余白の美に魅せられたパティシエ

今回のいい寺は・・・
《松林図》に支えられた辻口パティシエです♪

photo03.jpg

辻口パティシエがNHK日曜美術館で長谷川等伯の《松林図
について語っていました。

辻口さんは長谷川等伯と同じ石川県七尾の出身です。

初めて《松林図》に出会った時、能登の海岸の松林だと直感で
分かったそうです

a0cf0183.jpg

辻口さんは、七尾の和菓子店の三代目として生まれましたが、
18歳のときにお店が倒産してしまいました
その後、洋菓子店としてもう一度再建したいという強い信念で
都内のフランス菓子店やフランスのパティスリー・ベルタンで
修行を重ねたそうです。

そして世界大会で優勝する事が【夢を叶える道】だと確信し、
5度の世界大会に日本代表として挑戦しました

DSC_0695.JPG

「クープ・ド・モンド(ワールドカップ)」個人優勝を機に店を任される
話が舞い込んできました。
洋菓子店『モンサンクレール』開店へと順調に歩む事ができましたが、
お店の売上は思うようにはいかなかったそうです。

世界一の称号だけでは道は開けない事を知りました。

DSC_0477.jpg

長谷川等伯は世の中に自分の名を示すために大徳寺三玄院
門をくぐり、住職が留守中に襖絵を描くという行動に出て世間の
脚光を浴びました

辻口さんは洋菓子店『モンサンクレール』を世間に知ってもらうために
フジテレビの「料理の鉄人」で挑戦したそうです

パティシエとして初めて《鉄人》に勝利した事が話題となり、
お店を軌道に乗せることが出来ました

DSC_0690.JPG

そして自分の店を持ちたいというは現実となり、2年後に
モンサンクレール』のオーナーパティシエとなりました。

今では10のブランドを持つだけでなく、ケーキ作り教室を
開いたり社会活動にも取り組んでいますね

能登の震災時には自らたくさんのケーキを持参して被災者の
慰問に訪れました

辻口さんは、幼い頃からの自分を振り返りこう話していました。

「家を失い家族が無くなってしまい、子供の頃に色々なものを
 無くしたから、その悲しみを力に変えて進んできた。」

tohaku_pine00.jpg

長谷川等伯は祥雲寺の障壁画を完成させた直後に、
息子久蔵の死という絶望を味わいました。

その絶望の中で描いた作品が《松林図》です。

風雪に耐えながら立ち尽くす松と、霧の立ち込める余白。。。

華やかでない現実と【余白の美】・・・

それは辻口さんに安らぎと勇気を与えてくれるそうです。

余白をつくるのは難しいですよね。
色々描きたくなってしまいます・・・
それをあえて余白を作る事で、その余白の中で想像する事ができますね。

濃淡の使い方に迷いが無く、この余白が辻口さんの
心を映し出す鏡となっているそうです。

DSC_0691.JPG

自身の作品は形は無くなるが味が残る、心に残る。
 そこが松林屏風の余白に通じる
。』と話していました。

また祥雲寺の障壁画と《松林図》を描いた長谷川等伯と
自分の人生を重ね合わすそうです。

辻口さんが世界大会に挑戦した作品は飴細工の技法も
取り入れた祥雲寺の障壁画のような華やかなものでした

そして、長谷川等伯が華やかな絵の技法を捨てて、
水墨画《松林図》を描いたように【和の心を融合】させて
垣根を取り払った作品を目指しているそうです

辻口さんにとって《松林図》が心の支えであり
人生最大のライバルでもあるそうです。

DSC_0722.jpg

洋菓子『セラヴィ』です。

この真っ白な『セラヴィ』の表面には水滴のような飾りが
ついています。
私は茶道具の水指の蓋にかけた水を連想しました♪

辻口さんは、茶道の武者小路千家の若宗匠とも親交を深めて
いるそうです

次は、心を動かすお菓子の力です

長谷川等伯の華やかな障壁画についてはこちらを↓
e-tera.net/Entry/82/

カテゴリー: 京都 《文化》 | 2件のコメント

等伯【悲しみの中から生まれた松林図】

今回のいい寺は・・・
長谷川等伯・水墨画の世界です。

長谷川等伯祥雲寺の障壁画の依頼を受けて、長谷川派として
順風満帆の船出をするはずでした

しかし、そこには良き理解者である千利休と、跡を託すはずだった
息子・久蔵との永遠の別れがまっていました

5da801b7jpeg

長谷川等伯は、千利休によって大徳寺に出入りする機会を
与えられました
また、山内・三玄院の襖に絵を描いたのも千利休からの
助言があったかもしれませんね。
等伯の支援者である千利休と共に頑張ってきた跡継ぎ久蔵との
死別は、これまでの全てを失う程のショックだったのでしょう

