峰」波が打ちつける険しい峰に悠然と坐る・・・
これが独坐庭の由来です。
ここに坐っている主が大友宗麟で、打ちつける波が戦国の世
という事でしょうか・・・

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波が入り江の奥まで入ってきますが、こちらは静かな浜辺を
連想させます。
動から静への変化を楽しむ庭ですね

大友宗麟は、心の安らぎを宗教に求め
キリスト教への信仰が深まっていきました。

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方丈の裏には、縦4個、横に3個の石で《十字架》を表す
閑眠庭」があります。

独坐庭」「閑眠庭」は現住職が造園家の重森美玲さんと
大友宗麟の思いをくんだ「現代の庭」を造ろうと考えて
出来たそうです。
仏教寺院の庭にキリスト教の象徴が存在する斬新な庭
ですね

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「人格の完成という目的に向かうため、キリスト教を選んだ
 宗麟の心を尊重し、万民の霊を弔うために造った」

仏も神も同じように世界を大きく包み込んでくれる。
 排他的ではいけない。
 人間同士がけんかする事がいかに小さなことか、
 この庭から感じてほしい

住職の願がここに示されています

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閑眠庭」を眺めながら広間でお茶を頂きました
ここには表千家家元の扁額《坐忘》の二字が飾ってありました。
静かに坐って無念無想の境地になれば、自分の存在すら
忘れて十字架と一体となるでしょう。

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薄茶と大徳寺納豆が入った落雁、そして壷に入った
自家製の大粒の大徳寺納豆を頂きました。

大豆を発酵させた芳醇な味わいは奥深く、お茶請けから
中華料理のアクセントまで幅広く使えます。
甘いお菓子の後に食するのも一興ですね

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方丈と庫裏の間の中庭には、キリシタン灯篭があります。
地中に埋まっている部分にはマリア像が彫られているそうです。

閑眠庭」の十字架は、この灯篭を基点にしています。
灯篭の影がのびて十字架を映し出す
それは宗麟の心をつつむマリア様の愛でしょうか?
色々と想像したくなりますね

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高桐院の細川ガラシャ、瑞峯院の大友宗麟・・・
禅宗は他の宗教に寛容なのですね。

瑞峯院を訪ねてキリシタン大名・大友宗麟に興味を持ちました。
次は九州六ヶ国を治めた大友宗麟について九州へ飛んでみます

カテゴリー: 京都 《文化》 | 4件のコメント

大徳寺の参道を歩きながら

今回のいい寺は・・・
「大徳寺の参道を歩きながら」です

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今の大徳寺は周囲が住宅街で、門前には北大路が
通っていて街中の寺となっています。
千利休や豊臣秀吉の頃は、「紫野」といわれるように
緑に囲まれた自然豊かな場所だったのでしょう。

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春が過ぎると松の花が咲き、勢いよく成長します。
禅宗の寺院では、松を好んで植えるそうです。
鑑賞の為ではなく、修行に適した樹木だそうです。

「閑坐して松風を聴く」という言葉があります。
境内で静かに座ると、風になびく松葉の音が聴こえて
くるそうです。

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禅寺では修行のためですが、戦国時代の城では
非常食にする為に松を植えたそうです

松には色々と用途があります。
フランスではサプリメントや香料になります。
そして、松脂が地中で熟成すると琥珀になりますね。

※松にたかった虫が松脂に入ってしまうと、琥珀のなかに
  そのままの姿で残ることもあります。

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音を聴くといえば、《鐘の音》ですね
大徳寺境内には、織田信長の家臣が建てた鐘楼があります。
豊臣秀吉織田信長の菩提所・総見院を創建した時に
合わせて建立したそうです。

総見院の境内ではなく、壁を隔てた外に鐘楼がありますね。
急逝した織田信長に、この世から想いを伝える
そんな意味で家臣は塀の外に建てたのでしょうか・・・

そして鐘の音は、境内中に響き渡りますね。
細川夫妻のところにも千利休のところにも
毛利元就大友宗麟のところにも・・・
大徳寺を墓所にしている大名全てに聞こえているのでしょう。

