いい寺『等持院』

今回のいい寺は・・・
等持院です★

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等持院駅は、北野白梅駅から京福電鉄嵐山線で一駅です
北野白梅町、等持院、竜安寺道、妙心寺、御室、高雄口・・・
京都に観光で行ったら一度は訪れたい寺が駅名になっていますね。
等持院駅を過ぎて竜安寺道で降りると歩くこと5分で等持院へ

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竜安寺道で降りてすぐの場所にうどん屋『笑福亭』があります。
作家の井上靖が学生時代に通っていて、「きつねうどん」を
よく注文したそうです
店内には「養うは、これ春の如し」と井上靖が晩年に書いた色紙が
あります。
水上勉も等持院の弟子時代にここの「きつねうどん」を食べたそうです。
竜安寺の近く、衣笠山には立命館大学があり、今でも学生が
通っています。

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等持院の周囲は住宅地となっていて、観光客の姿はあまり
見かけません。
山門の雰囲気からは、格式の高さはあまり感じませんが…
ここは足利尊氏からの足利家の菩提所です。

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参道を潜っていくと、最初に目に付くのがこの銅像です☆
日本映画の父」として知られたマキノ省三です

境内にマキノの映画製作所があったそうで、記念に顕彰会が
銅像を建てたそうです
マキノ省三の孫に俳優の長門裕之津川雅彦兄弟がいます。

テレビの番組でクレーン車に兄弟で乗り、祖父の銅像を丁寧に
掃除している場面がありました。
その時、弟津川雅彦がマキノ姓を名乗って「寝ずの番」の製作・
監督をしたそうです。

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マキノ省三の銅像を過ぎると、等持院の伽藍が見えてきます
ここが水上勉が学生時代三度目に世話になったお寺です。
ここから旧制花園中学校に通い、等持院裏の立命館大学に
進学しました
俳優、長門裕之も花園高校、立命館大学を同じ道を歩みました。

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庫裏の裏には二階建ての書院があり、水上勉はこの二階に
住んでいました。
境内の裏には立命館大学が隣接しています。
現在、一階は拝観者の呈茶席となっています
二階へは上がれませんが見晴らしは良さそうです。

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水上勉もこの庭を見ていたのでしょう
この庭は「夢想国師作」と伝えられています。
この庭を眺めながらの学生生活は彼に落ち着いた日々を
送らせたかもしれませんね。

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等持院の伽藍修復にあたって、寄進者芳名の中に
水上勉の名前もありました
ここは、足利尊氏以来の足利家の菩提所ですが、
伽藍の維持をするのが大変だそうです

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話を伺ったところ、この庫裏を修復するのに・・・
昭和39年に寄付のお願いを始めてから昭和50年まで
かかったそうです。

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朽ちていく歴史的建造物を維持していくことは大変でしょうね。
その苦労が寄進者の心に伝わり、時間がかかっても多くの
浄財が集まったのでしょう。

修復にかかる費用は、新築と大差は無いそうです。
しかし、古い建物は味わいがあり、私達の心を癒す不思議な
力があると思います。

水上勉がここの弟子になって、やっと心が癒されたのでしょうか、
等持院にはよく訪れていたそうです。

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水上勉の世界★雁の寺

今回のいい寺は・・・
水上勉の世界を覗いてみます

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水上勉は福井県の大飯町という海辺の村の大工の家に
生まれました。
地元の西安寺住職の紹介で、相国寺・瑞春院へ9歳の時に
預けられたそうです。

水上勉はここから仏門へ入ったのですね
瑞春院での経験が、小説『雁の寺』として世に出ました
『雁の寺』で直木賞作家となり、瑞春院も実際に雁の襖絵が
あることから【雁の寺】として有名になりましたね。

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水上勉は小僧生活をしながら宗門の旧制・紫野中学に通いました。
紫野中学は大徳寺・相国寺・東福寺が合同で運営した徒弟教育
為の学校でした
大徳寺に隣接する場所にあった為『紫野』と校名が付いたのですね。
現在は、府立紫野高校がこの地にあります。

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大徳寺の参道から、西の弧蓬庵に向かう途中に
府立紫野高校があります。
参道の両側には、石田三成の菩提所で
長谷川等伯が襖に絵を描いた三玄院
千利休の菩提所・聚光院
豊臣秀吉が織田信長の
菩提所として建立した総見院
細川三斎の菩提所・高桐院があり、
歴史と文化を肌で感じる事ができますね!