DSC_0593.jpg

大徳寺には天下に名の知れた牧谿最大の傑作《観音猿鶴図
があります。
牧谿の絵は、細かい描写だけでなく、そこに湿度さえ感じさせます。
墨だけで空間を表現する素晴らしい絵ですね。
この絵は、長谷川等伯に新たな道を示しました

0a864e74jpeg

ところで《観音猿鶴図》には逸話があります

祥雲寺の本寺【妙心寺】と【大徳寺】に元の所有者からこんな
提案がありました。
遺産分けに《観音猿鶴図》と《50貫分の現金》のどちらかを
選ぶようにと話がありました

そして、妙心寺は現金を選び三門を造る資金にあてました

観音猿鶴図》はというと…大徳寺の所有となりました。

おかげで、大徳寺に出入りしていた長谷川等伯はこの絵を
拝見する事が出来たのではないでしょうか・・・

DSC_0596.jpg

《観音猿鶴図》の鶴の絵です。
長谷川等伯は《竹鶴図屏風》で牧谿のこの鶴を模した作品を
残しています
模写をする中で牧谿の絵の本質的すごさを知ったそうです

DSC_0590.jpg

《観音猿鶴図》の猿の絵です
墨だけで猿のフサフサ感が出ていますね。

DSC_0566.jpg

こちらは長谷川等伯の描いたです。
牧谿を手本にした事がうかがえますね。
猿の毛のフサフサ感と対照的に顔は単純に描かれています。
背景も白くシンプルですね。

tohaku_pine00.jpg

そしてこちらが長谷川等伯の描いた《松林図》です。
(絵が小さいのでクリックし拡大して見てください)

長谷川等伯が離別の悲しみの中で水墨画へと傾倒していく転機と
なった作品です

この松の枝に注目してください
牧谿のような大気と湿度を感じる絵ではありません。

その代わりに無駄を排したこの絵には、【濃く描かれた松】に
力強さ』を、後ろの【薄く描かれた松】に『寂しさや弱々しさ』を
感じますね。

障壁画を完成させた自信と、息子を亡くした寂しさが《松林図》に
映し出されているようで、まさに長谷川等伯自身を松で表しているようです。

この松林は、故郷七尾の海岸の松といわれています。
今、七尾出身でこの《松林図》と向き合いながら活躍する
パティシエがみえます。

次はパティシエと《松林図》について・・・
美味しいケーキ屋さんへ行ってきます

長谷川等伯についてはコチラ↓
e-tera.net/Entry/82/

カテゴリー: 京都 《文化》 | 2件のコメント

長谷川等伯の描いた世界

今回のいい寺は・・・
祥雲寺の障壁画を描いた長谷川等伯についてです★

a0cf0183.jpg

長谷川等伯は能登半島・七尾の出身です。
七尾は、能登畠山氏が拠点した町で、多くの文化人が京・堺から
招かれていました。
当時は、京文化を凌ぐ七尾文化の黄金期だったそうです

c941c45c.jpg

32歳で上洛してから菩提寺の関係で日蓮宗本山・本法寺
寄宿して京都での活動を始めました。
最初は日蓮宗の信徒の支援で仕事を請けていました。

ce997ed0.jpg

本法寺の向かいには、茶道・裏千家の家元今日庵』が
あります。
千家初代・千利休は堺の出身です。
堺の町は日蓮宗の関係が深く、多くの信徒がいました。
長谷川等伯を評価した本法寺の日通上人も堺の出身です。
その関係から、千利休と出会ったのではないでしょうか・・・

千利休は豊臣秀吉の茶の湯の指導者として桃山文化の中心に
いました
そして、長谷川等伯に多大な影響を与えました。

DSC_0588.jpg

当時は、狩野派の絵師が大きな力を持っていました。
その頂点に狩野永徳がいました。

長谷川等伯は狩野派の門下でも働き、狩野派から牧谿(もっけい)
の水墨画まで色々な技法を習得したそうです。
力を得た長谷川等伯は、世の中に自分の名を示すため、
ある行動にでました。