松風は静かに耳を傾けてもなかなか聞こえませんね
おいしい《味噌松風 》のお店ならあります♪

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「8代前まではわかっているのですが・・・」というほど重厚な
歴史を誇る和菓子店「松屋藤兵衛」です。

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名物の《紫野味噌松風》は、江戸時代にお茶に合うように
考案されたと伝わる焼き菓子です
味噌の風味がふんわり漂う生地はもっちりとした食感で
毎年作る自家製大徳寺納豆の塩気が味を引締めています。

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大徳寺参道前にある《大徳寺いちま》ではお茶席でも愛用
されてきたかわいらしい手まり寿司が頂けます

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お茶に縁が深い大徳寺門前の店だけあって、お茶席の食事
にも長年携わってきたそうです

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その中で創業当初から人気の手まり寿司は、食べてしまうのが
もったいないほどのかわいらしさです
千鳥酢で甘めに仕上げた寿司飯に色とりどりのネタをのせた
ひと口サイズです

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京都の伝統的なさばずしです
古来より日本海でとれたさばが京都や奈良などへ運ばれました。

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初夏のかわいいお花が咲いていました
とても丁寧な仕事をされているお店でした

次はキリシタン大名・大友宗麟の菩提所《瑞峯院》を訪れます

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変わりゆく時代 寺を守るということ

今回のいい寺は・・・
変わりゆく時代のなかで寺を守る姿についてです♪

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南信州は、木曽川が流れる木曽谷と天竜川が流れる伊那谷に
分かれます
木曽源氏・木曽義仲の里として有名ですね
江戸時代には、尾張藩に組入れられて林業(木曽ヒノキ)が
盛んになりました。

伊那谷三州街道と呼ばれて三河と信州を結び、
中山道の脇路として栄えました。
今は恵那山トンネルで結ばれてJR中央線は木曽谷を通り
高速・中央道は伊那谷を通っています

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三州街道は別名・塩の道と呼ばれ、吉良碧南で取れた
三河湾の塩を馬に載せて信州・塩尻に運ぶ道でした
1日千頭もの馬が行き交って、飯田は信州の小京都と
言われるほど賑わったそうです。
その関係でしょうか、伊那路に立派な造りの寺院が多い
ですね。

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街道の面影を残す松とペンキがはげた天竜川の鉄橋が
時の移り変わりを物語っているみたいです。

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時代が変わって、道路が整備されて輸送手段の中心は
トラックとなり、観光客も南信州から奥志賀まで楽に足を
運べるようになりました
飯田の街は、天竜ライン下りで観光客を呼んでいましたが、
他の地方に客足が遠のいてしまったみたいですね。
もう一度、活気を取り戻すために頑張ってください

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寺の維持も大変ですね。
時が経つなかで、「どのように残していくか」が考え所だそうです。
新築も見栄えは良いですが、歴史がそこで切れてしまうようで
寂しい気がします
傾いても古い建物が残っていると頑張って!と応援したくなりますね。

千利休のように朽ちていく姿をいかに楽しむか・・・
しかし、外から見ても思う事と、中で住む人の現実は違うので
しょうね。

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修理したお堂です
瓦の葺き替えに合わせて、破風板と濡れ縁が新しくなっていました
破風と濡れ縁は風雨に曝される所ですから、車のタイヤやオイルを
替えるのと同様に役目を終えたら新しくするのですね

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全部を変えずに、破風板に付いた下桁(げぎょう)は残され使って
ありました。

古いままか、新品にするか・・・

みなさんならどうしますか?
和尚さんは、遺せるものは大事に使おうという考え方なのでしょうね。

※下桁の元の字は懸魚で、中国で昔は本当に破風板に魚を
  かけました。
  魚は水に棲むので防火のお呪いとしたそうです

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本堂に古い経典が置いてありました。
赤盆に載せて、行事で読む経典でしょうか、カバーの柄が
古そうですね。

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欄間には、板を切り抜いた布袋さんの絵が飾ってありました。
所々に節がありますが、時が経てば気にならなくなりますね。
無節の木材より節があったほうが丈夫だそうです

