いい寺★玉造教会と細川ガラシャ

今回のいい寺は・・・
戦乱の世に散った細川ガラシャです。

大阪城の南側、玉造に《大阪カテドラル・聖マリア大聖堂》が
あります。
元細川家の屋敷内に建てられた教会です
ここは細川ガラシャ(玉)に関係した教会です。

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ガラシャは明智光秀の三女です。
織田信長の勧めによって細川家に嫁ぎ、細川忠興の正室
なりました。
本名は、細川玉(珠)です。

二人は仲の良い夫婦で二人の子に恵まれましたが、
父・明智光秀が本能寺の変で織田信長を討ってしまいました。

その日から、逆臣(謀反人)の娘として苦しい日々が始まりました。
明智家以来の小侍従や細川家遠縁の侍女を伴って、丹後の
山奥に幽閉されてしまいました

「身を隠す 里は吉野の 奥ながら 花なき峰に 呼子鳥鳴く」
細川玉が幽閉中に詠んだ歌です。

※細川忠興は、逆臣の娘として殺されないように幽閉の名目で
匿ったそうです。

時代は違っても、被害者の家族も加害者の家族にしても
苦しみは大変なものですね。
加害者の家族は、土地を追われるように離れていくことも…

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越中井です。
大阪城の近く越中町にあった細川家屋敷跡です。
細川玉は二年後に豊臣秀吉の取り成しで大阪屋敷に
戻りました。
しかし、細川忠興は玉が外部と接触することを禁じた為
生活は幽閉時と変わらなかったようです。

豊臣秀吉によって許されても、身内によって監禁状態に
されていては、辛いですよね。
そして愛した夫には側室ができて、心の支えも失ってしまいました。
側近の者は、一生懸命に彼女を支えて励ましたのでしょう。

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細川玉の侍女頭は、細川家の遠縁で洗礼を受けていた
清原枝賢の娘マリヤ(洗礼名)でした。
マリヤによって細川玉は、キリストの教えに触れて心が
惹かれていきました。

どんなときでも神は見捨てずにいてくれますよ
キリスト教が彼女にとって救いの手となったのでしょう
家族にしても教えにしても、私たちは支えがないと生きていけませんね。

「生きて死ぬ智慧」の著者・柳沢桂子さんも病気の苦しみの
なかで般若心経と出会い、
般若心経は雨に濡れた私にさす傘でなく、雨雲を散らしてくれて
 私をカラッと晴れた気持ちにさせてくれました

と述べていました。

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監禁状態であった細川玉は、夫・細川忠興が豊臣秀吉の
九州征伐について出陣している間に、密かに教会へ
教えを聞きに行きました

苦しみの闇でこそ人の光は美しく輝く、
 そして感謝の気持ちで受け入れる

神父の言葉に感銘を受けた細川玉は、その場で洗礼を
受けることを懇願しましたが、身分を隠していたので
願いが叶いませんでした

その後、侍女達を教会に通わせて洗礼を受けさせ、
毎日一緒に祈りを捧げました
いつしか洗礼をと願っていたのでしょうが、九州征伐中の
豊臣秀吉が《バテレン追放令)》を出したため、教会で洗礼を
受けることはできなくなりました。

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そこでイエズス会神父の計らいで、侍女頭マリヤの手に
よって屋敷内で洗礼を受けることができました。

洗礼名《ガラシャ》(神の恵み)
苦しみすら感謝の気持ちで受け入れるキリスト教によって救われる
細川玉は《細川ガラシャ》となって謙虚で明るい性格に
なったそうです。

しかし、喜びはつかの間、すぐに悲劇が訪れました。
大名のキリスト教信仰が禁止されるなか、細川忠興
侍女達のキリスト教改宗を知ったのです
激怒した細川忠興は、改宗した侍女の鼻を削ぎ、屋敷から
追い出してしまいました。

細川ガラシャの苦難の始まりだったのでしょう。
そして歴史は関が原の合戦へと向かっていきました。

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細川忠興は東軍に付いたため、石田三成が細川ガラシャを人質に
取ろうとしました。
しかし、細川ガラシャはそれを拒み、家臣に自分を討つように命じました。

ちりぬべき 時知りてこそ、世の中の 花も花なれ 人も人なれ

本能寺の変で逆臣の娘となり、キリシタン禁止令が出されたなかで、
ガラシャを支えた侍女達を失い、人質となることは到底受け入れられる
ことではなかったのでしょう。

今が神のもとに行く時とさとって、命の果てる道を選んだ
思いました。
散り際の妙というものでしょうか。
細川ガラシャによって細川家は守られました。

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焼け落ちた屋敷からオルガンティノ神父がガラシャの骨を拾い、
堺のキリシタン墓地に埋葬されました。
後に細川忠興は神父に依頼して教会葬を行い、キリスト教を
受け入れなかった細川忠興も葬儀に参加したそうです。

その後、遺骨は大阪の宗禅寺へ改葬され、墓所は何箇所かに
造られました。
そのひとつが京都 大徳寺・高桐院ですね。

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玉造の聖マリア大聖堂には、細川ガラシャを慕う方が訪れて
いました。
細川ガラシャの人生と向き合い、みなさんそれぞれに思うところが
あるのでしょうね。