A0Dw5GlJ.jpg

大徳寺三玄院に入り込み襖に絵を描いたのです。

当時の大徳寺の住職は襖に絵を描く事を禁じていました
留守中に勝手に絵を描くという大きな賭けに出たのです。
覚悟の行動でしたが、結果的には評判となり、仕事の依頼が
増えたそうです。

DSC_0690.jpg

ついに大きな仕事が舞い込んできました
祥雲寺の障壁画を描く事になったのです。

依頼の理由は、前年に狩野永徳が亡くなり狩野派が
混乱していた事と、千利休の推薦があったからだそうです。

DSC_0570.jpg

狩野派に対抗できる千載一遇の大チャンスに、長谷川等伯は
息子久蔵とともに狩野派にはない叙情的な自然表現を試み、
見事に仕事を成し遂げました

DSC_0573.jpg

この仕事により長谷川派として大きく飛躍するはずでした。
しかし、そこに悲劇が訪れました。
長谷川等伯の支援者である千利休が切腹し、後継者である
等伯の息子久蔵も急死してしまったのです。

このことが、長谷川等伯にとって大きな転換期となってしまいました。

cd15f2ac.jpg

狩野派は永徳の孫・探幽が跡を継いで、妙心寺の法堂の龍を
描くなど、大いに活躍していきました。

次は悲劇の中から描かれた『松林図』の世界を見てみます

カテゴリー: 京都 《文化》 | コメントをどうぞ

いい寺【智積院】

今回のいい寺は・・・
真言宗智山派の総本山智積院(ちしゃくいん)です★

DSC_0736.jpg

本尊は大日如来です。
智積院は元々、紀州の根来山大伝法院の塔頭寺院でした。
大伝法院は豊臣秀吉との対立から天正13年に根来攻めに遭い
境内伽藍は全て焼失してしまいました

智積院の住職は根来攻めの前にお寺を出て、高野山に入り難を
逃れました。
その後、住職は再興を願って京に入りましたが、豊臣の世では願いは
叶いませんでした。

DSC_0678.jpg

そして、関が原の合戦の翌年に徳川家康の恩命により、
豊国神社境内の宿舎と土地が与えられて再興されました。
さらに三代目住職の時に豊臣氏が滅び、隣接地にあった
豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地も与えられて、規模を
拡大して復興しました。
再興された智積院の正式名称は
五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)
といいます。

64a7d779jpeg

徳川家康豊臣家と所縁のある寺社仏閣を徹底的に排除しましたね。
そこに豊臣秀吉と敵対した寺を立てるとは・・・

2b423988jpeg

当初は、ここに豊臣秀吉が建立した臨済宗の寺院「祥雲寺」が
ありました。

豊臣秀吉は天下を取りましたが、子供には恵まれませんでした。
豊臣秀吉53歳の時の子供、鶴松もわずか3歳で夭折してしまいました。
その夭折した鶴松の菩提を弔うために祥雲寺を建立しました。

DSC_0693.jpg

大書院には、長谷川等伯障壁画のレプリカがありました。
祥雲寺の建立にあたって障壁画を描いたのが長谷川等伯でした。

当時は桃山文化の最盛期で絵画の中心は狩野派の絵師でした。
長谷川等伯を中心にした長谷川派は新興勢力でしたので、
この障壁画を受け持つ事は、長谷川派にとって狩野派に追いつく
千載一遇のチャンスでした
長谷川等伯息子・久蔵と共に心血を込めて障壁画を描いたの
でしょう。

DSC_0694.jpg

祥雲寺が廃寺になった後は、智積院がこの障壁画を所有しました。
智積院は祥雲寺の境内・伽藍をそのまま使用したみたいですね。
徳川家康に追い出された祥雲寺の住職は、鶴松像を持って
本山の妙心寺に帰ったそうです。

DSC_0683.jpg

新築された講堂です。
智積院の講堂はかつて方丈と呼ばれていました。
祥雲寺の法堂が基になっています。
祥雲寺ゆかりの建物自体は、1682年7月に焼失しました。
現在の建物は、平成4年の興教大師850年遠忌記念事業として
計画され、平成7年に完成したものです。