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弧蓬庵へ続く参道の坂道です。
水上勉もこの道を歩いて学校へ通ったのでしょうか
紫野中学の在学中に、瑞春院での小僧生活に耐え切れず
飛び出してしまいます

その頃の体験が小説『雁の寺』で描かれています
水上勉は同じ山内の玉龍庵住職に拾ってもらい、その後も
紫野中学へ通うことが出来たそうです

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石垣を学生が組んで造ったのでしょうか。
府立高校と宗門の徒弟教育の学校では、雰囲気が
全然違うでしょうね。
旧制・紫野中学は財政難から廃校となり、水上勉は同じ宗門の
花園中学へ編入しました。

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花園中学の通う頃には、衣笠山の麓にある等持院にお世話に
なっていました。
そして花園中学の後輩が金閣寺に火を放ってしまいました。
水上勉にとっても衝撃的な事件だったのでしょう
水上勉は、その犯人の生い立ちにふれて「金閣炎上」、
五番街夕霧楼」を書き上げています

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大徳寺の参道から上がった坂の上に弧蓬庵があります。
ここは小堀遠州が創建したお寺です。
水上勉は弧蓬庵を『雁の寺』の舞台としました

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山門の前には立派な堀があり、下界と遮断された独特な世界が
中にあるような気がしますね。
苔むした石垣が時代を感じさせます。
通学途中に外から見た弧蓬庵の雰囲気から、ここを小説「雁の寺」
としたそうです。

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小堀遠州が創建した弧蓬庵は寛政5年(1793年)の火災により
焼失してしまいました
その後、遠州を崇敬した大名茶人・松平不昧が古図に基づいて
伽藍を再建し現在に至っています

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弧蓬庵はに囲まれていて、大徳寺から離れた場所にあります
この境内の空気を吸えば、私達も日々の悩みを忘れて時を
過ごすことができそうですね

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境内には小堀遠州好みの茶室忘筌(ぼうせん)があります
「魚ヲ得テ筌ヲ忘レ」
筌は魚をとるための道具で、
目的を達すれば道具の存在を忘れる』という意味です。
目的が達成できれば、そのための道具はもう用がないですね。

茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事を知るべし
いつまでもその道具に執着しないようにという考えだそうです。

水上勉は小僧生活の辛さを忘れる事が出来なかったのでしょうか。

もしかしたら金閣炎上事件が、当時の記憶を心の奥に焼きつかせた
のかもしれませんね。

この静寂な境内と小説『雁の寺』の内容の隔たりが、水上勉の
苦悩の大きさを表しているような気がしました。

水上勉の足跡を訪ねて等持院に行ってみます

※長谷川等伯が描いた襖絵の話はこちら↓
  e-tera.net/Entry/82/

※織田信長の墓がある総見院の話はこちら↓
     e-tera.net/Entry/35/
  

※雁の寺・庭園編↓
  e-tera.net/Entry/73/

※雁の寺・雁の襖絵編↓
  e-tera.net/Entry/74/

※冬の高桐院↓
  e-tera.net/Entry/57/

※紅葉の高桐院①↓
  e-tera.net/Entry/36/

※紅葉の高桐院②↓
   e-tera.net/Entry/37/ 

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名古屋の春(2)

今回のいい寺は・・・
名古屋の春の続きです

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桜ばかりに目が行ってしまいますが・・・
百花繚乱★草木が一気に動きだします♪

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利休梅です。
白くてかわいい花が咲きます
明治になって中国から輸入されたそうです。
茶花として使われる事から【利休梅】と名が付いたのでしょうか。

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枝垂れ桜の開花はまだのようです。
名古屋の桜は、寒緋桜、ソメイヨシノ、枝垂れ、ボタン桜の順番に
咲きます。