次は、再び大徳寺・高桐院を訪れてみます

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いい寺★徳川家と真田幸村

今回のいい寺は・・・
徳川家と真田幸村です。

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今は市民の憩いの場として整備された茶臼山周辺♪
のどかな風景で、ここが合戦の舞台だったとは
思えませんね

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茶臼山も深い樹木に覆われて、当時を偲ぶものは掲示板と
六問銭》(ろくもんせん)の旗があるだけでした

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《六問銭》は真田家の家紋です。
この六問銭、徳川家康・秀忠親子は痛い目にあいましたね。

関ヶ原の合戦では、徳川秀忠が信州上田で真田昌幸・幸村
親子の作戦で足止めされ、徳川家本隊が合戦に遅延して
しまいました

関ヶ原の合戦は、徳川家康を討とうと石田三成が豊臣家の
家臣に号令を掛けたのが始まりでした。
しかし、人望が無かったのか、徳川方につく家臣も多かった
ですね。
徳川家康はこの戦に勝って豊臣家を追い詰めようと考えた
のでしょうが、徳川家本隊の遅延により西軍・石田三成対
東軍・反石田三成の豊臣家家臣の内輪もの形になって
しまいました。

徳川秀忠は、父家康にそうとうお灸を据えられたそうです

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そこで、大阪冬・夏の陣で徳川秀忠は、関ヶ原の合戦
徳川家康が本陣をかまえた大垣市・岡山と同じ地名の
場所を探し出しました
現在の生野区・岡山古墳を本陣としたのです。
「今度こそ名誉挽回!」という気持ちの表れでしょうね。

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地元の銘菓《御勝山》です。
大阪夏の陣で勝利した後、岡山(おかやま)は徳川秀忠の
命で、《御勝山(おかちやま)》と地名が変わりました。

現在この地域は生野区勝山町になっています。
大垣市の岡山も徳川家康によって「御勝山」と地名が
変わりました。

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大阪夏の陣の徳川家康です。
古文書を調べると茶臼山も「御勝山」と記されています。
冬の陣では徳川家康の本陣となった茶臼山は、夏の陣では
真田幸村の陣となりました。

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真田幸村は冬の陣では大阪城の南側に攻撃の拠点となる
真田丸を築いて徳川方を打ち負かしました

夏の陣では、大阪城の堀が埋められて防御力が
無くなったので城を出て茶臼山に陣をかまえました。

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勇猛果敢に敵を攻める真田隊。
ただ、豊臣家の存続を願い・・・

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六問銭》は本来、亡き人の三途の川の渡り賃です。
三途の川の渡り口に「脱衣婆さん」がいて白装束以外の
すべてを奪ってしまいます。

その代わりに《六問銭》だけは持たせてくれるそうです
「地獄の沙汰も金しだい」と言われますが、余分なものを
捨てた証にもなりますね。

真田家の《六問銭》は、地位や領土の欲を捨てて戦い抜く
意気込みを表しているのでしょう

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大阪夏の陣でも真田幸村は活躍しました。
数的に劣勢だった真田隊でしたが、《六問銭》の旗のもと、
高い戦意と捨て身の攻撃で徳川家康を三度追い詰めました。

あと一歩というところで討ち死にしてしまいましたが、
十字軍の十字架のように《六問銭》が真田幸村と真田隊に
力を与えたのでしょう

自分の身を捨ててでも守ろうとするものがあったとき…
人は想像以上の力を発揮しますね

次は、自分の命と引き換えに、家を守った《細川ガラシャ》に
ついてです。

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いい寺★大阪《一心寺》

今回のいい寺は・・・
大阪の一心寺です♪

大阪冬の陣で徳川家康が本陣を構えたのが茶臼山
でしたね。
その茶臼山に隣接したところに古くて新しいお寺
ありました

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写真は浄土宗・一心寺の山門と仁王様です
ブロンズ製の仁王様は初めて見ました。
現代的で躍動感がありますね

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ここはお骨佛の寺・納骨と《おせがき》の寺といわれています。
納骨堂は沢山のお参りで線香の煙が一面に立ち込めていました。
絶え間なくお参りの方が訪れていました
どなたでも、いつでも納骨と先祖の法要をお願いできるそうです。

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納骨堂に祀られているのが《お骨佛(おこつぶつ)》です。
納骨された「お骨」約15万~20万体で一体の佛
造立されます。

約10年に一度、新しい《お骨佛》が祀られるそうです。
右手前が新しい《お骨佛》ですね
亡き人は、三途の川を渡って仏になるそうですが、
この世で仏(お骨佛)になりましたね・・・

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子供がおじいさんに教わって線香に火を点けています
堂内の《お骨佛》の造立年と何年に納骨した方のお骨佛で
あるかという案内がありました
どの《お骨佛》が身内の骨の仏様なのかが、分るように
なっています。