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東照寺の本尊は、東方薬師瑠璃光如来です。
秘仏で厨子に祀られています
厨子の両側には、十二神将が武器を持って本尊を守っています。
何故、薬師如来の周りには十二神将がいるのでしょうね。

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閻魔大王のような姿の十二神将もみえました。
彩色が煤けて古い仏さんのようですね

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実は、この十二神将は修理したばかりだそうです
全くそのように見えませんね
時を経て朽ちてゆく仏様を、姿を変えずに残してゆく
古色仕上げという方法で修理をしたそうです

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この達磨さんは、修理したことが一目瞭然ですね
古色仕上げは、このように綺麗に色づけをしてから古く見えるように
汚すそうです。

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和尚さんは、色々考えて修理してから先住和尚さんの法事を
行いました。
なるべく変わらないように、遺すように・・・
代々の和尚さんに法事で伝えるのでしょうね。

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たくさんの和尚さんがお経を読みながら歩いていました。
昔と変わらない、同じ道を歩むという意味でしょうか

先祖のお参りに、何も変わらない境内に入ると安心したり
自分の過去を思い出すこともあります。
それはなんとなく《ふるさと》にも当てはまる良さですね。

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菩薩さんが何か考えているようですね。
ゆっくり行こうかな」と

傷んだ瓦に朽ちかけた塀
歴史を感じるには、やっぱり新しいより古いほうが良いですね。

次は、歴史を感じる大徳寺に戻ります

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いい寺《信州伊那街道 飯田の山寺》

今回のいい寺は・・・
天竜川の流れる信州伊那街道・飯田の山寺です。

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JR天龍峡駅から見た天竜川です。
諏訪湖を水源とする天竜川は侵食によって伊那谷を
形成して静岡県から遠州灘へと注ぎます

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天竜川は木曽山脈と赤石山脈に挟まれて、昔から
暴れ天竜」と呼ばれ、流域では水害に悩まされて
きました
特に伊那谷の出口付近(JR天龍峡駅)で川幅が
狭くなり、頻繁に洪水の被害を受けたそうです。

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天竜川の侵食により河岸段丘になった平地には
田植えを終えた水田が一面に広がっていました。
太陽に照らされて、稲の緑が自然の恵みを
頂いている感じですね

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斜面には飯田特産のリンゴ園
土地を有効に使っていますね。
長野のリンゴは蜜をたっぷり含んで美味しいです。

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夕方でもみなさん畑仕事に精を出していました。
昔は何処でも見かけた風景ですね。
「暴れ天竜川」共存して大地の恵みを頂いて暮らしていく
エコな生活の原点ですね。

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秋の収穫に向けてリンゴの木を育てています。
作物を育てるには、最初に手間を掛けること
それが肝心ですね。

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おばあさんも元気に野良仕事をしていました。

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伊那谷の街道沿いには、昔ながらの農家が点在して
います。
塀や土蔵の《なまこ壁》がとてもいい雰囲気ですね。

※なまこ壁は平瓦を貼り付け、格子型になった目地の
  部分を漆喰や馬乗り型や四半型に盛り上げて塗ります。

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水田と屋敷
絵になる風景があちらこちらにありました。

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地域の環境や歴史によって建物に特徴がありますね。
屋敷の門や蔵、住居の造りが同じような農家が
多く見られました。

山間部では日照時間が短いため、生活空間に日が
当たるように工夫してあるのでしょう
そして、土地を有効に使うために住居は谷に並行した
向きに建てられていました

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この天竜川の東岸に陽徳山・東照寺があります。
東照》は東から昇る朝日を表します。
陽徳山は、作物が太陽の恵みで育つように私達の
心にも陽が当たり徳を頂きましょうという意味でしょう。

また、東の方角には薬師瑠璃光如来がみえるそうです。
1日の始まりに瑠璃光に照らされて日々の健康を願う
そんなお寺でしょうか!