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最初に咲く寒緋桜です
緋色より濃いピンク色ですね。
花の形がソメイヨシノとは異なります。

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名古屋城の外堀の近くには、たくさんの寒緋桜が植樹してあります。
全国的にソメイヨシノが一番沢山植えられていますので、他の桜を
見かける機会が少ないですね。

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名古屋城から見た名古屋市役所と愛知県庁です。
左の屋根が尖った形の高い建物が市役所です。
右の桜の木の上に少しだけ屋根が見える建物が県庁です。

周囲に高い建物が無かった頃に、これらの庁舎を「名古屋城」
と勘違いした方がいました。

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遠くから見ると市役所も県庁も名古屋城と屋根の感じが
似ているからかもしれませんね。

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確かな美術品が揃っている場所が名古屋にもあります
徳川家の歴史的文化財が残る徳川美術館です。
美術品の良さを肌で感じる事ができる場所です★

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美術館がある徳川園の桜も見ごろでした
門から覗くと門が額縁のように見えます

ここはボタンの花が有名で、4月の終り頃1番賑わいます。

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徳川美術館の近くに修行僧の道場があります。
春になると新しい修行僧が門を潜って道場に入っていきます

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新しい道に入るのは、簡単ではないようです。
1日中動かずに入門をお願いしている様子です

一休さんの話でも修行道場への入門は大変そうでした。
どの道に行くにせよ、初めは苦労をしますよね。

水上勉も寺での小僧生活を終えて、修行道場に入る予定
だったのでしょうか。

和尚さんになっていたら「飢餓海峡」「五番街夕霧楼」
「金閣炎上」も世に出なかったかもしれませんね。

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名古屋の春(1)

今回のいい寺は・・・
名古屋の春です★

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春本番となってきました。
いつの間にか桜も見ごろとなっていますね

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桜は山木ですから樹木の緑が混じった方が味わいがあります。
桜の雲海に立つ名城病院
桜はどの風景にもマッチしますね

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植樹した桜の中でソメイヨシノが一番親しみやすいですね
ただ木の寿命が桜の中では短いそうです。

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名古屋城のお堀の周りには立派な桜が沢山あります
桜の咲く姿は、江戸時代の華やかな尾張藩を想像させ、
散る景色は、江戸から明治への時代の変化を感じさせます。

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お堀の風景です。
桜色一色もステキですが、彩色豊かな風景もまた春の楽しみですね。
水面に太陽の光が眩しく輝くのもいいですね

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枝垂れ柳も新芽を吹いて風に揺れています
蛙はまだ冬眠中でしょうか
柳に蛙といえば小野道風ですね。
平安時代の方で、書の三蹟の1人と言われています

何度失敗しても必死に柳に飛びつこうとした蛙が、ついに
成し遂げた姿を見て小野東風は書に励んだそうです。
古川柳に「蛙からひょいと悟って書き習い」と歌われています。

ちなみに小野東風は小野小町の従兄です。

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名城公園内の雑木林はまだ冬の景色ですが・・・
春の日差しを受けて土の中では生き物が動きだしているでしょう。
大地は樹木が芽吹く前にしっかりと日光浴ですね

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街中の樹木の方が芽を吹くのが早いですね。
官公庁の並ぶ道は、道幅が広く樹木もしっかり伸びています。

今こそ残された自然を大切にしたいですね

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太陽の光を浴びる白い花
自然の輝きに勝るものはないですね!

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淡いピンクの花が無機質な建物を和らげてくれます。
暫くの間、疲れた私達を春の息吹が癒してくれそうです♪

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木蓮の花と目連尊者

今回のいい寺は・・・
木蓮と目連尊者です★

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木蓮の花は大きくて見応えがありますね
は水辺に咲く花ですが、木蓮の花の咲き方は
空中に浮いているように見えますね。

蓮の花のように大きくて白い花が太陽の日差しで一層
鮮やかに見えます♪

梅の花が終わって桜が咲く直前、春の彼岸が見頃の花です。

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木蓮と同じ呼び名で、お釈迦様の十大弟子の一人に
目連尊者】がいました。
神通力に優れたお弟子さんです。