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本堂内では「おせがき」の法要が行われていました。
「おせがき」とは施餓鬼のことで、亡くなった人が六道の中の
餓鬼道に落ちないように、追善の供養を行うのが「おせがき」の
意味です。
お釈迦様が弟子の目連尊者に諭しました。
自分さえ良ければ、身内さえ良ければと考えれば
 餓鬼道に落ちてしまいますよ。』

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お骨は《舎利(シャリ)》といいます。
米粒もシャリといいます。
ご飯は私達の主食ですね。
舎利礼文というお経に「一心頂礼、萬徳円満・・・」と
書いてあります。

「一心に手を合わせて、皆さんの心が一つ(円満)になりますように」

これが、お釈迦様の教えの真髄・コツ(主食)でしょうね。
本堂前には私達の心を乱す邪鬼がいました
「自分だけ、身内だけ」という心を持たないように・・・

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境内を出て道を渡ったところに、一心寺三千佛堂
あります。
どなたでもお参りできます
外から見ても圧倒される黄金の仏様ですね。

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手前の仏様は干支を司る十二神将です。

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三千佛の祭壇の内側は講堂になっていました。
中央祭壇には、西域の峰々の向こうから現れた大きな
阿弥陀三尊
ここで、日曜学校法話説教が行われています。
お布施(浄財)は、布教(教え)という形でみなさんに
お返ししているのですね。

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演芸ホールもありました。
ここは、時代に合わせて積極的に新しいことに挑戦している
お寺ですね!

法然上人と後白河法皇がこの地で「日想観」を修せられて
から、庶民のお寺として歴史を刻んできました。

都会の寺、田舎の寺、大きな寺、小さな寺・・・
いろいろないい寺がありますね!!

※お釈迦様の弟子《目連尊者》についてはコチラ↓
  e-tera.net/Entry/91/

※東寺の《邪鬼》についてはコチラ↓
  e-tera.net/Entry/104/

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いい寺★大阪散策

今回のいい寺は・・・
大阪の街を散策してみました

大阪市内には、茶臼山古墳や、聖徳太子の四天王寺
豊臣秀吉の大阪城など、歴史的な魅力がたくさんありますね。

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大阪城にある豊臣秀吉像です
年老いていますが、天下を取った力強さが伝わってきますね
生誕地・名古屋にもないほど立派な像に、大阪の人の
豊臣秀吉への思いの強さを感じました。

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豊臣秀吉の果たした夢《天下統一
大阪を中心に豊臣家の繁栄を願いましたが、悲しくもここが
滅亡の地になってしまいましたね。

江戸時代から明治になって、豊臣秀吉人気が盛り上がり
豊臣家を滅ぼした敵・反徳川家康という形が出来上がりました。
今でも「世の中が悪いのは、徳川家康のせいや」と
冗談半分で語るそうです。

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大阪冬・夏の陣で合戦の舞台となった茶臼山です。
冬の陣では、徳川家康が本陣を構え、夏の陣では
豊臣方・真田幸村が陣を構えました
ここが、戦いの要所だったのですね。

茶臼山に架かるこの橋は「和気橋」といいます。
朝鮮、韓国、日本の融和を願う《百済さん・和気山統国寺》に
ちなんだ名前で、平和への架け橋の意味があります

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聖徳太子は四天王寺を建立するにあたって、百済から職人を
招きました。
その職人が《金剛組》となって度重なる焼失のなかで四天王寺の
再建を担ってきました

世界最古の企業といわれてきましたが、現在は新・金剛組として
宮大工の技術を守っています。

仏教伝来とともに多くの朝鮮文化が渡来して、日本の文化に
取り入れられました。
文化をもたらした百済人のおかげで、四天王寺は国際交流の
中心地になったのかもしれませんね。
その文化交流の歴史を伝える祭《四天王寺ワッソ》が毎年
行われています。

ワッソとは『来た!』の意味だそうです♪

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茶臼山の堀の向こうになにわのシンボルタワー《通天閣》が
見えました
池には噴水があって、ここは市民の憩いの場になっています。
現在、茶臼山は天王寺公園の中にあります

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公園内にある大阪市立美術館では聖徳太子ゆかりの名宝展
開催されています。
河内三太子、叡福寺、中野寺、大聖勝軍寺に伝わる聖徳太子に
所縁のある貴重な宝物がありました。

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大聖勝軍寺の木造四天王像です。
平安後期の作ですが、日本の四天王とは雰囲気が違いますね。
大阪は渡来文化の上陸地として、朝鮮との関係が続いていたのでしょう。

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『南無』と手を合わせる幼い聖徳太子です。
頭が大きいけれど、顔つきはおとなびた顔をしていますね。
このように目をつりあげるのはかしこさのサインです。
こどもらしさとかしこさ。
この二つを一緒に表すのはよっぽど優れた作家でないと
なかなか難しいそうです。

太子信仰を今に伝える立像や、生涯を表した絵図、文化財等に
ふれて、時間を忘れて見入ってしまいました

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鶴橋に向かっていく途中に韓国の寺院・観音寺がありました。
黄金仏に鮮やかな装飾品、そしてたくさんのお供えもの
堂内の雰囲気が日本の寺院とは違いますね。