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鐘楼門は鐘楼部分の屋根の軒が深いため小さいながらも
立派に見えます。
自然災害と闘いながら土地を開いてきた先祖を祀る寺院。
この鐘を鳴らせば、先祖にも私達にも同じ音が響き、
この音を介して心がつながるのでしょうね

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東照寺から山を登った所に立派な鐘楼門が建つお寺が
ありました。
蒼龍山・保壽寺です。
鐘楼門の扁額には「返照楼」と書かれていました。
《返照》とは夕日のを表します
向返照』という仏教用語では、外に向かって探求しようと
する心を自分の内側に向け返して自分を照らすと説明
してありました。
一日を終えて自分自身を見つめなおそうという意味ですね!

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鐘楼門には今にも跳びかかりそうな獅子。
愛嬌のある顔の彫り物がありました。

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山に囲まれた境内でドウダンツツジの緑が浮雲のようです。
庭の手入れが大変でしょうね。
いつ訪れても変わらない境内・・・
維持することは、変えていく事よりも難しいでしょう。
そのおかげで、境内に入ると心が落ち着いて清々しい
気持ちになれます

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苔むした境内には六地蔵が祀られていました。
長い年月のなかで風雨にさらされてきたのでしょう
風化して輪郭がわずかに残るだけですね。
この姿が、お寺の歴史の古さを感じさせます。

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こんなお地蔵さんの方が、温和な感じで良いですね。
時間とともに苔むして変化していく姿。
私達も同じように一日一日、変わっていくのですね。

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お寺から見える伊那谷と木曽山脈の風景です。
山の向こう、西の彼方には先祖がみえる《西方浄土》が
あります。
ここの梵鐘は、伊那谷の人々と西方の先祖に響き渡る
のでしょうね。

そして、伊那谷の西側に沈む太陽を眺めて、
一日の無事を感謝して先祖に手を合わせる場所なのでしょう

東照と返照・・・二つの光を頂けばご利益がありますよね。

次は、変わりゆく時代のなかで寺を守る姿についてです

 

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京都 新旧散策 寺町通り

今回のいい寺は・・・
京都 新旧散策寺町通りです♪

現在の通り名としての《寺町通り》の誕生は、天正18年(1590)。
豊臣秀吉による京都大改造計画の一環で、洛中に散在していた
寺院をこの地の東側に移転させたのがきっかけで《寺町》の
名前が付きました。

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寺町通りには老舗が集まっています。
長年愛された逸品も、時代にマッチした新作も・・・
京のほんまもん》に出会えます

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エコバッグとは違う、「折って結んで、運ぶ
風呂敷は豊かな日本人の知恵を感じます

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かわいい和雑貨はどれも欲しくなってしまいますね

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セレクトショップ《torinouta》
2階に上がるとフランスのお菓子、カナダの蜜蝋キャンドル、
オーガニックコットンのインナーなど店主が欧州から
見つけてきた雑貨で埋め尽くされていました。

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おしゃれな訪問着や着物地を使った和小物のお店です

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骨董品店で店主の説明に聞き入る人も

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お茶の文化が成熟している京都で誕生し、以来290年にわたって
愛され続けている日本茶専門店《一保堂茶舗》です。
扱っているのは、上品な香りとまろやかな味わいが特徴の
宇治製法によって作られた京銘茶です
全て試飲することができます。

喫茶室ではおすすめの淹れ方を教わり、自分で淹れてみる事で
その香りや味を楽しみながら感じることができます♪

古い町並に交じって、普段使いのレストランや
セレクトショップが点在しています。
ため息がこぼれるほどの逸品ぞろいの老舗と、
活気あふれる旬の人気店が仲良く軒を連ねています。

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作家ものを中心に、ハイセンスな雑貨をセレクト

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シンプルな陶器はいくつでも集めたくなりますね♪

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作り手の遊び心が感じられる《蓮盃》

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外国のキャンドルとはひと味ちがう雰囲気の日本の
和ろうそく
最近は華やかな絵ろうそくも見かけますね。

こんな《和》もあった!と感じさせてくれるお店でした。

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アンティークショップで見つけライトはどこか幻想的な
雰囲気でした