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ある時、目連尊者は、亡くなった母がどの世界(六道輪廻)に
いるのかを神通力を使って覗いて見ました。

六道とは 地獄道 畜生道 餓鬼道 修羅道 人間道 天界道
 の六つの道です。
 私達はこの六つの道で生死を繰り返すという教えです。

母のために目連尊者は一生懸命に供養を行いました
当然、心を込めて行ったので母親は当然の如く天界
いるだろうと思いました。

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しかし、母は戦争と飢餓でやせ細ったアフリカの子供達の
ような姿で餓鬼道に落ちていました。
目連尊者は、何故に母が餓鬼道に落ちたのかお釈迦様
尋ねたそうです

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お釈迦様の答えは明快でした。
「お母様は、あなたを育てるために、他を省みずに施しを
 行いませんでした。
 あなたは自分の親だけ救われる事を願い、お母様の
 供養だけしかしませんでした。

 餓鬼道とは自分さえ良ければ周りの事は如何でも良い
 という考えです。
 だからあなたのお母様は今、餓鬼の世界にいるのですよ。」

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諭された目連尊者は、心を改めて、ご縁にかかわらず諸々の霊の
供養を行いました。
そして修行中の僧侶にも施しを行いました。

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その後、目連尊者のお母さんは天界へと上る事ができました。

この目連尊者の話が、お盆に先祖の供養を行う形となって
今に伝わっています。

春のお彼岸に咲く木蓮の花が、私達に供養のあり方を
説いているみたいです。

この椿の花のように心が美しく輝きますように

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いい寺★大河内山荘を歩く

今回のいい寺は・・・
『嵐山大河内山荘を歩く』です♪

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大河内伝次郎は大正・昭和の役者で
サイレント映画の大スターです
当たり役は、なんと言っても「丹下左膳」です。
大河内伝次郎が6千坪の土地に30年の歳月を
かけて造営した別荘です
東映時代劇など晩年の出資で稼いだギャラは、
大半が造営に注ぎ込まれました

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神殿造りのような立派な造りです
茅葺の屋根で品のある建物ですね。
建物の良さは屋根の造りで決まるみたいです

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山荘からの眺めです
京都市内が一望できます!!
ここは、藤原定家小倉百人一首の選歌をした
小倉山の山麓にあります。

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大河内伝次郎は、母の影響で仏教に帰依して最初に
この「持仏堂」を建てました
そして、34歳の若さで山荘の造営に取り掛かったそうです。
「持仏堂」では、仏教書を紐解き『南無阿弥陀仏』の念仏を
唱え坐禅をして心を整えたそうです。

「持仏堂」は「坐禅堂」とも言いました。

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多宝塔です。
山荘の至る所に仏教美術品が置いてありました。
まだ樹木が芽を吹いていないので、枝葉で隠れることなく
しっかりと見ることができます
これが、冬の京都の楽しみでしょうか

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あちらこちらで、仏さんに会いました。

大河内伝次郎が「持仏堂」を造営する事を決意したのは、
27歳で遭遇した関東大震災きっかけだったそうです
震災のショックから心の支えを必要としたのでしょう。
関東大震災が人生の転機だったかもしれませんね。

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山荘内の庭園を巡りながらふと口ずさんでいました。

曲がりくねった道の先に 待っている 幾つもの小さな光

まだ遠くて見えなくても 一歩ずつ 

ただそれだけを信じてゆこう

そして、ふと思いました。
大河内伝次郎が遺したものは、地位や名誉ではなく・・・

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このだったのかもしれない、と思いました。

見晴らしのよい展望所からの下り道です。
石畳の道が色々と変化していきます。
道は一本ですが、次から次へと道の形が変わって
いきました

無声映画の大スターとして活躍し、後半は名脇役として
役者一筋に全うした大河内伝次郎の人生がこの道に
表されているような気がしました

そして、大河内伝次郎が山荘を訪れた人に

世の中が色々と変化としても、
 道を踏み外さないように歩んでください

と教えているような気がしました。

仏教の信者として、人生の歩み方を伝える為に、
この山荘を遺したのではないでしょうか

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彼には彼を支えた仲間達がいましたね。
それぞれの仕事に誇りを持っているのでしょう。
皆さんいい顔をしています