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鶴橋は韓国に行ったような気分になれます。
キレイなチマチョゴリですね
最近の若い韓国人はチマチョゴリを着る機会が少ないそうです。
結婚式や特別な行事のときにしか着ないと聞きました。

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会社帰りのお父さん♪
お土産か、晩酌の肴を買っているのでしょうか

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ここには韓国、朝鮮の食材や料理の店がたくさんあります

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アーケードの中にも仏様を祀って、お参りする場所がありました
おじいさんのお参りする姿にも温もりを感じました。
形にとらわれずに信仰する気持ちが持てたらいいですね。

大阪散策は、まだ続きます

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いい寺★大阪《四天王寺》(3)

今回のいい寺は・・・
和宗本山・四天王寺です♪

四天王寺は聖徳太子によって創建されてから今日まで
太子信仰舎利信仰浄土信仰を大衆教化の柱にしてきました。

四天王寺には平安時代から鎌倉時代に起きた宗派の開祖が
こぞって参籠(一定の期間こもってお祈りする)した事でも有名です。

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特に最澄がここに借住してから天台宗との関係が深く、
戦後まもなくまでは天台宗に属していました。

現在は「聖徳太子の寺」の原点に戻り、天台宗から独立しています。
そこで、聖徳太子の十七条憲法の第一条
和を以って貴とし、忤(さからう)ことなきを宗とせよ
から《和》の一字をとって『和宗』本山となっています

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亀井不動です。
聖徳太子が亀井の水を覗かれるとそこには不動明王の御姿
映っていたため、ここに不動尊を祀ったのが起源とされています。
みなさん水をかけてお参りしていました。
台座に付いた深い緑の苔が信仰の深さを感じさせますね

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境内には、聖徳太子にご縁のある仏様以外にも、四天王寺に
参籠した各宗派の開祖が祀られていました。
和宗とは、日本の仏教の『和』という意味もあるのでしょう。

伽藍内の講堂では、天台宗・最澄、真言宗・空海、時宗・一遍、
融通念仏・良忍、浄土真宗・親鸞、臨済宗・栄西の法要を順番
に行っています。

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境内では、写生会の人たちが作品について談笑していたり・・・

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参詣者が弘法大師に向かって般若心経を唱えていました
四天王寺は四国八十八ヶ所の番外です。

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同行二人」八十八ヶ所の巡礼は弘法大師と一緒に歩む事です。
弘法大師の杖から伸びる紐を通して、それを感じるのでしょう
弘法大師空海はここに借住して、西門で西の海に沈む夕陽を
拝して、西方極楽浄土を観想する(思い浮かべる)日想観》と
呼ばれる修行を行いました

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四天王寺の西に建つ《極楽の門》です。
この門への参道がメインストリートとなっています。
門の向こうに鳥居が見えました
写真は境内から見た極楽門の裏側ですが、西方浄土を観想する
時には、こちらが入口になり、表側となるのでしょう。

昔はこの近くまで海で、春、秋の彼岸・中日には鳥居の方向の
水平線に太陽が沈みました
彼岸の中日には日想観の法要が行われ、多くの参詣者が
西に向かって手を合わせるそうです

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西門・石の鳥居の扁額には『釈迦如来転法輪処 当極楽東門中心
と記されていました。
空海の後、最澄が借住してからは天台浄土思想とも結びついて
極楽浄土の東門として四天王寺は浄土信仰の中心となりました。
鳥居も境内に入るときは手前の門ですが、拝むときは奥の門という
ことになりますね。

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中心伽藍の北に鐘楼があります。
このお堂の鐘は《引導の鐘》といいます

鐘の音は遠く極楽まで響き、彼岸には先祖供養のための
鐘の音が絶えないそうです。
極楽に導く鐘の音は、鳥居の向こうの浄土に響くのでしょうか。
それとも五重塔に祀られた先祖に向けて響くのでしょうか・・・
四方に響きわたる鐘の音は私達の心も含めて、全てに届くの
でしょうね

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掲示板には聖徳太子の御言葉が書き記してありました。
今の世の中、垣根を作ったり、仲間を区別したりすることが
多いですね。
以前に「勝ち組」「負け組」と線引きする言葉もありました。

賢い愚かは丸い輪に端がないように決められません

人生は勝ったり負けたり、賢かったり愚かなことをして反省したり…
ただ、過去を引きずらずに前向きに歩みたいですね。

今度は、四天王寺の西、茶臼山に行ってみます

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いい寺★大阪《四天王寺》(2)

今回のいい寺は・・・
庶民の寺・四天王寺です♪

ここは聖徳太子が建立した寺院ですが、格式ばった
ところがなく、人々が思い思いにお参りできる雰囲気が
ありました

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中之門から入る参詣者です。
四天王寺には、南大門、東大門、極楽門、中之門、乾門
とたくさんの入口があります。
それぞれの門に歴史や意味があるのでしょう。
中之門の左の建物は、四天王寺中・高等学校です

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聖徳太子をお祀りしている六角堂(天王寺のご廟)です。
聖徳太子は四天王寺を建立するにあたって
四箇院の制》を作りました。