※興教大師は大伝法院を高野山から根来山に移して根来道場とした
 真言宗の中興の祖です。

DSC_0718.JPG

中庭の枯山水も素敵でした。
水の流れや波紋が表現されていました。

DSC_0698.jpg

大書院前の庭です。

利休好みの庭』と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉が建立した
祥雲寺時代に原形が作られました。
その後修復して、東山随一の庭と言われるようになりました。

険しい山に見立て築山から水が流れてくる様子を表現しています。
水落石の下方から水が流れ落ちて、水波分け石が水の流れを
左右に分けています。
中央に見える四角い縦長の石は水添石だそうです。

DSC_0692.jpg

利休好みの庭』なので、醍醐寺の三宝院の庭のような雄大さは
ありませんが、静かに眺めていると心が休まる感じがしました。

真言宗智山派の総本山としての荘厳さと、禅宗・祥雲寺の文化
融合した深みのあるいい寺でした。

カテゴリー: 京都 《歴史》 | 2件のコメント

いい寺【方広寺・いいがかりをつけられた鐘楼】

今回のいい寺は・・・
京都・方広寺です★

豊臣の時代から徳川へと、歴史の節目に登場するお寺です。
創建当時からこれほど政治の渦に巻き込まれた寺も稀でしょう

DSC_0592.JPG

有名な鐘楼・釣鐘の碑文です
国家安康 君臣豊楽』と書かれています。

家康
『「家康の名を二分して国安らかに豊臣を君として
 子孫繁栄を楽しむ」という意味だ
』と怒り、
大阪冬の陣が起こるきかっけとなったそうです。

DSC_0584.JPG

豊臣秀頼は父・秀吉の遺志を継ぎ、徳川家康の助言もあって
失火で焼失した大仏殿と大仏を再建しました。
翌年に建立した鐘楼が豊臣家滅亡の始まりになるとは
思いもよらなかったでしょう・・・

徳川家康は豊臣秀頼に各地に寺社を建立させました。
お金を使わせて豊臣家の財産を減らそうとしたそうです

DSC_0567.JPG

現在は、本堂に1/10の大きさの大仏が祀られています。
といっても誰でも触れるような場所に置かれています
柵も囲いも無く、間近で大仏様を見たのはこれが初めてです

豊臣秀吉が発願した大仏は3度も造られましたが、地震や
失火により姿を消してしまいました。

DSC_0572.JPG

1/10の大仏とはいえ、光背の仏像の顔もキレイです

最初に造られた大仏は、刀狩で集められた武器を材料に
使いました

これが問題だったかもしれませんね。

この大仏は開眼法要をする前に地震で倒壊してしまいました。

豊臣秀吉
「うぬは、京の町を守るを忘れ、真っ先に倒れるとは、慌て者が!」
倒壊した大仏に弓矢を打ちつけたそうです

二度目は大仏を作る途中で、型枠から熱い銅が溶け出し失火して
しまいました
枠がきちんと出来ていなかったようです。

DSC_0587.JPG

豊臣秀頼が造った三度目の大仏も江戸時代に地震で小破してしまいました。
この小破して欠落した部品の銅は、寛永通宝の鋳造に用いられたそうです。

刀狩で集めた大仏の材料は、お金という形で世に還りましたね
寛永通宝は別名『大仏銭』というそうです。

その後の落雷で仏殿・大仏は焼失してしまいました

DSC_0601.JPG

鐘楼内には、大仏の残骸が無造作に置かれていました。
碑文の事件はやはり口実で、徳川家康は最初から
豊臣家を滅ぼすつもりだったのでしょう。
この残骸を見ると、淀君・秀頼親子の無念さを感じます。

DSC_0563.JPG

秀頼が造った大仏の眉の間にはまっていた仏様です。
幕府は地震で小破した大仏を修理したそうです。
・・・ですが、ほとんどを解体し、寛永通宝の材料に
まわしてしまったような気がします。
大仏を思うように修復出来なかったので、この眉間仏を大事に
祀ったのかもしれませんね

DSC_0552.JPG

方広寺には、豊臣秀吉の守り神・大黒天も祀られています。
この大黒天を気にいった秀吉は、1/10の大黒天を作らせた
そうです。
後ろの厨子に入った小さな大黒天は、秀吉が実際に手元に
置いていた
ものだそうです。