大河内伝次郎は、この支えによってスターとして、
そして名脇役として活躍をしました。

大河内伝次郎長谷川等伯辻口パティシエ・・・
それぞれ歩む道は違いますが、人生の転機がある中で
ひとつの道を全うするという意味では共通するところが
ありますね。

これからも、色んな方の人物像を探りながら
いい寺を探して行きます

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名古屋デザインと昔を偲ぶもの★

今回のいい寺は・・・
中村発・名古屋のデザイン文化です★

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名古屋の玄関口・名古屋駅は、中村区にあります
最近、高層ビルが建ち並び元気な名古屋の象徴になっています。

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愛・地球博より以前に、名古屋デザイン博がありました。
今から20年前ですが、その頃から名古屋も都会の
仲間入りをする為に頑張ってきました。

今、1番目を引く建物は「名古屋モード学園」 のビルです
スパイラルタワーと名がつくように…ねじれています★
初めて見たとき驚かされました

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豊国神社から見た大鳥居です。
中村区のシンボルです★
この鳥居を潜れないものは無いというくらい大きいです。
昔は、大きなものといえばこの大鳥居だったそうですよ!

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中村公園文化プラザの2階に豊臣秀吉・加藤清正記念館
あります。
戦国時代のダイエットスリッパみたいですね・・・
足半」といい、戦闘時に動きやすいように草鞋の後ろ半分を
省いたものです。
名古屋人の作る物は大きなものばかりではありません。
機能的なものもあります。

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豊臣秀吉の兜です。
飾りは孔雀をイメージしているのでしょうか?
手の込んだ作りですね。
これならよく目立ちますね

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名古屋銘菓 【両口屋是清】の『千なり』です。
普通のどら焼きですが、よく見ると・・・
豊臣秀吉の馬印千成瓢箪』が描かれています。
それで「千なり」。。。
豊臣秀吉に興味が無いと名前の由来は分かりませんね。

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豊国神社の手洗い場の蛇口です。
瓢箪から水が出てきます★

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中村区を散策すると・・・
朱塗りの壁の昔の建物がありました。
普通の民家より造りが頑丈に出来ているようです。
この辺りは遊郭だったので、昔を偲ぶ建物が残っています。
今では、料亭や医療関係や福祉関係の施設として活用されて
います。
新しいものだけでなく、昔の建物を残すために工夫をしていますね。

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立派な塀を見つけました
昔はこの塀で外界と仕切られた世界がこの中にありました。

向こう岸の彼岸(ひがん)に対して、こちら岸の此岸(しがん)・・・
サンスクリット語で彼岸【ハーラミー】に対して此岸【シャーハー
『シャーハー』が転じて「娑婆(シャバ)」になったと言われています。

娑婆はサンスクリット語で忍土の意もがあります。
この世は耐え忍ぶ娑婆世界で、遊郭の塀の向こう側に
 自由な別世界がある」
これが最初の使われ方でした。

しかし、塀の中で働く女性にとっては「娑婆」こそが自由な世界で、
いつの日か自由な娑婆世界に戻りたいと願う気持ちがありました。
そこから【娑婆】=「自由」といわれるようになりました。

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昔を偲ぶ建物の中には、悲しい物語が隠れている事もあります。
歴史を紐解いていくと全く違う真実が見えてくる事もあります。
その歴史を見るときには、その裏側を見ることも大切ですね

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春の花♪

今回のいい寺は・・・
春の花です

彼岸を迎えて色々なお花が咲き始めましたね

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春の花といえば菜の花ですね★
なんと言っても黄色が鮮やかです
菜の花のおひたしも美味しいですね!
司馬遼太郎も菜の花が好きだったそうですよ。
毎年命日を「菜の花忌」と言って故人を偲ぶそうです

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九州の筑後川の河川敷に咲く菜の花は一見の価値があるそうです。
一面菜の花畑というのもいいですね♪