四箇院とは次の四院です。
敬田院・・・仏法修行の道場
施薬院・・・病者に薬を施す場所
療病院・・・病気の者を収容し、病気を癒す場所
悲田院・・・身寄りのない者や年老いた者を収容する場所

ここは修行と施しの実践の場として建てられたのですね。

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中央伽藍の北に六時堂と石舞台がありました。
堂内には薬師如来が祀られています。
手前の石舞台は、日本三大石舞台(住吉神社、厳島神社、
四天王寺)の一つで、聖徳太子の命日には、この舞台で
雅楽が行われます

聖徳太子が四箇院を建てた遺志は、現在、四天王寺学園、
四天王寺病院、四天王寺福祉事業団として受け継がれて
います。
キリスト教の宣教の精神と通じるものがありますね

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六時堂から僧侶が出てきました。
昼夜6回に亘って諸礼賛のお勤めを行い「六時礼賛堂
と呼ばれています
ここが四天王寺の中心道場となっています。

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極楽浄土の庭がある五智光院では・・・
大阪歯科大学解剖体慰霊祭が行われていました。
より良い医師・歯科医師になるために、自分の身体を使って
十分に勉強してください。

という願いを込めて無条件・無報酬で献体された方々に
感謝する慰霊祭です

学生は人体解剖学により知識の習得と同時に責任と自覚
持ち、大きな精神的教育を受けるそうです。
ある宗派の管長から医学生に転職した方が、
初めての人体解剖学の授業で、顔と手にメスを入れるのが
辛かった

人体解剖学を境に、同級生の取り組む顔つきが変わった
と述べていました。

献体という崇高な理念の上に医学が存在しているのでしょうね

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重要文化財の湯屋方丈が、慰霊祭の参詣者の休憩場と
なっていました。
お茶の準備が何気ない心づかいを感じますね。

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湯屋方丈の前庭です。
補陀洛の庭」と名づけられています。
観音菩薩のみえる《補陀洛浄土》をあらわしています

極楽浄土の庭園は、廻りながら教えを学びます
季節の花が咲き乱れるこの庭の美しさから《極楽浄土》へ
往生したような感動があるそうです

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極楽の池に浮かぶ三石は、阿弥陀三尊を表します。
園内を散策すると阿弥陀三尊に招かれて極楽浄土
到達します。

ここの庭は、池泉回遊式庭園になっていました
夏には、キレイなが咲くそうです

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釈迦の滝です。
この流れが二手に分かれて瑠璃の池・極楽の池に注がれます。
その二つの流れを、貪りを表す「水の河」怒りを表す「火の河」
といいます。

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この真ん中の道が極楽の池へと導かれるように続いています。
この道が極楽浄土への道《中道》となります。
貪りも怒りも水に流してあゆみましょう
色々と囚われた物を捨てながらの散策ですね

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火の河」ではすずめが何も知らずに水浴びをしていました。
すずめには、神も仏も教えも関係ないのでしょうね。
本来、生きる智恵は学ばなくても備わっているものなのでしょうね

世の中がもっと平穏であったら、このスズメのように過ごせるでしょうね
教えを学ばなくても自然に助け合い、分かち合うことができれば
どんなに素晴らしいことでしょう

もうしばらく四天王寺の境内を散策してみます

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いい寺★大阪《四天王寺》(1)

今回のいい寺は・・・
大阪の信仰の中心地四天王寺》です。

四天王寺は聖徳太子によって建立された寺院です。
飛鳥時代に建立した寺院で《太子の寺》として代々権力者が
帰依してきました。

大阪の中心にあるため度々戦火に見舞われて焼失して
しまいましたが、その度に直ぐに再建されました
度重なる災難に遭いながら、多くの信仰を集めたことが
うかがえますね

江戸時代に焼失した折には、幕府の力を借りずに大阪町人の
財を集めて再建されました。
そのことから大阪庶民の寺大阪の仏壇》といわれています。

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四天王寺は三門、五重塔、金堂が一直線に配置され、
周りを回廊で囲む飛鳥時代の伽藍形式をしています。

全国には聖徳太子に関係した寺院が沢山ありますが、
聖徳太子が建立した寺院は四天王寺と奈良・法隆寺
2ヶ寺です。
法隆寺は、世界最古の木造建築物として当時の伽藍を
遺しています。
四天王寺は、度重なる焼失と再建を繰り返しながら
当時の伽藍を伝えています。

その歴史の違いから法隆寺は文化財として守られ、
四天王寺は時代に合った形で身近な信仰の場所
なっています。

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伽藍の講堂です。
静かに、そして一心に手を合わせて拝む方がみえました
ここは、歩んだ歴史の違いから、法隆寺のように観光で
訪れる人よりも、家族の幸せや先祖の冥福を願う参詣者が
多いですね

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伽藍中央の金堂です。
堂内には救世観音を中心に四天王が祀られていました。
ここで塔婆(とうば)による祖先供養が行われます
四天王寺の僧侶が、戒名を唱え先祖のご供養をしていました。

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ここでも信者さんが、一心に手を合わせてお参りしていました。
皆さんの思いが先祖に伝わると良いですね