DSC_0602.JPG

現在の方広寺の本堂です。
屋根の傷み具合が時の流れを感じます。
鐘楼を見学に来る人は多いけれど、本堂を拝観する人は
少ないそうです。

DSC_0513.JPG

隣接する豊国神社は明治になってキレイに整備されましたが、
明治の廃仏毀釈のせいか、方広寺は対照的に寂れて
見えました

カテゴリー: 京都 《歴史》 | 2件のコメント

京都【豊国神社と豊臣秀吉】

今回のいい寺は・・・
京都・豊国神社です★

豊臣秀吉は亡くなってから、天皇より神号を賜り
豊国大明神』となり、豊国神社の御祭神となりました。

DSC_0508.JPG

徳川家康の大権現は、仏が権(かりの)姿として神に
化身して現れたという意味です。
豊臣秀吉の大明神は、(神は仮の姿ではなく)神そのもの
として現れたという意味です。

DSC_0648.JPG

豊国神社の唐門です。
16世紀末に桃山城より移設したもので、国宝に指定されています。
立派な建物ですね
豊臣家が大阪夏の陣で滅亡した後は、徳川幕府により神号を廃止
されました
社領も没収され社殿は朽ちるがままだったそうです。
明治になって復権し、今の景観になりました。

DSC_0512.JPG

時代の流れに翻弄された神社とは思えないほど静寂な空気に
包まれていました。

fa3c3a91.JPG

建物の装飾金具が豊臣家の繁栄を示しているみたいです。
金具には桐の模様が見えますね。
天皇は関白の職と一緒に桐紋を秀吉に下賜しました。

DSC_0517.JPG

瓢箪型の絵馬が綺麗に飾ってありました。
豊臣秀吉の馬印千成瓢箪に見立ててありますね

DSC_0611.jpg

これが豊臣秀吉の馬印・千成瓢箪です。
戦に勝つたびに瓢箪を増やしたそうです。
元々は、瓢箪の紋が豊臣家の家紋だったそうです。

DSC_0623.jpg

瓢箪型の水筒です。
桐の紋の柄が描かれています。
豊国神社の宝物館には、豊臣家の歴史資料が豊富にあります。

DSC_0644.jpg

豊国祭礼図です。
豊臣秀吉・豊国大明神の七回忌にあたり催された祭礼の様子が
描かれています。
神様なので「法要」と言わずに『祭礼』なのですね★
屏風には、焼失したはずの『方広寺大佛殿』も描かれています。

DSC_0587.jpg

七回忌の祭礼は京のまち衆総出の賑やかな祭となったみたいですね。
(図鑑より)

DSC_0620.2.jpg

(前回訪れた北野天満宮での)北野大茶会の記録図も
ありました
当日は、京都だけでなく、大阪・堺、奈良からも参加者が
駆けつけました。
どの茶席で頂けるかは身分を問わず公平にくじ引きで
決めたそうです。

豊臣秀吉は茶人千利休・津田宗及・今井宗久を迎えて、
自らもお茶を点てて、客人に振舞ったそうです。

太閤秀吉の求めた茶の湯は、豪華で盛大なものでした。
師匠である千利休の求めた『侘び寂び』の世界とは違うものでした。

DSC_0621.2.jpg

豊臣秀吉が炉に炭を入れています
これからお湯を沸かしてお茶を点てるのでしょう

右側に薄く描かれているのは、秀吉から切腹を命じられた
千利休の亡霊です。
千利休は豊臣秀吉に何を語るのでしょう?
私は「侘び寂びこそが茶の湯だ」なんて語りかけているのかな
と思いました。

江戸時代末期の画家・富岡鉄斎の筆による明治時代の作品です。

これは豊臣秀吉を風刺する絵にも見えますね。
江戸時代は、豊臣家にとっても冬の時代でした。
明治になって名誉が回復して、各地の豊国神社が整備され
現在に至っています。

次は豊国神社の隣にある『方広寺』を訪れます

※北野大茶会の記事はこちら↓
  e-tera.net/Entry/78/

 