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新しくOPENしたホテル《SCREEN》のロビーです。
一室ずつ異なるデザイナーが手がけた部屋は全部で
13室。

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ホテル内のセレクトショップではブリザーブドフラワーや
オーガニックのコスメなどが売られていました。

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美しいカラーのグラデーションが印象的なインセンス。
昔ながらの香木とはまた違うスタイリッシュなお香ですね。

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寺町通りは、斬新な店伝統を守る店が共存していました。
そこに、京都の寛容さが窺えますね。
大きな数珠が玄関先に飾ってあった《安田念珠店》をのぞいて
みました

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色とりどりの数珠がありました。
専門店だけあって種類が豊富ですね。
宗派によって使う数珠が違うそうです。

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目に留まった《本珊瑚念珠》です。
この淡いピンク色の珊瑚は、私達が普段見るサンゴとは
違って海底の深いところに生息しているそうです。
大変貴重なものなのですね。

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数珠屋さんの前には《矢田地蔵尊 矢田寺》がありました。
寺町通りや新京極には小さなお寺や神社が点在しています。

通りに面した腰掛けに座る二人
仲の良い二人は何を願っているのでしょう

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提灯の赤が華やかですね。
ここの大日如来のご利益で幸せになれますように・・・

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御堂の前には、鰐口の横に梵鐘がありました
この寺の梵鐘は六道珍皇寺の『迎え鐘』に対して『送り鐘
と呼ばれています。
亡き人の霊(塊)を冥土に送る鐘だそうです。
安らかにいってください」との願いを込めて鳴らすのでしょうね。

梵鐘は、大晦日の除夜の鐘や時を伝えるためにあると思って
いましたが、鐘にも色々な意味があるのですね!

次は、鐘楼門の似合うお寺を訪ねて長野・飯田市に行ってみます♪

一保堂のお茶を頂きました。
 いい寺★《家お茶①》はコチラ↓
  e-tera.net/Entry/5/

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高桐院★千利休とファッション

今回のいい寺は・・・
高桐院★千利休とファッションについて♪

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京都の寺院では、和服で訪れている方をよく見かけます。
さすが京都は和の都

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高桐院の本堂前でたたずむ着物姿の女性
本堂の影、毛氈の赤、庭の緑が着物を引き立たてますね
この庭にも千利休から譲り受けた春日灯篭があります。

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千利休豊臣秀吉が欲しがりましたが、灯篭に傷を付けて
天下人に似合わぬ」と断りました

しかし、ただ断るためだけに灯篭をつけたのでしょうか…
その後に譲り受けた細川忠興も傷を付けて《欠け灯篭》と
名を付けました。

商売では、商品に少しでも傷がついていたら欠陥商品
扱いされて返品か値引の理由になりますね。

それをあえて傷をつける理由とは・・・

千利休が求めた美の世界とはどんなものだったのでしょうか。

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高桐院の本堂の裏、千利休が建てた書院《意北軒》です。
この建物で欠け灯篭の《意》を探ってみたいと思います

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この建物は千利休の邸宅を移築したといわれています。
建築当初から土にイカ墨を練りこんで煤けた壁に仕立て、
その壁に雨漏りのにじみや、板張りの痕を見せて古びた風情
したそうです。

新しさと古さという対照的なものが共存する空間

千利休はこの部屋に時間を塗りこんだのかもしれませんね。
今見ても、ただ古くなった建物とは雰囲気が違いますね。

千利休は欠け灯篭やこの書院のように、完成されたものや
華やかなものより、朽ちたものや、足りないものを好んだようです。

これが千利休の《》に対しての考え方なのでしょう。
千利休の懐の深さや、遊び心が見えてきますね。

そういえば、私達も遊び心のあるファッションを楽しんでいますね。

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今から30年前、ドイツ・ケルンの見本市で脚光を浴びた
ジーンズがあります。
ストーンウォッシュ・ジーンズ》です。
鹿児島産の軽石とジーンズを洗濯機に入れて回す
ことにより、新品ながら履きこなした味わいを出すことに
成功して新しい流行を生みました