塔婆の語源は、インドのサンスクリット語で「ストゥーパ」です。
ストゥーパは、お釈迦様のお墓で《仏舎利塔》とも言います。
ストゥーパには「積み重ねる」という意味もあります。
この塔婆に戒名を書いて追善供養を積み重ねて亡き人の
冥福を祈ります。
※《仏舎利》とはお釈迦様の遺骨のことです。

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五重塔です。
最初の建立から八代目の塔です。

お釈迦様は《私ではなく、私の教えを信じなさい》と言って
亡くなりました
それから500年間、お釈迦様の姿を形で表す事はありませんでした。
その代わりに《仏舎利塔》や仏足跡蓮の花でお釈迦様の
存在を感じ、信仰の支えや心のよりどころとしました。

そして仏舎利塔は、中国から日本に伝わり五重塔などの
塔になったそうです

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塔の中は螺旋階段になっていて最上階まで上れます。
壁には塔の形をした位牌が祀られていました。
木造と鉄骨の建物の違いは、外観からでは分りませんが
内部は全く違いますね!

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最上階に仏舎利が祀られていました。
聖徳太子が創建したときには、塔の礎石心柱の中に
仏舎利六粒自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納めたそうです。

仏舎利は紀元前2世紀、阿育王(アショカ王)が仏教を世界的
宗教にするため、王舎城大宝塔から仏舎利を八万四千
分けて各地に派遣された僧が仏教伝播とともに広めました。

日本では東京・浅草寺名古屋・日泰寺などにも仏舎利が
祀られています

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亀井堂の井戸です。
この井戸は聖徳太子の時代からあるそうです。
金堂の基壇下の青龍池より引いた清水が亀の口から出ています。
金堂で供養した塔婆をここに持ってきます。
塔婆をこの水で清めてこの世の垢』を流しているようでした。

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水供養により亡き人が清められて安楽往生するのでしょう
亀の甲の水盤の中に入れた塔婆は直ぐに浮いてきます
それを見て家族は「ああ、これで浮かばれた」と思うそうです。

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ロウソクの灯りが幻想的でした
闇路を照らす灯明で、道に迷わない様にとの願いでしょうか…

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亀井戸の本尊・地蔵菩薩は私たちが困っているときや、
亡き人が迷っているときに救いの手をさしのべる仏様です。

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ここでは、女性職員が一生懸命に塔婆の供養をしていました。
地蔵菩薩に代わって、この役を務めているようですね。

寺院にお参りするときは、自分の事よりも先ず先祖の供養や
亡き人の安楽往生を願いますね。
それが仏教の良いところで、相手を敬う気持ちが自然に
芽生えてきますね

四天王寺の散策は続きます

※浅草寺《仏舎利塔》についてはコチラ↓
 いい寺「浅草寺①」
 e-tera.net/Entry/6/

カテゴリー: 大阪 | 12件のコメント

イタリア★グッチ家《家族の支え》

今回のいい寺は・・・
イタリア グッチ家《家族の支え》です♪

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GUCCIはイタリアの老舗高級ブランドです
海外セレブはもちろん、日本でも多くの方から愛されていますね。

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グッチの創設者グッチオ・グッチは1922年にフィレンツェ
革製品の店を開きました
当時の革製品は馬のサドルが中心でしたが、革製旅行用鞄を
一流職人に作らせるようになると、フィレンツェを訪れた旅行者
の心をつかみ評判になったそうです

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グッチを世界的ブランドに築き上げたのは、二人の息子アルド
ルドルフォでした。

アルドはGUCCIの二つの(グッチオ・グッチのイニシャル)を
かたどったマークを考え、ブランドの付加価値を高めることに
努めました。

ルドルフォは映画俳優になることを夢見ていましたが、挫折して
しまい、父の救いの手で家業を手伝うことになりました。
そこで、俳優時代の伝を頼って、オードリー・ヘップバーン
ソフィア・ローレンに頼んで顧客になってもらいGUCCIの名を
高めました。

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当初は順調に業績を伸ばしていきましたが、同族経営の中で
考え方の違いや、優劣の関係でお互いに足を引っ張るように
なり、経営権はグッチ家のもとから離れていきました

会社が小さいうちは助け合うことが出来ても、大きくなると
助け合い支えあうことが難しいのでしょうか。
いつの時代でもそのような話がありますね。

ルドルフォは妻に殺され、アルドは息子に裏切られ一族はどん底に
落ちてしまいました。
その中で一筋の光明がさしました
アルドのもう一人の息子ロベルトとその家族がグッチ家を再興しようと
新しいブランド「Hause of Florence ハウス・オブ・フローレンス」を
立ち上げたのです。

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ロベルトにも苦悩がありました。
兄弟の裏切りもありましたが、自分たちが作る製品にグッチの名が
使えない
ということでした

そんな失意のロベルトを支えたのが彼の家族でした。
若い息子たちは新しいブランドを立ち上げて、もう一度父ロベルトと
共にグッチ家の再興を願ったのです
その姿がNHKスペシャル「家族の肖像・失われたブランド」で
取り上げられていました。

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ロベルトを支える家族の中で長女だけがシスターの道に入る
場面が印象的でした。
兄弟からは、「何故一人だけ家族から離れて違う道に行くのか」
と非難を受けていました。