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赤い椿
「あんこ椿は恋の花」なんて歌がありましたね★

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白い椿・侘び助椿と蝉の抜け殻を見つけました。
茶花として重宝されますね
白い花も綺麗です。
バラの花のようにも見えますね♪

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そして春の彼岸に咲く花は木蓮ですね。
秋の彼岸の花の赤とは対照的に白い花が絵になります。

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木蓮は、蓮の花のように大きな花を咲かせます。
咲く頃に決まって雨が降ります・・・
花は一瞬で散ってしまいます。。。
サクラの花より散るのが早いかもしれません。

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花には色々な種類があり、その咲き方も様々です。
一瞬の輝きを演出して散ってゆく・・・
散り際の良さと美しさ

いかに咲き、いかに散っていくか
花が私達に問いかけているようですね
この散り際に思いを寄せる日本独特の文化があります

良寛和尚は、辞世の句で
形見とて何か残さん春の花』と詠いました
花を見て私を思い出してくださいと言っているのでしょうか

彼岸にお墓参りをして、花を見て故人を偲ぶ
これが私たち日本人の良さでしょうね

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名古屋城と加藤清正

今回のいい寺は・・・
名古屋・中村区で生まれた二人の武将です。

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岐阜県東部から尾張名古屋を流れる庄内川です。
庄内川の水は堀川を通って名古屋城のお堀へと
流れています。
この川の下流・現在の名古屋市中村区から2人の
戦国武将が誕生しています

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その1人が皆さんご存知の豊臣秀吉です。
この誕生の地には、明治になって豊国神社が建立
されました。
江戸時代から明治に時代が変わって豊臣秀吉の
名誉が回復した証ですね

通りの名前には、太閤通り、千成通り、本陣通り、豊国通りが
あり、近隣の校名も豊臣小学校、千成小学校、本陣小学校、
豊国中学校、黄金中学校・・・とあります。
中村区は、豊臣秀吉の街という感じですね。

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豊国神社は中村公園内にあります。
誕生地には豊臣秀吉の兜をイメージした記念碑もあります。
この小川を見て
「この地から一つの時代が始まった」という雰囲気を感じました。

そしてこの地からもう1人の戦国武将加藤清正』が生まれました。

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中村公園に隣接する寺院・妙行寺には、昭和35年、350年忌の
際に建立した加藤清正像があります。
加藤清正のトレードマークである長烏帽子型の尖った兜を
被っています。
南無妙法蓮華経」と自筆で書いた数百枚の紙を張り合わせて
兜の下地に使用したそうです。
兜の前飾りの円形の中にも自筆の「南無法蓮華経」の題目が
記してあります。
加藤清正は熱心な日蓮宗の信者でした。

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加藤清正の像がある日蓮宗・妙行寺です。

加藤清正は徳川家康の命に従って、諸大名と共に
名古屋城築城に携わりました。
築城の折に出た余材と普請小屋(施行事務所)を
貰い受けました。
そして、自身の誕生の地に先祖と両親の菩提を弔う為に
このお寺を建立したそうです。

この地に建立したのは、親への感謝の気持ちでしょうか…
戦の日々の中、遠く肥後・熊本の大名となっても故郷への
想いは変わらなかったのでしょう。

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堂内には、肥後・熊本にある加藤家の菩提寺である本妙寺
第三世日遥上人が彫刻した加藤清正の木像が祀られて
います。

本妙寺・第三世日遥上人は、加藤清正が朝鮮出兵の折に
捕虜として日本に連れてこられました
後に加藤清正の人格に惚れて帰国せずに出家した方です。

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こちらは名古屋城を背にした加藤清正の像です
名古屋は尾張三英傑の街ですが、加藤清正の像は
1番目立つ場所にあります

※本像は、名古屋城築城にあたり、多大な貢献があった
  加藤清正公の業績を顕彰し、カゴメ株式会社創業80周年
  記念として、同社が製造しこれを名古屋市に寄贈したものです。