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その後、履きジワや、バーナーで焼いたりかぎ裂き
つけたりしたダメージデニムへと変化していきました。

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最近のデニムはペイントが施されたデザインも
よく見かけますね。

千利休のお茶デニム・・・
時代が異なっても共通するところがありますね

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金閣寺でも着物姿の女性を見かけました
京都を訪れると私達が忘れかけている和心に出会うことが
できますよね。

京都の寺社仏閣には全国から、海外からたくさんの観光客が
みえます
京都には今に通じる文化が息づいていますね。

次は寺町を散策してみます♪

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いい寺★細川家菩提寺・高桐院

今回のいい寺は・・・
細川家菩提寺・高桐院です♪

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楓の庭で有名な京都 大徳寺・高桐院
新緑の瑞々しさを感じさせる境内ですね
参道正面の中門も茅葺の屋根が苔むして、侘びた雰囲気を
醸し出していました。
禅宗は、自然と調和した素敵な寺院が多いですね。

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ここは細川忠興が父・幽斎の菩提所として関ヶ原の合戦
翌年に創建したお寺です。
武家社会では、各本山に塔頭寺院(菩提所)を創建する事が
一種のステータスでした

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細川忠興は関ヶ原の合戦の功績により豊前中津藩
加増国替えとなりました。
そこで、九州・豊前中津藩に移る前に大徳寺に菩提所
造り、妻ガラシャの葬儀を行いました。

※中津市(大分県)から豊前市(福岡県)の山並みと山国川を
 撮った写真です

 両市の間を流れる山国川の上流には、耶馬溪青の洞門などの
 景勝地があります

 今は、大麦の刈入れ時です。
収穫した大麦は麦焼酎の原材料になります

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豊臣秀吉千利休に所望した春日灯篭
欲しいものは何でも手に入れようとする豊臣秀吉。
織田信長の妹・お市の方の娘・茶々(淀君)を側室に
した豊臣秀吉。
細川忠興は朝鮮出兵中に豊臣秀吉が妻ガラシャに手を
出さないかと心配で「気をつけるように」と手紙を
出したそうです

豊臣秀吉の欲深さが、夫婦の関係を壊してしまった
のでしょう。
細川ガラシャは大阪屋敷で、監禁状態の生活を
強いられましたね。

そして、関係を修復することなく、ガラシャは細川家の
ために命を落としました
細川忠興の悲しみは深いものだったでしょうね…


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豊臣秀吉が手にする事が出来なかった春日灯篭
細川忠興は、この灯篭を千利休から譲り受けて
妻ガラシャの墓にしました。

豊臣秀吉から妻ガラシャを守った思いが、この灯篭を
墓にさせたのでしょう。
しかし、彼女の心を守ることはできませんでした

その悔いからか、春日灯篭を常に近くに置いて、
行く先々にも持参したそうです。
形は変わりましたが、やっと本能寺の変以前のように
妻ガラシャと向かい合うことができたのでしょうね。

灯篭は細川忠興の遺言で夫婦の墓として高桐院に
祀られました。
あの世では、夫婦円満に暮らしたいと願って・・・

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高桐院を訪れたシスターです。
夫婦の灯篭の前で観想していました

クリスチャン細川ガラシャは命を落とし、細川忠興を
目覚めさせましたね
夫婦の間にあった大きな溝を埋めることが出来ました。
そして、夫忠興の心に愛の種を蒔いたのでしょう

今、灯篭としてここに二人の墓があるのも、その結果
かもしれませんね。

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愛の殉教者、細川ガラシャ

大徳寺・高桐院の境内に墓所がありますが、こうしてシスターが
観想する姿を見ると、彼女への思いに宗教の垣根はありませんね。

歴史に翻弄されながら、今は静かに立つ灯篭・・・
お参りする私達にもキリストの愛を授けてくださるようです。

次は灯篭を細川忠興に託した《千利休》についてです♪

紅葉の季節の高桐院はコチラ↓

  いい寺★高桐院①
  e-tera.net/Entry/36/

  いい寺★高桐院②
  e-tera.net/Entry/37/

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