しかし番組の最後にロベルトが娘のいる修道院を訪ねて
娘の懐に抱かれて神に祈る場面で彼女の思いを理解しました。

父を温かく抱きしめる娘。
グッチ家の再興は弟達に任せて、彼女は家族の心の支
なるためにシスターの道を選んだのでしょう

南山大学の司祭も物質的な豊かさの中で、心が疲弊している
現代社会において宗教者のなす役割について述べていました。

多治見修道院のマリア様のように私たちを全身で受け入れて
くれる存在、心のよりどころとなる家族や信仰が必要なのでしょう。

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ローマで出逢ったシスターマリアです
クリスマスイブにバチカン市国サンピエトロ大聖堂
ローマ法王により執り行われる《クリスマスミサ》に
参加したいと思い、色々と調べました

クリスマスミサに参加するには、整理券が必要だという
事は分かったのですが、肝心の管理事務所が見つからず
色々なところへ国際電話をかけました

あるイタリア人の方が電話で事務局の連絡先を教えて
くれました。
巻き舌の英語だったので聞き取るの難しかったです

教わった番号に電話をかけるとシスターマリアが出て、
興奮したのと同時にほっとしたのを覚えています。

詳細をメールで頂き、そこには
「楽しくて、実りの多い旅になりますように!」
そして見ず知らずの私に向かって
「あなたの幸せを祈っていますよ」と書かれていました。

ローマに着き、地図を片手に教わった住所を見つけ彼女に
会えたときは大げさかもしれませんが、感激してしまいました。
「日本からよく一人できましたね。あなたを待っていましたよ!」
と素敵な笑顔で私を迎え、ハグをしてくれたからです

人の温かみってこういうものなのだなと感じることが出来ました。

次は「信仰する人々」について大阪の街に行ってみます

※日本にも宗教の道で生きる事を貫いた女性がいます。
  いい寺《道を貫くこと》はコチラ↓
  e-tera.net/Entry/75/

カテゴリー: ★イタリア★ | 8件のコメント

イタリア★フィレンツェの《額縁職人》

今回のいい寺は・・・
イタリア・フィレンツェの《額縁職人》です。

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信仰の対象には十字架だけでなく、絵画もありますね

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ミケランジェロ広場から見た《ベッキオ橋》です。
昔は街中に職人がたくさんいました。
メディチ家のおかげで、フィレンツェの文化や芸術が花開きました
それにあわせて職人が育っていったのです。

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信仰の対象としてのモノが作られていく・・・

信仰があって、芸術が生まれて、文化が育ち、
そして職人が腕を磨いていきますね

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十字架やキリストの生涯を描いたもの、ステンドグラスや
フレスコ画など・・・

宗教を教える手段としての《道具》が生まれて、そこから
繊細で緻密なものへと変わっていきます。

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中心となるキリスト(十字架であったり、マリア様であったり)は
変わらないけれど、そのまわりを飾るものが豪華になれば
なるほどそれ自体(絵画など)が素晴らしいものに見えてくる
のではないでしょうか。

信仰の対象となるものが素晴らしいものになればなるほど、
必要とされる職人がいます

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フィレンツェの職人街を歩くと、日本ではあまり見かけない
ような珍しい工房がたくさんありました。

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その中のひとつである額縁工房では、かなりの部分に機械を
使っていて、単純な形の額縁を量産しているところもあれば、
全て手作りでこつこつと作業している工房もあります。
また、古い額縁の修復をしている工房もありました

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額縁は、本来縁飾りにしかすぎないはずで、ひとつひとつの
工房もあまり大きくはありません。
しかし、工房の数が多いことからも、イタリアでは重要な役目を
果たしてきたことがうかがえます

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美術館を訪れたときは、中の絵にすっかり気を取られていて
額縁までじっくりと眺める余裕はありませんでした。
改めて額縁だけを見ていると、その多様性や見事さに圧倒
されてしまいました

大広間などに飾られているような絵画に使われている額縁は、
豪華絢爛で中の絵と一体になって辺りを燃え立たせている
ようです。

時代が経つにつれて、額縁は控えめなものに変わっていきます。
それがまた、周囲から絵を引き立たせていました。

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イタリアに限らずヨーロッパの建物の中では、家庭でもオフィスでも
絵を飾ることは極めて日常的ですね。
そして画廊や展覧会で絵を購入したら、市販品ではなく、
新しい額縁をオーダーすることも多いそうです。

それに比べて日本の家庭でも職場でも掛けてある絵の数は
はるかに少ないように思います
西洋絵画や日本画の画廊が賑わっていたり、額縁や表具師の店
訪ねたりするということもありませんね

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フィレンツェでも額縁製作という職人仕事を理解してくれる人が
だんだん少なくなっています。
額縁は絵を保護し、それでいて決して違和感を与えることの
ないものですね。

なにより大切なのは、中の絵の価値を損なわないだけの十分な
芸術性を持っていることですね。
ルネッサンス美術の名脇役をしっかりと果たしてきたのです。

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信仰と芸術が伝統として息づいている街・・・
ヨーロッパには、そのような街がたくさんありますね。