カテゴリー: 京都 《歴史》 | 2件のコメント

春の訪れ★北野天満宮(2)お茶編

今回のいい寺は・・・
北野天満宮②です♪

DSC_0202.jpg

北野天満宮の紋はだとお話しましたが、
梅と松にはそれぞれの物語があります。

DSC_0210.jpg

天満宮の拝殿の両側には梅と松が植えられています

は成長力があり、絶えず枝を払わないと伸びすぎて
しまいます
木としての寿命は短いそうですが、弱った時は移植すると、
新しい根が出て回復するそうです

は環境の悪い場所でもしっかりと根を生やして、風雪にも
動じません

どちらも私達に生き方を示しているような気がしますね★

DSC_0249.jpg

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 
 あるじなしとて春を忘るな

菅原道真公が、都を離れる寂しさを自宅の梅に託して
詠んだ歌です

春になって東風が吹いたら、香りを風に乗せて送って欲しい…

この梅の一枝が、主人を慕って大宰府天満宮まで飛んで
行きました。
その梅は『飛梅』と呼ばれて、現在15代目が花を咲かせて
いるそうです。

DSC_0164.jpg

堀川通りから一之鳥居をくぐって真っ直ぐ右手に影向(ようごう)松
があります。
ここには、初冬より節分までの間に初雪が降ると、天神さんが
降臨し、雪見の歌を詠まれるという伝説があります。
その時は硯・筆・墨を取り揃えてお供えし初雪祭を行うそうです

この影向松は、まだ若そうです。
何代目でしょう?

菅原道真公が、常に襟に掛けて護持されていた
 仏舎利(お釈迦様の遺骨) が、初雪が降った日に
 大宰府より飛来してこの枝にかかったと伝えられ、
 以後この松を 影向松と呼ぶようになったそうです。

DSC_0186.jpg

天正15年に太閤秀吉が、北野天満宮で大茶会を催しました

町人、百姓・・・誰でも茶の湯の心得のある者は参加できた
そうです
この日に合わせて沢山の茶室が造られ、太閤秀吉自慢の
黄金の茶室も拝殿内に持ち込まれました

茶会では、
茶道具を持っていない者は代わりになる物でいいので参加する事。
 参加しない者は、今後茶の湯を行ってはならない。

という御達しもありました。
太閤秀吉らしい考えですね。

DSC_0184.jpg

当時を偲ぶものとして秀吉が茶の水を汲んだ井戸が、
参道を外れた駐車場の中にあります。
今では茶の心得のある方しか足を止めないかもしれません

DSC_0170.jpg

影向松の西側には茶室『松向軒』があります。
松向軒は、細川三斎が北野大茶会の折に建てた茶室の名ですね。

この茶会のために建てた茶室は、現在は大徳寺・高桐院
移築され現存しています。
松向軒の名は、影向松の下に建てた事が由来だそうです。

DSC_0175.jpg

松向軒の中に井戸があります。
汲み上げる滑車の造りに見覚えがありませんか?
大徳寺・高桐院三斎井戸とそっくりですね
北野大茶会の時に細川三斎はこの井戸を使用したそうです。

DSC_0173.jpg

ここでは毎月第二日曜日に月釜が掛けられて、どなたでもお茶を
頂けます。
命日の2月25日には上七軒の芸舞妓さんによる野点の点前が
あります

毎年12月1日には、社殿で献茶祭が行われます。
各産地の茶壷を奉納して、口切り式の神事を行ったものを
濃茶、薄茶用にひいて一服いただけるそうです。
400年の歴史がある献茶式の抹茶ですから美味しいでしょうね
参加費は5千円です

DSC_0205.jpg

北野天満宮には、まだまだ逸話がありますが、次の機会にします♪

今度は、太閤秀吉の宝物館がある『豊国神社』に行ってみます

高桐院を訪問記はこちらです↓

いい寺【高桐院①】紅葉編e-tera.net/Entry/36/

いい寺【高桐院②】紅葉と三斎井戸編e-tera.net/Entry/37/

いい寺【冬の高桐院】茶室編→ e-tera.net/Entry/57/

カテゴリー: ☆お茶とお花☆ | コメントをどうぞ

春の訪れ★北野天満宮(1)