加藤清正豊臣秀吉の家臣であり、親戚でしたが、石田三成との
確執から東軍・徳川方につき勝利に貢献しました

しかし、豊臣家に対する加藤清正の想いは並大抵のものではなく、
豊臣家を一大名として存続するようにと奔走しました
そして、豊臣秀頼徳川家康を二条城で会見させて和睦を図りました。

ところが、加藤清正は二条城での会見から肥後・熊本に帰る船中
発病し亡くなってしまいました
徳川方の陰謀説もありますが・・・
その後、豊臣家は色々と因縁をつけられて、加藤清正の没後
わずか4年で滅んでしまいました。

※因縁をつけられた話はこちら↓
いい寺【方広寺・いいがかりをつけられた鐘楼】
e-tera.net/Entry/80/

加藤清正は世情を読んで徳川の天下になると確信した中で
豊臣家の存続を考えたのでしょう。

名古屋城の加藤清正像は太平の世を願う姿にも見えますね♪

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春の彼岸には家族で★

今回のいい寺は・・・
春の彼岸です♪

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この冬は、遅くまで寒波が来たのでいつまでも寒いような
気がしましたね

彼岸の入りの日ですが、水仙の花がまだ見られます。
今年は、水仙の花が咲くのが遅かったようです。

ギリシア神話では、美少年ナルシッサスが水面に映る我が姿に
見とれて、そのまま水仙の花になってしまったそうです

それで、自分の美貌に酔いしれる人を美少年ナルシッサスから
ナルシストと呼ぶそうです。
確かに水仙の花も少し下を向いていますね

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彼岸(ひがん)は向こう岸という意味で西方浄土を表します。
私達が住む世界はこちら岸で此岸(しがん)と言います。
西方浄土には先祖がいますね。

お彼岸先祖の供養にお墓参りをするのは、季節の変わり目に
彼岸と此岸で先祖と私達が向かい合うためです。

向かい合えば心は一つになり、背を向ければバラバラになる
と言いますね。
お彼岸はお墓参りに家族が集まる良い機会です

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七尾の有名な和菓子屋の子だった辻口パティシエは、小学生の
時に友達の家で初めてショートケーキを食べたそうです

あまりの美味しさに皿までなめてしまいました
自分がこんなに感動する食べ物が世の中にある事を初めて
知ったそうです。
「この感動だ!洋菓子だ!」との想いからパティシエの道に
入りました。

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会えなくなっていた父親の所在が分かり、入院している病院を
訪ねたそうです。

18年ぶりの再会でしたが、喧嘩別れになってしまいました。
そこで、自分の人生を賭けてコンクールで戦った作品『セラヴィ
を作ってもう一度会いに行きました。
この『セラヴィ』を食べてもらいたいとの想いが通じ、『うまい』の
一言で全てが水に流せたそうです

辻口さんは、和菓子店・和楽紅屋を開店し、武者小路千家
若宗匠とも交流を深めているそうです

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信楽焼の水指です。
武者小路千家の家元に名を付けてもらったものです。
「共蓋の釉薬の雰囲気から珊瑚を連想する」と伝えたところ・・・

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この水指に『』と名を付けてくださったそうです
珊瑚枕上両行の涙、半ば是れ君を思い半ば君を恨む
という漢詩から【】の一字を頂きました。

一つの涙にも色々な意味が含まれています。
恨む涙も転じて想う涙に変わるかもしれません。

一服のお茶が心を和ませるように

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お茶の点前では、水指が共蓋の場合、蓋に水を掛けて
茶室に運びます。
そして、点前の最初にその水を建水に切ります。

※建水・・・要らなくなった水を捨てる容器の事。

信楽焼や丹波焼の水指を使用する時には前日から水指を
水に漬けて水指自体にたっぷりと水を含ませます。
そうする事により美しく見えるそうです
蓋に水を掛けるのも美しく見せるためですね♪

「この水指を使用して悲しみを涙と共に流して晴々とした
気持ちになってください。」
』の名にはそんな意味も含まれているような気がしました。

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彼岸と此岸の間にはが流れています。
私達もお彼岸にお墓参りをして、心の垢を水に流したいですね

争いごとも水に流せば浄の字になります
皆さん円満に!ですね

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