そして、宗教が文化を育み、職人を育てていのでしょう。
日本も以前には、各地にそのような町や村があったと思います。
私たちも宗教や文化を大切にしていきたいですね

次はイタリアの《グッチ家》についてです♪

※日本にも寺を中心にした職人街があります。
  いい寺【東別院界隈②】はコチラ↓
  e-tera.net/Entry/32/

  いい寺【東別院界隈①】はコチラ↓
  e-tera.net/Entry/31/

カテゴリー: ★イタリア★ | 9件のコメント

イタリア★革の学校《サンタクローチェ教会》

今回のいい寺は・・・
イタリア《革の学校サンタクローチェ教会》です♪

教会は地域のコミュニティの中心的役割を担っています
今、この世界で生きている人々を如何に正しく導くか・・・
宗教の本来の意味は、この部分にあるのでしょうね!

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イタリア・フィレンツェ中心部から少し南東、アルノ川に近い
サンタクローチェ教会》は、13世紀にフランチェスコ派の
修道士が建てた教会です

昔から教会で使う本・物入れ・靴・袋物など色々な革製品
作っていました。
この修道士達は革工芸の専門家集団として、かなり知られた
存在で、技術も一流だったそうです

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サンタクローチェ教会を訪れると、奥には昔の修道院から
技術と伝統を受け継いだ工房《革の学校》があります。
ここは観光客が自由に見学できる工房と売店になっています

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《革の学校》が出来たきっかけは・・・
第二次世界大戦後、戦争によって残された戦争孤児たち
でした。

教会の中にある工房《革の学校》とは、実はこの戦争孤児
たちに技術を身につけさせ、そして世の中で独り立ちできる
ようにと、戦後間もなく開設された施設でした。

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経営にあたったのは神父さんの他、一般から募集した
革職人たちが先生となって働いていました。
マエストロ》と呼ばれるような優秀な人材ばかりだった
そうです。

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戦後、《少年の町》というものが作られました。
少年たちに一つの自治区を与え、彼ら自身でそこを治めて
いくということにより、健全な社会生活のルールを身に付け
させるといった趣旨のものです。

混乱した戦後社会の中で行き場を無くしたり、非行に
走る戦争孤児たちを救い、健全な成長を助けるための
場として評価され、たくさんの子供が参加しました。

しかし、将来本当の社会の中でどうやって自立させる
べきかという大きな問題が発生しました。

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そこで、修道院が持っている革工芸の技術をもとに、
徒弟学校を作り、子供達に革職人の技術を身につけ
させ、自立させようとしました。

一人前になるのには、4~5年かかりましたが、結果は
大成功でした。

フィレンツェにある有名な革製品会社・グッチ
フェラガモなども、卒業生を採用してくれるようになりました。

中には自分で店を開き、今では立派な経営者になっている
卒業生もいるそうです。

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80年代になると、イタリアでは、手工芸に従事する
職人の世界を大きく変えるような出来事が起こりました。

法律が変わり、若者をほとんど無給に近い形で働かせ、
その代わりに仕事を覚えさせるということが出来なく
なりました。

見習いに給料を払わなければならないのは、採算に
合わないと、徒弟をとる工場が急激に減っていきました。
また一方で、この時代になると、イタリア経済の急激な
発展とともに若者の職人離れが目立ってきます。
技術の継承が難しくまりました。

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革の学校》も、経営は教会の手を離れ、徒弟養成工房
から、授業料を取って革工芸全般を教える私立の
革細工技術者養成学校になりました。

地元のイタリア人はほとんどいなくなり、世界中から
生徒が集まってくるようになりました

先生たち、つまり『マエストロ』たちは、毎日せっせと
仕事に励み、作ったものは売店で売る。
バッグ類と革製の箱が主たる製品であり、その製作を
手伝ったり見習ったりするのが授業です。

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学校には『マエストロ』=先生がいました。
デザイナーも兼ねているので、型紙も自分で起すそうです。
しかし、デザインのことばかりを考えるのではなく、
部品となる革の性質を知り尽くしていなければ、
いざ組立というときにうまくいかないそうです。
ハンドバッグ一つでも、何十という革や金具の部品を
寄せ集めて作らなければならないからです

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自分たちは職人だから何かを創造する、ひとつの物を
作り上げていくという過程に満足感があるのだ。

だそうです。
決して同じ仕事の繰り返しではないそうです。

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機械は作業を助けてくれるけれど、機械を全面的に取り入れて
いるような工場は、例えば財布を作るにしてもある人は裁断、
ある人はポケットばかりを担当することになります。
そこで働く若者は、仕事全体を習わないことになります。

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革の質を見分けるのも革職人の大切な仕事です
最近は革製造の技術が進み、良いものと悪いものとの
見分けがとても難しくなったそうです。

革の良し悪しを判断するには、見て、手で触れてみて、
経験で判断する・・・方法はこれしかないでしょうね。

『仕事を覚えるのは難しいよ。
パッシオーネ、つまり熱心にやることが必要なんだ。
熱心に、熱心に、熱心に。』

次はイタリアの職人街を散策したいと思います

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