今回のいい寺は・・・

3月になりました★
これから春の花が色々と咲きますね

DSC_0107.jpg

今は梅の花が見ごろのようです。
そこで今回は梅の名所、京都・北野天満宮を訪れました

DSC_0198.jpg

天満宮の梅は3~5分咲きでした。
ここには2000株の梅があり、早咲き、中咲き、遅咲き・・・と
3月の終わりまで楽しめるそうです

DSC_0195.jpg

天満宮といえば、梅と共にが有名ですね
楼門を潜ってすぐ右に見える牛の石像です。
数ある牛の中で1番優しい顔をしていました。
天満宮では、牛が神使とされています

天満宮に祀られている菅原道真公は丑年生まれで、
京の都より九州・大宰府に左遷された時に牛に乗って
下り、亡くなった日も丑の月の丑の日だそうです

菅原道真公は幼少の頃より文才を表して学問に勤しみ、
朝廷の官吏として活躍したそうです★

江戸時代になると寺子屋の精神的中心として、
天神様・菅原道真公が祀られたそうです。

以来学問の神様として信仰されていますよね
DSC_0203.jpg

梅の咲く頃は受験生のお参りも多いですね


DSC_0219.jpg

参詣者の願いを天神様に伝える大鈴です

DSC_0215.jpg

皆さんが一心にお願いする姿が鏡に映し出されています。
「天神様にはこのように見えていますよ」という事ですね

DSC_0229.jpg

社殿は平成の大修理で金具や彫刻の彩色が鮮やかになっています。
変色した木の部分とは対照的です。

DSC_0208.jpg

銅版の屋根は緑青錆の皮膜で、風雨から建物を守っています。
杮葺きの屋根ではがその役目をしているみたいです★
文化財の修理は、現状を維持しておく部分もあるのですね。

DSC_0238.jpg

社殿は曲線と直線と曲線の反りが混ざり合いながら目立たず
上品な造りです。
文化遺産の名にふさわしい、日本建築の芸術的作品ですね。
残念ながら、今は環境破壊のせいで良い材料が揃わないそうです。

DSC_0240.jpg

絶え間なく訪れる参拝者。
お孫さんの合格祈願でしょうか

DSC_0239.jpg

北野天満宮の紋はです。

次回は松の話も含めて周辺を散策してみます

カテゴリー: ☆お茶とお花☆ | 2件のコメント

桃の節句★ひな祭り

今回のいい寺は・・・
桃の節句・ひな祭りについてです

DSCN2639.jpg

昔の雛人形です。
にぎやかな飾りではありませんが、上品な感じがしますね。
最近は小さくて手間のかからない雛人形が流行っているそうですが…

裏方の世界では、女性の人形作家が増えているそうです。
雛人形は女性が選んで買うもの、女性が作るのは自然の流れ
だそうです。
優雅で洗練された平安美を受け継いできた男性人形師から
繊細さと豊かな色彩感覚を持った女性作家へと受け継がれて
いくのですね

DSCN2546.jpg

今回は名古屋市内にある懐石料理志ら玉』で頂いた桃の節句の
食事を紹介します

ここは茶人には知られたお店で、茶事も行われます。
茶事では各流儀にのっとった懐石を出すそうです。

DSCN2575.jpg

店の中に路地があり部屋までの間も楽しめます。

DSCN2598.jpg

蛍光灯とは違う柔らかな間接照明が温かく迎えてくれます。

DSCN2553.jpg

入口の襖には、茶釜の種類を示した絵が張ってありました。
釜の種類はたくさんあるようです。
昔は紙が貴重だったので、襖の下地に手紙や半紙を使ったそうです。

DSCN2599.jpg

床の間には、立ち雛の軸が掛けてありました。

ひな祭りには、身の穢れを流し浄める意味があるそうです。
人間の身代わりの人形(ひとがた)をつくり、それを撫でて、
人形に穢れを移して流す『流し雛』の行事もありますね。

DSCN2587.jpg

こちらは先付けです。
菱餅を思わせる『還し紙』、ハマグリの貝の上には菜の花と
白魚空豆、にんじん、麩で菱餅の色を表していますね♪

DSCN2592.jpg

ひな祭りの料理といえば、ちらし寿司とハマグリの澄まし汁ですね
子供の健康を願って作るご馳走です

DSCN2625.jpg

ここではシメの食事にトロロ麦飯がでます
あっさりしているのでお腹がすっきりします。

DSCN2550.jpg

懐石料理のイメージとは違って随分と質素な印象を受けませんか?

懐石』は禅宗の修行僧の夕食・薬石が名前の由来となっています。
本来は、豪華な料理ではなくお茶をおいしく味わう上で差し支えの
ない程度の軽食
を示すそうです。

昔は『懐石』=「一汁三菜」の質素な食事でしたが・・・
今では、懐石料亭文化が融合し豪華な料理の代名詞に
なっているようです。
本来、お酒を美味しく頂く豪華な料理は『会席』といいます。

DSCN2582.jpg

この建物は各地の古民家を移築したそうです。
食事だけでなく空間をも楽しむ事ができるお店です。

カテゴリー: ☆お茶とお花☆ | 2件のコメント

道を貫くということ。

今回のいい寺は・・・
名古屋のとあるお寺を守る庵主様のお話です♪

庵主様とは尼僧の事で、お寺めぐりをする中でふとした事から
出会いがありました。

DSC_0087.JPG

京都のお寺には立派なお堂やお庭があります。
趣向を凝らした素晴らしいお庭が沢山あります。

しかし、私はこのお花を見てかわいい!と思いました

自分の好きな花をちょこっと植えたりして季節を楽しむ・・・
それが本来の庭かもしれませんね

6f9e0e52.JPG

『洗心』とは・・・
とらわれ・かたより・こだわりの3つの心の垢を流しましょう
という意味だそうです。

庵主様は「いつも感謝をしなさい」、
一度嘘をつくと信用は取り戻せない。素直な心で生活しなさい
とおっしゃいます。
当たり前の事かもしれませんが、『ありがとう』という言葉が
自然に出る人になりたいと思います。

P2230112.JPG

偶然にも私と同じ名前の庵主様。
水上勉の様に3歳でこのお寺へ来ました。
ただ違うのは口減らしのために来たわけでは無かったという事。

何度もお邪魔していますが多くは語らない庵主様・・・

一緒に写真を撮ろうと言っても
「シワくちゃだからいやだ」といって撮ってくれません。
とっても笑顔が素敵な方なのですよ!!

お寺へ入ったきっかけを聞いたところ、ただ一言
まんじゅうをくれるというから付いて来てしまったのだよ」と。

今でこそ「まんじゅうくらいでお寺に入るなんて信じられない」
という時代ですが、当時は尼僧になる人が多かったようです。

雁の寺』を書いた水上勉は寂しくて何度も寺を抜け出しています。
庵主様に3歳で親と離れて寂しくなかったのかと聞いたら・・・
『親は会いに来なかったね。(親子の縁が)薄情なんだわ』とポツリ。

親は(不本意ながらも)選んだ道を最後まで進んで欲しかった
のではないでしょうか?
だから会いに行けなかったのではないかな・・・

「薄情だ」と言いながらも今年母親の50回忌だからきちんとして
あげたいんだとおっしゃっていました。

お寺に入る道を選び、この道を生きてきた人が今もここにいる。
女性にとって生きていくには少々辛い道でもあるようです。

檀家を持たず、月参りで主たる生計を立てている。
欲は無く、生きていけるだけのお金があれば十分だと。

DSC_0097.JPG

口数の少ない庵主様はたまに見せるやさしい笑顔で私達を癒し、
生きていく上での大切なことを少しずつ教えてくれます。

説法を聞くよりもよっぽど世の中の事がわかるからと勧められた
御詠歌」は仏の教えを分かり易く歌にしたものです。
お経の本は難しいですものね・・・

楽しみが無い修行生活の中で唯一の楽しみだったそうです・・・
今でも庵主様に御詠歌を習いに町の人が集まってきています。

0efa66e2.jpg

昔むかし、石の観音様が辻(交差点)にあり皆が手を合わせて
いました
大正元年に観音様を祀る為にこのお寺を建立し、尼僧が入り
寺を運営していったそうです。

農協のように町の人の憩いの場として使われていたそうです。
しかし、最近は訪れる人が減ってしまったそうです。

DSC_0075.JPG

大師堂には弘法様が祀られています。

0ee3af49.JPG

町のお寺らしく誰もがお参り出来るように壁には数珠が掛けられていました。

8c898264.JPG

しかしこの弘法様は高野山へ背負って持っていくのだそうです。
自分がこの先長くはないので、世話をする人がいなくなっては
申し訳ないからだそうです。

庵主様は満85歳。
後を継ぐ者はいないそうです。
少しずつお寺をたたむ準備をしているようにも思えました。

376932db.JPG

こちらは先代の庵主様。
とってもやさしそうなお顔です。
3歳でこのお寺へ来てからずっと共に生きてきたお師匠様
「この方から色々なことを学んだよ」と・・・。
お師匠様が亡くなって35年間たった一人でお寺を守ってきました。

『次は私の番だね』と・・・

いつまでもここで元気なお顔を見せてくださいねという私の言葉に、

死んでも魂はここに残るさ

庵主様にとってはこの場所が自分のですものね!

カテゴリー: 名古屋 《文化》 | 8件のコメント